「プラグマティズム」から考える仮説的思考、あるいは哲学の魔法|哲学者・谷川嘉浩
できる限り無駄を排し、効率的に「答え」にたどり着く。あるいは先行きが見えない中で、とにもかくにもスピーディーに「実践」してみる──こうした考え方は、現代社会において、半ば当たり前のように善だとみなされています。
しかし、一様に「答え」や「実践」が求められるこの風潮が、違和感や息苦しさを生んでいることもあるはず。そこで紹介したいのが、世界を「仮説」の集積として捉える哲学的立場、プラグマティズムです。生きるための“方向感覚”としての仮説の意味、そしてプラグマティズムという哲学の射程について、哲学者の谷川嘉浩さんに寄稿していただきました。
谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
哲学者など。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科特任講師。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。学際的な学部・大学院で学問を修めたこともあり、マルチリンガルのように多専門性を心掛けた研究を展開している。著書に、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)他多数。訳書に、マーティン・ハマーズリー『質的社会調査のジレンマ』上下巻(勁草書房)。
加速社会では「答え」が求められる、しかし……
私たちの生きている社会には、しばしば「加速社会」というラベルが当てられる(ハルムート・ローザ『加速する社会』福村出版、スヴェン・ブリンクマン『地に足つけて生きろ!』Evolvingなど)。あらゆるものがすごい速度で変化していくということだが、急速な変化への対応を迫られるがゆえに、社会の様々な部分が、迷いや悩み、失敗や無駄といった成果の見えにくいものを許容しなくなっていく。結果として人々の関心は、直感的に理解できてコントロールしやすく思われるものに集中する。数値評価、コスト、短期的な効率や成果、クリック数、新規顧客数、満足度、エンゲージメント率などなど。
もちろん、こうした社会の趨勢は、その中で生きている個々人の感性にも影響を与える。加速社会では、「答え」を迅速に出し、それを「実践」してみせるという生き方が求められる。変化=リスクに満ちた世間の中を渡っていくには、モヤモヤや悩みなどを抱えておく余裕はない。そのとき、人々は悩みに向き合わず、身軽に明日を生きられるようにと、自己啓発に走ってしまう。前掲のデンマークの心理学者ブリンクマンが、加速社会における自己啓発に危機感を抱き、「地に足をつけて生きろ(Stand Firm)」と語りたくなった気持ちもよくわかる。
端的に話をまとめると、わかりやすい「答え」が求められ、それに基づいてすぐに動いて「実践」することが現代社会の支配的な生き方の一つになってしまっているということだ。言わずと知れた尾田栄一郎の『ワンピース』(集英社)には、この時代の特徴を捉えた上でそれを突き放すような言葉が出てくる。百獣のカイドウという人物は、気になったことを何でも疑問形で投げかけ、とにかく自分に殴りかかって倒せばいいとだけ考えている節のあるキャラクターに対して、「一問一答で動いちゃいねェんだ、世の中は!!」と切り返している。
その通り。世界は、何か「答え」を求めてしまえば解決するような謎でできているわけではない。というより、私たちが、この不透明で見通しの立たない時代を生きようとするとき、それを明瞭にしようと「答え」を求めるべきではない。私たちが求めるべきなのは、「答え」ではなく、「仮説」だからだ。世界は仮説でできている。
よくビジネス書を読む人などは、「ああ、仮説ね。わかるわかる」などと早速同意してくれるかもしれない。「仮説思考」という言葉が、しばしばネットの記事やビジネス書などに登場する。仮説思考とは、「今見えている事実と自身の知識を元に先を読み」「有力な仮説を立て、それをピンポイントに検証していく思考法」のことを指している(「『仮説思考』とは?今ビジネスで必要とされる理由と磨き方を解説」リクナビネクストジャーナル)。
しかしこれは、悩みや迷いを許容できなくなった状況で、わかりやすく当座の「答え」を求めて、手っ取り早く、効率よく何らかの「実践」をしなければならないという話だ。内田和成の『仮説思考』(東洋経済新報社)も、スピーディーな「答え」と「実践」こそが大切だという視点に立っている。ビジネス書の謳う仮説思考は、実のところ、カイドウの言う「一問一答」的な世界観にほかならない。仮説思考は、私たちの語ろうとする「仮説」とは何の関係もない。では、そもそも「仮説」とは何なのか。
哲学は浮世離れした秘術なのか?
仮説について本格的に解説する前に、私の属性を明かしておいた方がいいかもしれない。私は哲学者だ。専門職として哲学をやっており、縁あって企業と協働することもしばしばある。哲学者などという珍しい職業をやっていると、イベントやヒアリングなどで投げかけられる質問は、加速社会を生きる人々が陥りがちな感性の反映であることが多い。
よくある質問の一つが、「理論と実践のギャップに直面しないのか?」というものだ。議論や論理に固執している哲学者は、「実践」からほど遠いはずだという考えがこの質問の背景にある。他方で、わからないことをYahoo知恵袋か占い師に聞くときのように、「この問題の『答え』を教えてほしい」と迫ってくる人も少なくない。浮世離れした場所で緻密に議論を構築している哲学者こそ、生きる意味や世界の秘密に最終的な説明を与えてくれるという印象を抱いているのだろう。
要するに、こうした質問は、「哲学は理論と実践のギャップに直面するものだ」「哲学に秘密の答えがあるはずだ」という考えに基づいているのだが、どちらにも共通する発想がある。「答え」を求めて、それを「実践」に移すことこそが大切だという発想だ。ついでに言えば、哲学者たちは人生や世界についての「現実を離れた理論」を構築しており、哲学で学ぶことになる内容は、様々な疑問を解決する「ゴール」であるという見方も、これらの質問には見え隠れしている。
こうした考えは、激化する変化の中で手っ取り早い「答え」とスピーディーな「実践」を求めたくなる加速社会の悪癖の表れであるだけでなく、哲学の実情にも見合っていない。哲学者はマスター・ヨーダではないし、神秘的な「答え」を伝承しているわけでもない。哲学は世界の隠れた真実を暴き出す密教の秘術ではないのだ。
少し回り道して説明してきたが、哲学者への質問という些細なことの中に、加速社会の人がとりがちな思考の特徴がよく表れている。つまり、そこにたどり着けばもう何も考えなくていいというゴールとして、「答え」や「実践」を欲しがっている。
「地元住民が選ぶ、京都の名店8選!」「VUCAの時代に必要なビジネスフレームワーク40」「40代に必要な4つの知的習慣」「サピエンス全史」などといった記事や書籍、講演がありがたがられるのには理由がある。見通しが悪くリスクに満ちた社会では、パッと「答え」や全体像が与えられたと感じられるもの、短期的に役に立つように見えるものが尊重されるのだ。ごちゃごちゃ考えたり、悩んだりせずにすむように思考停止するための「答え」や「実践」を、私たちは欲しがっている。
しかし、そもそも哲学は、そうした加速社会的なありがちな思考から遠いところにある。短期的に役立ちそうな「答え」や「実践」に飛びつく姿勢ではない。哲学とは、「仮説を立ててそれを確かめる実験」のようなものだ。そう、仮説の話。仮説の話をするために、私たちは回り道をしてきた。哲学は仮説と実験に基づく営みだというのは、どういうことなのか。
全体として確からしいほうへと進むために
19世紀にアメリカで生まれた「プラグマティズム」と呼ばれる哲学的立場では、「これがゴールだ」と宣言するのが哲学の仕事だとは考えない。そこにたどり着けば、人生の疑問も消えて満足感が満たされ、すべての探求が終わるような到達点として、何らかの意見や考えを提示することは、望ましいことではない。
プラグマティズムにおいて、色々な見解や意見は、探求の「スタート」に置かれるものだとみなされる。ジョン・デューイという哲学者は、このことを「哲学は、仮説を提示する」と説明している。仮説を立てることは、探求のゴール(到達点)ではない。仮説を置くことは、実験を始めるスタートの合図にほかならない。
私たちは、この世界に暮らす中で色々な考えや予測を抱いている。しかも、何の考えや予測も持たないというのは不可能だから、否応なくそうしていると言える。自分が既に持っている考えに則って、様々な活動をし、他者と話し、誰かとともにこの社会を営んでいる。デューイは、このすべてが一種の「実験」であると考えた。逆に言えば、何らかの見解や意見、哲学的な立場などを「答え=ゴール」だとみなす見解をデューイは批判していた。ゴールは、それ以上の観察や試行錯誤を停止させてしまうものであり、実験をこなしていく仮説的思考にふさわしくないからだ。
ある見解やイメージ、考えを持って行動すると、その結果や効果が見えてくる。予想通りのこともあれば、よかれと思ってやったことが悲惨な帰結をもたらすこともある。そうした結果からフィードバックを受けて、私たちは元の考えを修正したり、別の考えに乗り換えたり、それでも一旦この考えを維持しようとしたりする。私たちは「仮説→実験」のサイクルをくりかえし回しながら生きている。生きている限りそれはずっと続く。
このように、プラグマティズムでは、自分たちの持っている考えや意見、思想や理論を「仮説」と捉えた上で、ある仮説に立って実践することで、世界にどんな変化が起こるかを見るという一連のプロセスを「実験」だと捉えている。このような立場からすると、「答えは何か?」と問うことそのものが筋違いだということになる。終わりなく「仮説→実験」のサイクルを動かす探求のプロセスこそが大切だからだ。
もちろん、科学の実験がたった一人の科学者で成り立つものではないように、私たちの「仮説→実験」のサイクルも、また他者とともにある。似た仮説を確かめようとする人たち、別の実験手法を使う人たち、対立する仮説を信じている人たちに囲まれて、忌憚のない意見を交わしながら、会話を続けることで、私たちは、全体として確からしい方へと進むことができる。プラグマティズムでは、こうした確かめ批判し合うつながりのことを「探求の共同体」と呼んでいる。
生きることは一種の「実験」である
このような哲学観に触れると、「哲学に秘密の答えがあるはずだ」という見解だけでなく、「哲学は理論と実践のギャップに直面するものだ」というイメージも間違っていることに気づく。私たちの考えが仮説であり、様々な仮説を確かめ、批判し合いながら暮らしているという視点に立つと、仮説(理論)と結果(現実)のギャップには何の不都合もない。
むしろ、そのギャップこそが大切だ。事前予測との誤差は、私たちの元の考えに問題があるか、私たちの行動や状況などといった実験の手順や条件に問題があるかもしれないと気づかせてくれるからだ。
というより、手に入った失敗や間違いが多ければ多いほど、私たちは妥当な見解へと近づいていくことができる。その意味で、失敗や間違いは、仮説の「反証」として重要な役割を果たしている。それゆえ、プラグマティストは、「現実と理論は違う(からダメだ)」という言い回しを退ける。
理論と実践のギャップは、行動や方法、仮説などについて考え直す機会だ。自分の考えを仕立て直すチャンスを失っている点で、「理論と実践は齟齬がある」という考えは、理論の可能性から目を逸らしているだけでなく、現実にも目を曇らせている。こういう言葉を口にする人は、「齟齬」を次の実験につなげていく視点を失ってしまっている。
プラグマティズムにとって大切なのは、何度でも実験をくりかえしていくことである。だから、「これが答えだ」と宣言することが避けられねばならないだけでなく、「理論と実践に齟齬がある」ことを問題視するのではなく、その失敗を次なる実験に必要な情報として自分の中に取り込んでいくことが求められるのだ。探求を終わらせる「答え」に関心を示さず、失敗や予測誤差を喜んで受け入れるプラグマティズムの仮説的思考は、「一問一答で動いちゃいねえんだ、世の中は」というカイドウの発想を地で行っていると言えるかもしれない。
私たちは常に色々な仮説を抱き、それを確かめ、調整し、塗り替えながら生きているのだから、プラグマティズムは、生きることを一種の「実験」として扱っている。文章の中で「世界は仮説でできている」と書いたのは、それが私たちの生き方とつながっているからだ。哲学の専門家たちがやっていることも、この延長線上にある。哲学者たちは、「実験」の洗練されたバージョンに取り組んでいるのだと思って構わない。
竹刀を軽く握るように
誤った哲学イメージについてはこれくらいにして、私たちの採るべきプラグマティックな哲学観について、もう少し掘り下げていこう。
日本のプラグマティストである鶴見俊輔は、「竹刀を握るときは軽く握らないとダメだ」と書いたことがある。「パーンとやられたときはパッと取り落とすくらい軽く握るのが、竹刀のいい握り方で、必要ならもう一度拾えばいい」というような話だ(鶴見俊輔『流れに抗して』編集グループSURE)。これは、仮説(理論)との付き合い方についての、うまいメタファーになっている。
しばしば私たちは、刷り込みのように一つの考えを「答え」だと思い込んで、ギュッと握り込んでしまう。しかし、それでは上達しないし、いい試合にもならない。竹刀を握り込むのではなく、パッと取り落とすこと。それは、状況の微細な変化に反応できるだけの身体を持つことを意味している。つまり、鶴見の議論から示唆されるのは、変化を繊細に察知できるように、感受性を研ぎ澄ませるにはどうすればよいかということだ。
そのための手がかりは、「考えや視点を仮説として捉える」というスタンスそのものにある。そもそも、「哲学は仮説を提示する」「私たちの視点・意見・考えは、仮説である」というスタンスを持つことは、自分の仮説を意識化することを含んでいる。ここに鍵がある。
自覚的に仮説を持つことによるメリットは、仮説による予測と齟齬が生じた場合に、その偏差がクリアに見えてくるということにある。私たちは、自分の仮説=予測を自覚しているときに、予測との誤差やズレに敏感に反応できるのだ。
つまるところ、仮説の当たりはずれではなく、そういう風に仮説をはっきり持って状況に関わり、実験していくことが大切だということになる。鶴見が「パーンとやられたときはパッと取り落とすくらい軽く握るのがいい」と語ったのは、こうした敏感な身体を持つことの重要性を示唆したかったからだ。
感情のしっぽを捕まえろ
状況変化への感受性について、より深く知るために参考になるのは、映画「燃えよドラゴン」のブルース・リーである。「考えるな、感じろ!(Don’t think, feel!)」というセリフで有名だが、恐らく大半の人が映画を観たことはないだろう。それゆえ、多くの人はこの言葉を「ごちゃごちゃ考えずに動け」「とにかくやれ」という意味だと勘違いしている。
しかし、元の文脈はそんな単純な解釈を超えていく豊穣な意味を持っている。ブルース・リーは、この言葉を発する直前、人差し指でこめかみの辺りをトントン叩きながら、「情緒的実質が必要だ。(We need emotional content.)」と語っている。「感じる(feel)」とは、この「情緒的実質」を指している。では、「情緒的実質」とは何なのか。
私なりに表現し直すなら、それは「感情のしっぽを捕まえる」ことだ。何か微細な変化や期待とのズレが生じたときに、一つの視点や単純な議論では割り切ることのできない感覚が靄のように広がっていく。理解したと思ったら、そこからこぼれ落ちていくものが気にかかる。「感情のしっぽ」とは、そうしたモヤモヤした感覚のことを指している。私たちはその感覚が兆したとき、その端っこを逃さないように手を伸ばした方がいい。
「感情のしっぽ」と言ったように、私たちが捕まえたモヤモヤした感覚は、何か重要なことがその先に続く「兆し」のようなものでしかない。「感情のしっぽ」は到達点ではなく、行動するための出発点だからだ。
実際、ブルース・リーは、「考えるな、感じろ」に続けて示唆的なセリフを口にしている。彼は指で空を示しながら、弟子にこう語りかけた。「月を示した指先のようなものだ。指先に目を奪われるな。さもなければ、天なる栄光を逃すことになる。(It is like a finger pointing away to the moon. Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory.)」。
ブルース・リーの言葉とこれまでの議論を重ね合わせることで言えることはたくさんあるが、最も重要なのは、私たちの「考え=仮説」が、一種の方向感覚を私たちにもたらしているということだ。
仮説は、「あっちかな」「いやこっちだ」「そっちはまずい」というように、自分たちの進む方向を教えてくれる。だからこそ、仮説(考え)は「答え」ではありえない。仮説は、どういう方向に進んだ方がいいのか、どっちに行くとまずいのかといった洞察を支えているものだ。
仮説を自覚する、はっきりと仮説を持っておくことの必要性は、この点からも説明できる。どこに行こうとしているのかを自分でわかってもいないし、わかろうともしていない人は導き手としては信頼しづらい。最も厄介な迷子は、自分を迷子だとは自覚していない迷子なのだから。
仮説的思考、哲学の魔法
加速社会を生きる私たちは、あまりに激しい変化を前に余裕を失い、「月」ではなく「指先」の方ばかり見ている。近くにある手っ取り早い何かを「答え」と誤認して満足している。指先に目を奪われないために必要なのが、仮説的思考である。プラグマティズムは、世間で「答え」(ゴール)だとされているものを「仮説」(スタート)として見ることを教えてくれる。
生きている限り、私たちは否応なく竹刀を握っている。どんな人間でも必ず何らかの見解や見方を持っており、一切の解釈抜きに現実に接することなどできない。ありのままの現実などというものはない。しかし、知らずの内に握ってしまっていた考え(竹刀)に振り回されるいわれもない。私たちは、自分の考えを「仮説」として意識化し、それを操作することができる。科学者が実験をしながら、仮説や実験条件をあれこれいじっていくように、私たちも日常の中で自分のものの見方を操作してみることだ。
プラグマティズムの仮説的思考は、自分という人間を実験のフィールドに見立てることを教えてくれる。私は大学でその一端を体験し始めた頃、「魔法みたいだ」と思った記憶がある。私は哲学を魔法のように感じた。世界を無数の仮説と実験の連鎖として捉える視点は、私の視野を着実に広げてくれた。今なおそうだ。
哲学を学んでも、空は飛べないし、口から火を吹けるようにもならない。でも、学部時代の私が感じたように表現するなら、哲学には、ちょっとした「魔法」がある。といっても、私たちが魔法使いになるわけではない。魔法にかけられるのは私たちの方だ。「仮説」という補助線を引けば、魔法をかけられたみたいに私たちの視野は変化する。世界は仮説でできている。
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