医療や看護、介護といった領域のみならず、人文/社会科学においても、「ケア」という概念がここ数年注目を集めています。日常生活においても、パンデミック以降は「ケア」という言葉に触れる機会は増えたことでしょう。
この「ケア」が、「何をすべきか」という道徳判断を問い、人間の生き方やあり方を探求する学問である倫理学においても注目されています。人間の生き方やあり方を考えるうえで、なぜケアという視点が重要なのでしょうか?
道徳判断の前提条件である「問題の枠組みそのもの」を捉え直す「ケアの倫理」を研究する冨岡薫さんに、「依存」と「脆弱性」という視点を起点とした「問い直しの倫理学」の射程について論じていただきました。
冨岡 薫(とみおか・かおる)
慶應義塾大学 文学研究科 哲学・倫理学専攻 倫理学分野 後期博士課程。専門はケアの倫理。論文に「ケアの倫理の「自律」批判再考――ケア提供者の被る抑圧の問題をめぐって」(『倫理学年報』第71集、2022年)、「ケアの倫理における「依存」概念の射程――「自立」との対立を超えて」(『エティカ』、2020年)、共訳書に『ケア宣言――相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)など。
いま、「ケア」という言葉が「流行(はや)って」いる。
ここ数年の新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、「ケア」という言葉を日常で耳にする機会が多くなった。医療・介護・保育の現場や、食料品・日用品を売る販売員や配達員の人びとの労働状況が逼迫するなかで、私たちは今まで当たり前のものとして受けていた「ケア」が受けられなくなるという事態に直面し、普段からどれほどその人たちの「ケア」に支えられていたのかが明らかとなった。「ケア」とともに人口に膾炙(かいしゃ)した「エッセンシャルワーク」という言葉は、それらの職業がまさに私たちの生活に「不可欠な仕事」であるということを意味している。また、外出が制限され、ソーシャル・ディスタンスをとることが求められるなかで、私たちは手洗いうがいやマスクの着用、体温計測など、自分自身の体調を「セルフケア」することが一段と求められるようになった。
このように日常的な場面で「ケア」を意識することが多くなった一方で、学問においても「ケア」は盛んに論じられるようになってきた。私たちの日常における「ケア」の実践が多様であるように、学問における「ケア」も、一括りで論じることはできない。それは、それぞれの「ケア」の議論が生じてきた背景や、焦点を当てる中心的課題が、必ずしも同じではないからである。たとえば「ケア」を論じる分野は、日本においてもよく知られたトピックである「看護ケア」や「ケアの現象学」のほかに、心理学や教育学、政治学、行為の哲学、文学など多岐にわたるが、それらは「ケア」という言葉でゆるく繋がった共通点をもつ一方で、参照する文献など、その学問的議論の由来が同じであるとは限らない。
このように「ケア」の議論が多様なバックグラウンドをもつということを踏まえた上で、本稿ではそのなかでも特に、「ケアの倫理(care ethics/ ethics of care)」と呼ばれるものに焦点を当ててみたい。「ケアの倫理」とは、アメリカの心理学者キャロル・ギリガンの著作『もうひとつの声で』(1982)にその起源を見出すことができるが、日本では近年特にギリガンからの流れを引き継ぐ「ケアの倫理」の関連書籍が多数出版され、受容されるようになってきた(注1)。そして「ケアの倫理」の始まりから40年の時を経た今年(2022年)の10月には、『もうひとつの声で』の待望の日本語版新訳が刊行されるに至っている(注2)。
なぜ「ケアの倫理」はいま「流行って」いるのだろうか。それは、「ケアの倫理」がいまの私たちの生き方や世界の見方を捉え直すポテンシャルを依然としてもち続けており、かつ私たちの生活や思考のあり方を見直すことが求められている現在、まさに「ケアの倫理」から物事を考えることが重要になってきているからである。いま私たちはどんな時代を生きているのか――それを、「ケアの倫理」から問い直してみよう。
「ケア」とは何か
そもそも、「ケア」とは何なのだろうか? 「ケア」とカタカナで書かれても、実感としてそれが何を意味するのか、ニュアンスがわかりにくい。実際に「ケア」は2文字から成る簡単な言葉でありつつ、それぞれが密接に絡まるような多層的な意味合いが込められているものでもあり、その内実を理解するには一筋縄ではいかない。そこで以下では、「ケアの倫理」の話題に入る前に、「ケア」についての共通理解を共有するために、その定義をある程度抽出できないか試みてみる。「ケア」が意味するものの輪郭を鮮明にしていくために、さまざまな場面における「ケア」について想像してみよう。その際、「ケア」を日本語で考えることはできるだろうか?
「ケア」=「世話」?
たとえば、「ケア」を「世話」と訳すのはどうだろうか。上記のエッセンシャルワークの事例のように、「ケア」という言葉で看護や介護、家事、育児などを思い浮かべたひとは、この訳でぴったりと思うかもしれない。また、私たちは中学校の英語の授業で、 “take care of〜”という熟語を「〜の世話をする」という意味で教わっただろう。このように、たしかに「ケア」には、「世話」という言葉で表されるような「直接相手に手をかける実践」が含まれている。
しかし、「ケア」とはこれらの具体的な「世話」しか意味しないのだろうか?
そもそも、なぜ私たちは他者の「世話」をする必要があるのだろうか? それは、人間は他者から「世話」されることなくして、生きるために必要なニーズを満たすことができない存在だからである。放っておけば死んでしまうひとを目の前にすれば、私たちはそのひとを助けなければならないという責任を感じるだろう。
また翻って、私たち自身も、他者から「世話」される存在である。それは、私たちが子どもだったときのことだけを指しているのではない。私たちは病気や障害を負っているときや、高齢になったときにも他者の「世話」になるが、それだけでなく、私たちは「これが当たり前」と思えるときでさえ、他者から「世話」されていると言うことができる。たとえば、私たちの「食」を支えるエッセンシャルワークの事例をとってみても、私たちは農家の人びとが作物を育てることや、食品メーカーの人びとがその作物を加工して食品にすること、スーパーの店員がその食品を販売すること、配達員がその食品を手元まで運んでくれること、そして、清掃業の人びとが食べ終わった容器をゴミ処理場まで運んでくれることに頼っている。すなわち、私たちは普段から数えきれないほど多くの他者の「世話」になっているのである。
私たちは子どもから大人へと成長するにつれて、他者から「自立(independence)」していくことを教えられる。しかし、私たちが普段からさまざまな人びとの「世話」になっているという事実に気づき、またその「世話」を人間が生きるうえでなくてはならないものとして価値づけるのならば、私たちはひとりひとり独立的に自立しているのではなく、実は「他者に依存(dependence)することによってしか生きることのできない、脆弱な・傷つきやすい(vulnerable)存在である」ということを認められなければならない。
もし、私たちはどのような存在であるのか、そして私たちは誰に対して責任があるのかという「思考」を根本から変えることがなければ、「他者を世話するというケアの実践」は不可視化されるか、一部のひとのみが関わる劣ったものとみなされてしまうことになる。このような、人間を依存的で脆弱な存在であるとみなすケアの「思考」は、「ケア」を「世話」と訳したときに見えにくくなってしまう一側面であるだろう。
「ケア」=「思いやり」?
「ケア」の訳について、パッとイメージできるものをもうひとつ考えてみよう。それは「思いやり」という訳である。私たちが誰かを「ケア」する場面を想像するとき、その人に対する愛や情緒溢れる気持ちも一緒に湧き上がってくるだろう。このように、「相手に心を配る、気遣う」という意味での「思いやり」という言葉は、なるほど私たちの思っている「ケア」のイメージに合致するかもしれない。また他者を「思いやる」ということは、エッセンシャルワークなどの特定の職業や役割を担う人びとに限られないため、より多くのひとの「ケア」の実感に即しているかもしれない。
しかし、「ケア」は「思いやり」という、いわゆる「気持ちの問題」だけに還元されるものだろうか。
もちろん「ケア」には、「気持ち」だけでなく、実際に手をかける「世話」も関わるが、はたしてそれだけだろうか。やはりエッセンシャルワークの事例で考えてみよう。私たちは日々エッセンシャルワーカーの人びとからケアされているが、先に見たように、「人間は相互に依存する存在である」ということを考えたときに、私たちもなんらかの仕方でエッセンシャルワーカーたちを「ケア」する責任がある。
では、何をすればその人たちを「ケア」したことになるだろうか。拍手や称賛の声によって、自らの感謝の気持ちを伝えることだろうか。もちろん、これも「ケア」の一部である。しかし、エッセンシャルワーカーたちにとっては、感謝の気持ちだけでなく、給料などの労働条件を含めた「制度的・構造的な問題」が見直されることも、「ケア」になるかもしれない。
最悪の場合、「ケア」を「気持ちの問題」として片付けてしまうことは、その制度的・構造的な問題に取り組まない言い訳にもなりうる(注3)。このように、ケアされるひとのニーズが何であるのかを注視するならば、「ケア」には気持ちだけでなく、実質的な「制度」そのものを改革していく視点も含める必要があるだろう。
実践、思考、心性、制度を包摂する「ケア」
ここまで、「ケア」に当てはまりそうな日本語を検討することで、イメージしづらいカタカナの「ケア」が何を意味しうるのかについて考えてみた。「ケア」には、「世話」という「実践」や、「思いやり」という「心性」に関わる部分もあるが、それだけでは「ケア」の全体像を掴めそうにない。すなわち、ケアを価値づける根本的な「思考」や、ニーズとしての「制度」の観点からも、「ケア」は考えられる必要があるのである。
筆者の知る語彙の範囲では、そのような包括的な「ケア」を表してくれる端的な日本語を見つけられそうにない。そこで本稿では、ケアの「実践」、「思考」、「心性」、「制度」の側面を包摂することを考慮に入れ、「ケア」を、「他者との関係性のなかで、他者(あるいは自己)の脆弱性に対する応答責任を果たそうとすること」として差し当たり定義したい。このような「ケア」理解のもとで、以下では「ケアの倫理」の視点からは何が見えてくるのか、そして「ケアの倫理」はいまを生きる私たちの世界をどのように照らし出してくれるのかについて、考えてみよう。
「ケアの倫理」と「いま、私たち」
「ケアの倫理」とは何か
「倫理」とは、私たちの生活における規範、すなわち何をすべきであり、何をすべきでないかについてのルールを指す言葉である。もっと平たく言うならば、「倫理」とは人間の生き方や、そこで前提とされている人間のあり方を指す。
先に論じたように、現在「ケアの倫理」として論じられているものの潮流は、ギリガンの著作『もうひとつの声で』にまで遡ることができる。ギリガンの「ケアの倫理」とは、従来の倫理、すなわち今までの人間の生き方やあり方が、偏った価値観に基づいて構築されてきたことを批判するものである。ギリガンによれば、従来の倫理は、他者から自立していること、理性的であること、規則に基づいていること、人びとの権利をベースに思考すること、そしていつでも・どこでも・誰にでも普遍的に通用するような判断を下すことを、その理論の基盤としていた。
それに対してギリガンが提唱した「ケアの倫理」は、関係性のなかで他者に依存していること、感情を大切にすること、文脈依存的に判断すること、他者(や自己)への責任をベースに考えはじめること、そして個別的な状況において目の前の具体的な他者に応答することを基盤としている。従来の倫理においては、このようなケア的な視点は見過ごされてきたか、指摘されたとしても倫理的に劣ったものとしてみなされてきた。しかしギリガンは、本来人間が生きるために不可欠であるはずの「ケア」を、倫理的に再評価することを試みたのである。
従来の倫理を批判し、そのオルタナティヴとして「ケアの倫理」の重要性を論じるギリガンの議論を理解するうえで、もう一点だけ言及しておきたい。それはギリガンが、このような「ケア」の思考が女性に偏って見出されるということ、すなわち「ケア」の役割が女性に偏って分配されているということを批判的に指摘したということである。これは、「ケア」を女性の本質とみなすことと、「ケア」の価値を低いものとみなすことの両方を同時に批判するものである。すなわちギリガンの主張は、現在低く見積もられている「ケア」の価値を再評価したうえで、「ケア」を「女性の倫理」ではなく、「人間の倫理」として再定位しようとする試みであった(注4)。このような意味でフェミニスト的な視点を備えているということが、ギリガンから続く「ケアの倫理」のもうひとつの特徴と言えるだろう。
ここまで、「ケア」とは何か、そして「ケアの倫理」とは何かについて考察をしてきた。それでは一体、なぜここまで「ケア」や「ケアの倫理」は「流行って」おり、またなぜそれらにこだわる必要があるのだろうか? 「ケアの倫理」を論じる重要性はもっとたくさんあるが、ここでとりわけ取り上げたいのは以下の2点である。ひとつは、「倫理学的思考」に関わるものであり、もうひとつは、「『ケア』をめぐる力関係」に関わるものである。
「ケアの倫理」から考える「倫理学的思考」:道徳判断のそのあと
倫理学とは、人間の生き方やあり方を探求する学問である。倫理学においては、私たちは何をすべきであり、何をすべきでないかという規範を問うために、たとえば「仮想的な道徳的ジレンマ」というものが取り上げられる。以下では、ギリガンが『もうひとつの声で』で批判的に取り上げた「ハインツのジレンマ」をもとに、従来の倫理学にはどのような問題があるのか、そして「ケアの倫理」は倫理学のあり方そのものをどのようにつくりかえていくことができるのかについて検討したい。この「ケアの倫理」からの指摘は、倫理学という学問だけに関わる問題ではなく、私たちの実際の思考方法全般に関係するものである。
「ハインツのジレンマ」とは、以下のものである。
ハインツは病気の妻と暮らしている。薬屋は妻の具合がよくなる薬を持っており、その薬を飲まないと妻は死んでしまう。しかし、ハインツは薬を買うお⾦を持っておらず、薬屋もハインツに薬を渡すことを拒んでいる。ハインツは薬を盗むべきか?
「盗むべきか?」と問われたら、その答え方は「盗むべきである」、あるいは「盗むべきではない」であろう。では「盗むべきである」、あるいは「盗むべきではない」理由は何なのだろうか? たとえば、「盗むべきである」と答える人は、「ハインツの妻の命は薬屋のお金や財産に代えがたいものである。そのため、妻を見殺しにするのではなく、たとえ盗みを犯したとしてもその命を救う方が大事である」と考えるかもしれない。あるいは「盗むべきではない」と答える人は、「『盗みを犯してはならない』という、社会で決められたルールを破るべきではない」、あるいは「盗んだとき、薬屋が、さらには妻が悲しむかもしれない」と考えるかもしれない。
倫理学を学んでいると、このような仮想的な問いはたくさん事例に挙げられる。そのため、倫理学の思考方法に慣れ親しんだひとならば、このような問いには比較的簡単に答えられるかもしれない。
しかし、初めてこのような問いを投げかけられたとき、どこか答えに窮するような感覚を抱かないだろうか。それはおそらく、「これは二者択一によって答えることができる(答えられるべき)問題なのか?」という疑問である。
「盗むべきか盗むべきでないか、どっちかなんて選べない。だって、盗むべきでもないし、かといって妻を死なせてもいけないから。」(注5)
二者択一のジレンマに、あえてこのような仕方で答えるならば、そこでは「盗むべきである」あるいは「盗むべきでない」という道徳判断がなされたそのあとのことについて考えられている。仮にハインツが薬を盗むべきだったとして、そのあとはどうなるのだろうか? 妻の病状がよくなったとしても、ハインツは罰せられ、牢屋に入れられるかもしれない。あるいは、ハインツが薬を盗むべきでなかったとして、そのあとはどうなるのだろうか? 盗みを犯さず、それでもハインツの妻を助ける方法を、周囲の人びととともに考えることはできるだろうか?
ここに登場する人物たちの人生は、この瞬間の道徳判断のあとにも続く。この人たちは、このあとどう「ケア」されていくべきなのだろうか? 道徳判断のそのあとのケアを考えるならば、その個別具体的な状況を考慮しなければならない。そもそも「ハインツ」とはどのような人物なのだろうか? その「妻」は、今までハインツとどのような関係性を築いてきたのだろうか? 「薬屋」は、なぜこうも頑なに薬を提供してくれないのだろうか? 周囲の人びとはいったい何をしているのだろうか? ハインツとその妻を支援することのできる制度はないのだろうか? そしてそもそも、なぜこのような究極の選択を強いられる場面が設定されてしまっているのだろうか?
このように考えてみると、従来の倫理学は「何をすべきか」という道徳判断を問うのに対し、「ケアの倫理」はその問いの抽象性を批判すると同時に、個別具体的な状況を踏まえて、道徳判断のそのあとのことを考えると言えるかもしれない。これは、その判断が「本当にそれでよかったのか」を問い直すことを含んでいる。
もちろん一方で、何をすべきであり、何をすべきでないかという規範をつくっていくことは、その規範から判断して虐待や抑圧的な状況におかれているひとを救うことができるという点で、「ケアの倫理」においても不可欠なことである。しかし他方で、先にも説明したように、「ケアの倫理」は従来の倫理学が「規範」として定めてきたものが「実は絶対的な規範ではないかもしれない」ということを指摘し、その規範からこぼれ落ちてきた、「ケアすること」に中心的な価値をおく声を拾い上げてきた学問である。
この「ケアの倫理」からの指摘は、従来の倫理学に対する学問的な批判にとどまるものではない。それは、私たちの実際の思考方法全般を捉え直すきっかけを与えてくれる。もちろん私たちの日常の判断においても、理論や原則に立ち返り、抽象的な仕方で物事を考えることは重要である。しかしそれと同時に、そこで問題になっているのは「誰」なのか、その人はどのような仕方で周りの人びとと関わっているのか、さらには個人に注目するだけでなく、制度などその人の置かれた構造的な状況そのものを変えていくことが「ケア」につながるのではないかと考えていくこともできる。「ケアの倫理」は、すでに与えられた「問題の枠組みそのもの」を捉え直すポテンシャルをもった学問、いわば「問い直しの倫理学」なのである。
「ケアの倫理」から考える「『ケア』をめぐる力関係」:誰が「ケア」を語るのか
もうひとつ、「ケアの倫理」を論じる重要性を、「『ケア』をめぐる力関係」の観点から考えてみよう。
先では、自立や理性、規則、権利、そして普遍に価値をおく従来の学問に対して、ケアの倫理は依存や感情、文脈依存、責任、個別具体に価値をおくことの重要性を指摘したと論じた。このように「ケアの倫理」が批判する従来の学問は、「ケアの倫理」によって「正義の倫理(ethics of justice)」と呼ばれている(もちろん、「ケアの倫理」においてもある意味で「正義」の観点は欠かすことのできないものであり、現在のケアの倫理学者たちは「ケアの倫理」に基づいた「正義」を論じている)。このような「ケアの倫理」の戦略にみられるように、「正義の倫理」で染まった学問や実生活の価値観を転換するには、そもそも人間をどのようなものとして捉えているのかという思考を転換する、すなわち「私たちはみな依存している」、「私たちはみな脆弱な存在である」という人間観を前面に打ち出していく必要がある。
「私たちはみな依存している」という思考は、「ケアの倫理」を論じるうえでの大前提である。これに同意しない「ケアの倫理」は、「ケアの倫理」と呼ぶことさえできないだろう。
しかし、「私たちはみな依存している」一方で、私たちはそれぞれの文脈において、他のひとより依存していたり、他のひとより依存していなかったりもする。なかには、依存のなかにも道徳的によいとはみなされないものもあるかもしれない(この規範は文脈に基づいて常に問い直されるだろう)。すなわち私たちは、人間の存在のあり方として「みな依存的である」と同時に、その依存の程度や内実は個別的な仕方で異なっている。
このことを踏まえると、「みな依存的である」という主張を無批判に受け入れることは、個別の仕方で考慮されるべき依存を覆い隠してしまうことにつながるかもしれない。そしてしばしばこのような「覆い隠し」は、力関係のあるところで生じうる。
たとえば、立場の弱いひとと強いひとの間には、それが「実践的な世話」であるか、「思いやりの気遣い」であるかにかかわらず、立場の弱いひとが強いひとをなんらかの仕方で「ケア」しなければならないというような力関係がしばしば働く。この「ケア」は抑圧的で搾取的なものでありうる。さらに悪いことに、立場の強いひとは自らがそのように「ケア」されている(他者の「世話」や「思いやり」に依存している)ということに無自覚であり、自分が他者にまったく頼らずに「自立している」と思っていることさえある。
このようなひとが、自らも他者に依存する脆弱な存在であるということを認識することは重要であろう。しかし、立場の弱いひとが強いひとに対して自らの窮状を訴えたときに、立場の強いひとが弱いひとに対して「私も依存的で脆弱な存在なのである」と主張したならば、それは何を意味することになるだろうか? それは、もともと力をもっているひとが、力をもっていないひとの訴えを封じ、力をもっていないひとたちをさらに周縁化するような機能を果たしうる(注6)。
先の説明で、「ケアの倫理」はフェミニズムの流れを汲むものであるということを論じた。そこでの「ケア」とはもともと、その声を封じられ周縁化されてきた女性たちから訴えられてきたものである。このような歴史的な背景を踏まえるならば、「ケア」とそれにまつわる言葉や概念は、一方では既存の不平等な構造を変革していくものであった。しかし他方では、上記で見たように、「ケア」はその不平等な構造を変えることなくむしろ維持していこうとする言葉としても用いられる可能性がある。実際に今に至るまで、「ケア」という言葉は、本来「ケアの倫理」と相反するような資本主義や新自由主義、そして保守的なケアを主張する論理においても主張されてきた。
このことを考慮するならば、倫理学は「正義の倫理」対「ケアの倫理」という枠組みにおける「ケア」概念だけに着目してそれを論じるのではなく、その言葉がどのように使われているのかという政治的側面(ポリティクス)を踏まえた議論を展開する必要がある。また、「ケア」という言葉が肯定的な意味合いで多様に流通するようになった現在、倫理学という学問においてだけでなく、日常生活においても、「ケア」という言葉を聞くときには、その言葉を誰が使用しているのか、そしてその言葉は誰のために使われているのかという文脈的な力関係を念頭におくことが重要となってくるだろう。
いま私たちはどんな時代を生きているのか――いま、「ケア」という言葉が「流行って」いる。「ケアの倫理」も「流行って」いる。それは「ケアの倫理」が、倫理学的な思考方法を転換してくれるという点で、私たちの生き方や世界の見方を捉え直す視点を依然としてもち続けているからである。さらに、「ケア」が流行っている現在、誰が「ケア」を論じており、そこでの「ケア」とは何なのかについて常に問い続けることが、私たちに要請されている。
一方で、私たちが人間を依存的でケアする存在として認めるならば、この「ケア」の流行は単なる「流行り」であってはならない。そして「ケア」に関わる人たちにとっては、「ケア」は今も昔も単なる「流行り」ではなかったはずである。
私たちが倫理的な観点から「ケア」について考えるべき問題は、はてしなく存在している。そして、それらは時代や状況とともに今後も常に捉え直されるべきものである。たとえば、どのようなニーズを満たすことができれば相手をよく「ケア」したことになるのだろうか? その満たされるべきニーズは誰が決定するのだろうか? そのニーズを満たす「ケア」責任は誰が負うべきなのだろうか? そのような身近にひそむ「ケア」について、まず考えることからはじめてみよう。
謝辞
本稿執筆にあたり重要なご指摘をくださった、木下頌子氏、中根杏樹氏、渡辺一暁氏、そして、小池真幸氏をはじめとするDe-Silo編集部の方々に、心より感謝申し上げます。
注・参考文献
(注1) たとえば以下のものが挙げられる。2020年から刊行順。
ジョアン・C・トロント、岡野八代、2020年10月、『ケアするのは誰か?新しい民主主義のかたちへ』、白澤社。〔Tronto, Joan, C.. 2015. Who Cares? How to Reshape a Democratic Politics. Cornell University Press.〕
中村佑子、2020年12月、『マザリング:現代の母なる場所』、集英社。
元橋利恵、2021年2月、『母性の抑圧と抵抗:ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義』、晃洋書房。
ケア・コレクティヴ、2021年7月、『ケア宣言:相互依存の政治へ』(訳:岡野八代、冨岡薫、武田宏子)、大月書店。〔The Care Collective, 2020, The Care Manifesto: The Politics of Interdependence, Verso.〕
小川公代、2021年8月、『ケアの倫理とエンパワメント』、講談社。
マイケル・スロート、2021年11月、『ケアの倫理と共感』(訳:早川正祐、松田一郎)、勁草書房。〔Slote, Michael. 2007. The Ethics of Care and Empathy, Routledge.〕
(注2) ギリガン・キャロル、2022年、『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』(訳:川本隆史、山辺恵理子、米典子)、風行社。〔Gilligan, Carol. 1982. In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development. Harvard University Press.〕
(注3)「思いやり」の問題性については以下も参照。
神谷悠一、2022年、『差別は思いやりでは解決しない:ジェンダーやLGBTQから考える』、集英社。
(注4) この点に関してはギリガンの以下の著作も参照。
Gilligan, Carol. 2011. Joining the Resistance. Polity Press.
(注5) これは『もうひとつの声で』のなかに登場するエイミーという少女の応答の仕方であり、ギリガンはこれを「ケアの倫理」の視点であるとみなしている。
(注6) 「ケア」と、それが用いられる文脈や力関係の問題についての指摘は以下を参照。「ケア・コレクティヴ」という研究者グループは、「ケア」という言葉が、本来「ケア」とは相容れないはずの行為をよく見せるために用いられてしまうことを、「ケア・ウォッシング」と呼んでいる。
Narayan, Uma. 1995. "Colonialism and Its Others: Consideration on Rights and Care Discourses", Hypatia, vol. 10, no. 2, pp. 133–140. Wiley.
The Care Collective, 2021, “The Interdependence of Care: A Conversation with The Care Collective” (by Linda Kopitz), NECSUS, vol. 1, pp. 243–251, Amsterdam University Press. 〔ケア・コレクティヴ、2022年、「ケアの相互依存」(訳:冨岡薫)、『tattva』、第5号、pp. 124–139、株式会社ブートレグ。〕
Tronto, Joan, C.. 2013. Caring Democracy: Markets, Equality, and Justice. New York University Press.
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