“ありのまま“ではいられない私たち。「理想の身体」への欲望から見えてくるもの──人類学者・磯野真穂
自明のものとして社会に流布している、「ありのままが素晴らしい」といった言葉。にもかかわらず私たちは身体のありとあらゆる場所に手を入れて“安心”を得てもいるのではないか──自明のものとして語られがちなそんな一見すると矛盾している状況に対し、文化人類学と医療人類学を専門にする人類学者であり、2020年よりアカデミアを飛び出して独立研究者する磯野真穂さんは疑問を呈します。「私たちはいまどんな時代を生きているのか?」をアカデミアの知を頼りに探っていくプロジェクト「De-Silo」では、磯野さんは「21世紀の理想の身体」というテーマを掲げています。
21世紀の理想の身体
人間は、自分の身体に必ず手を入れる。その理由は手を入れると安心するから。そのままだと不安だからだ。「ありのまま」といった言葉が近年もてはやされているが、現状はその逆である。毛髪再生医療や美容整形、医療痩身といった言葉に代表されるように、時に医療の手も借りながら、私たちは自分の身体を加工する。加えて、身体のデジタル化を容易にしたSNSやメタバースなどのIT技術の進化は、他者に見せるための身体変工の幅を広げ、かつ容易にした。しかしここまできても、身体変工はとどまることがない。あるひとつの問題が解決されても、次なる問題が発見・発掘され、私たちはその修正に追われるからだ。本プロジェクトでは、身体変工を取り巻く技術、情報、さらには「問題のある身体」を「理想の身体」に作り変えたいという欲望を支える分類思考を中核概念とし、多種多様な身体変工を俯瞰的に捉える。その作業を通じ、21世紀の理想の身体とその裏にある不安、さらにはその身体に賭ける希望のかたちを浮かび上がらせてみたい。
「身体」と「情報」というふたつのキーワードを軸に据えながら、現代における人々の安心と不安、そして希望に関する思索を重ねてきた、磯野さんの軌跡をたどっていきました。
磯野真穂(いその・まほ)
人類学者。長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、アスレチックトレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するも、自然科学の人間へのアプローチに違和感を感じ、同大学にて文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)を取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。研究、執筆活動を続けつつ、身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップや読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開く。 人類学の暮らしへの応用可能性を模索しており、企業の新製品立ち上げにおけるブレインストーミングなどにも関わる。共同通信「論考2022」、朝日新聞書評委員/同紙コメントプラス、コメンテーター。チョコレートと甘酒と面白いことが好き。
「ありのまま」礼賛の嘘。終わらない身体“変工”
──今回、磯野さんはプロジェクトのキーワードに「21世紀の理想の身体」を設定されています。これまで摂食障害の方の研究など、一人の人間の身体を起点とした研究に取り組まれてきたと思うのですが、なぜいま「理想の身体」なのでしょう?
最近は「ありのまま」という言葉が讃えられており、「ありのままが素晴らしい」といったことは身体に関しても表向きは使われますよね。しかし、実際はその逆だと思うんです。ダイエットや脱毛、美容整形などが一般的になっていることからわかるように、私たちは身体のありとあらゆる場所に手を入れないと気が済まず、しかも技術の利用によってその方法がより巧みになってきている。
──実は誰も「ありのまま」でいようとはしていない、と。
人間という生命の一つの特徴は、安心を得るために自分の体に手を入れること、言い換えれば身体を“変工”することだと思うんです。私たちから見れば裸で暮らしているような人々であっても、実は彼/彼女なりに身体に手を入れて安心を得ていたりしますから。
今回のプロジェクトでは、このような現代の身体ありようをもっと丁寧に捉えたいと思っています。具体的には、(1)身体のどこにどのように手が入るのか、(2)それは何を問題と捉えているのか、(3)そこにはどのような技術が用いられるのか、(4)その身体はどのように「情報化」されるのか、ということです。
──4つ目のステップの「情報化」とは、具体的にどのようなことを指しているのでしょう?
はい、ここだけちょっとわかりにくいですよね。ここで言う「情報」とは、情報学者の西垣通さんに倣い、「何らかの意味を発するもの」「価値を持つもの」といったことを指します。
私たちが体に手を入れるとき、その身体はこれまでとは異なった情報を発信します。巷に流布するイメージを例に取ると、太っていた人が痩せると「自己管理ができる人になった」という意味で周りから受け取られること、などがわかりやすいでしょう。
それから先に述べたように、現在は手を入れる身体の部位が細分化され、その方法が巧みになっている。さらにはその身体をSNSに載せて、全世界に発信することも当たり前のように行われています。
人類学をはじめとする人文学において、このような過程は、物語とか意味づけといった言葉でよく説明されます。しかし今回のプロジェクトでは、身体とテクノロジーとの接点に注目したく、その意味で情報科学の視点も取り入れる予定です。従って今回は、物語や意味づけでなく、「情報化」という言葉をあえて持ってきているんです。
──私たちの身体はただそれ自体としてあるのではなく、何らかの意味や価値を帯びてしまっており、なおかつ現代ではその傾向がより顕著だと。
これは私の長年の研究テーマである「医療と情報」という観点でも同じことが言えます。
私は90年代末から「摂食障害」についての研究を始め、シンガポールと日本で調査をしています。シンガポールで調査をした20代のある過食症の女性は、たくさん食べると親や祖父母に褒められることがわかっていたので、そうした人々への抵抗のためにあえて自分自身を飢えさせることを選んだと言っていました。自分の身体を変容させることで、これまでとは異なる情報を周りに発信していたわけです。
「分類」から見えてくる社会
──そうした「情報化」も含めた「理想の身体」のありようを探る今回のプロジェクトでは、「問題のある身体」を「理想の身体」に作り変えたいという欲望を支える分類思考を中核概念とする、とのことです(※記事冒頭の文章参照)。ここで言うところの「分類思考」とは何でしょうか?
分類は人の暮らしと共にあります。なぜ分類するのかというと、心理学的、生物学的には「人の脳には分類する機能が備わっているから」となる。
一方、人類学はその考えを否定するわけではないものの、脳の“外側”に根拠を求めます。例えば、エミール・デュルケームやマルセル・モースなどの古典的な議論では「社会が分類させる」と言われています。つまり、社会そのものに分類させる機能が備わっているのだと考えるのです。私は人類学者なので、その考えを起点に「分類」の問題を考えてみたいと思っています。
──「分類」は単に生得的な機能ではなく、社会が生み出している側面もあると。どのようなアプローチで「分類」について考えていくのでしょうか?
例えば、「理想の身体」という概念を取り上げてみましょう。この裏には、当然「理想でない身体」という概念があります。つまり「理想」と「理想でないもの」という形の分類がある。ではこの理想は、どのように実際の身体に反映されるのか?
当然、「理想でない」と分類されるものが実際の身体から刈り取られていくことになります。例えば、体毛や、歯並びの悪さ、太った身体といったものがそれにあたります。
しかし分類というのは必ず曖昧なものを生み出します。例えば、「歯並びが悪い」というのは、どこからがそれに当たるのでしょう。「太っている」と「太っていない」との境界はどこにあるのでしょう。今回のプロジェクトでは、理想とそうでないものの境界状態にあるような身体がどのように意味づけされ、扱われるのかを見ていきたいと考えています。
「糖質制限」はなぜ広がったのか?
──「21世紀の理想の身体」というテーマで磯野さんが探究したい問いの姿が、だんだんとイメージできてきました。そもそも今回のテーマにたどり着くまで、どのような研究の変遷があったのでしょうか?
キャリアの初期は、先程も触れたように「摂食障害」を研究していました。大学を卒業した後、オレゴン州立大学の修士課程に進む際に、このテーマを選んだのが始まりです。摂食障害を医学の観点からではなく、文化的な観点から捉えると、どのような要因が見えてくるのだろうかと。
その後、調査対象を現代医療の臨床現場に移し、そこでフィールドワークを行うようになりました。これは2010〜2016年ごろの話です。
──その頃の研究では、どのようなことが明らかになったのでしょう?
『医療者が語る答えなき世界──「いのちの守り人」の人類学』(筑摩書房,2017)に詳しいですが、この期間を通して知ったのは、臨床の現場には「答え」がないということ。例えば、現場で治療に臨んでいる方々は、必ずしも現場の状況と一致しないガイドラインや、時には組織の論理にまで振り回されながら、答えのない問いに向き合っていました。
そうしたことを知る中で、関心は「『リスク』をどう扱うのか?」に移っていきました。例えば近年の医学は、予防に力を入れるようになっています。「血圧を下げるためには、こういった生活を心がけましょうね」といったように。
でも、高血圧は自覚症状がないことの多い「病気」です。従って、そこに介入しようとすれば、医療者は高血圧のリスクを言語化して伝えなくてはならない。では、その時そのリスクはどのように言語化されるのか?
──答えがない状況下でいかにして「リスク」が言語化されるのか、という問いについて考えるようになったのですね。
同様の問題意識から、「糖質制限」について研究をしていた時期もありました。こちらは『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(筑摩書房,2017)、『他者と生きる──リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社,2022)に詳しいですが、糖質制限はもともと、糖尿病を患っている方々の療養食という位置付けで理解されていました。ですが今の日本では、「老いも若きも糖質制限」みたいな状態ですよね。
──はい。周囲にもダイエットのために糖質制限をしている人は多いです。
こうした状態が生まれた背景としては、特定健康診査、いわゆる「メタボ健診」が始まったことの影響が大きいと考えています。
2006年に「メタボリックシンドローム」が新語・流行語大賞のトップ10に入り、2008年にはメタボ健診がスタートしました。これによって、何の自覚症状もない人たちが検査結果に基づいて「メタボリックシンドローム」と“診断”され、生活習慣病予備軍と言われるようになった。これと前後するように糖尿病を患う人に向けてでなく、一般に向けたダイエットの読本としての糖質制限指南が次々と現れるのです。
たしかに、仕事によってはほとんど動かなくとも生活していける現代において、ご飯を何杯も食べるような食生活は良くないでしょう。ただ糖質制限を推進する医師が根拠として引用する論文に目を通すと、エビデンスが拡大解釈されていることが少なくありません。しかし、そのような状況があったとしても、糖質制限に取り組んでいる方は多い。
つまりこれって、科学的な根拠はさておき、みなさんが「糖質を取りすぎること」を“リスク”として実感しているということだと思うんです。糖質制限の広がり方を見ていて、メタボといういう言葉と、メタボ健診という制度が、人々の“現実”をこれほどにまで変えてしまうんだなと感じました。
──「リスク」や糖質制限についての研究から、いかにして「21世紀の理想の身体」という今回のテーマにつながっていったのですか?
ここで私が注目したいのが、糖質制限に成功した身体に与えられる意味づけです。糖質制限の一般書を読むと、「病気にならない」「痩せる」だけでなく、場合によっては「女性にモテる」「頭が良くなる」といったことまで書かれています。加えて、科学的根拠に基づき「自己管理ができる人」といったメッセージも仄めかされます。
つまり糖質制限をした結果得られる身体とは、現代社会において人々が求めてやまない健康状態や人間関係、さらには必要とされる知性までを具現化した理想に他ならないのです。
理想の身体というテーマからは、摂食障害の研究が一段落した後しばらく離れていました。でも今は改めて、循環器疾患、漢方外来、糖質制限を通じて深めたリスクについての研究と、摂食障害の研究で得られた知見を「21世紀の理想の身体」というテーマの元につなぎ合わせてみたいと考えています。
人文知は世界を「おもしろく」してくれる
──そうした研究活動と並行して、磯野さんは摂食障害で悩んでいる方々と直接話しながら、社会と自分のつながりについて考える「からだのシューレ」などのイベントも開催していますよね。
「からだのシューレ」は、「人類学の知見を活用してもらうためにはどうしたらいいだろう?」と考えて始めたことです。「学問は使ってもらってなんぼだろう」と思っていますし、そこに面白さを見出しています。
さらに現在では人類学のより幅広い知見を実生活に応用してもらいたいと考え、「FILTR」というメディアを幅広い分野のスタートアップに関わってきた二宮明仁さんと一緒に作り、そこで人類学講座を開催しています。「FILTR」は私にとってすごく重要な場所で、ここがなければ独立研究者として生活することは難しかったのではないかと思っています。アカデミアの世界に依存せず、生活の基盤をつくるための場所になっているんです。
──独立研究者であることも、磯野さんのご活動の特徴のひとつですよね。アカデミアの世界から飛び出してみて、変わったことはありますか?
一番大きな変化は、「評価されること」を目的に研究・教育活動をしなくてよくなったことです。それは例えば「この学会誌は評価が高いから、論文が掲載されていると就職に有利に働く」とかそういった評価です。
自分がやっていて面白いと思うことと、学者として評価される活動との乖離に苦しんでいたところがあったので、後者の基準を手放せたことはとてもありがたいですね。結果、本をゆっくり読む時間も取れるようになりました。
──独立するとき、不安はありませんでしたか?
もちろんありました。でも、私はアカデミアの世界でキャリアを重ねて、研究者としての地位を確立することにあまり興味がなかったし、向いているとも思えなかったんです。
それから、「研究者の選択肢を増やしたい」という想いもありました。私が独立したのは2020年だったのですが、当時はアカデミアの世界を飛び出して、独立研究者として生きている人はあまりいませんでした。でも、大学の正規のポジションは減る一方。私くらいの研究者でも、大学の外で独立してやっていけることを示せれば、若い研究者の皆さんに新しい活動の可能性を示せるかもしれないと思ったんです。
──磯野さんのご活動は、ひとつのロールモデルになるかもしれません。
そうなればいいなと思っています。研究者たちがその知見を生かせる場所は、本当はアカデミアの外にもたくさんあるはずです。私の活動を通じて、「こういう選択肢もあるよ」と伝えられればいいなと思っています。
──そうした使命感のようなものが、磯野さんの原動力になっている?
いえいえ、そんな高尚なものではないです(笑)。あくまでそれは二次的なもので、一番の原動力は好奇心というか、わくわくする気持ち。これまで「おもしろそうだな」と思うことに飛びついてきましたし、De-Siloに参加しようと思ったのも同じ理由です。
よく「ワークライフバランスが大事」って言うじゃないですか。もちろんそれも大切だとは思うのですが、個人的には「おもしろいかどうか」のほうが大事な気がしているんです。バランスが取れた生活をしていたとしても、つまらないのは嫌で。
そして、これは多くの人も感じていることなのではないかと思っています。以前、FILTRで『聞く力を伸ばす』という講座を開講していたのですが、会社員など幅広い属性の方々が受講してくれました。それなりに重めの課題を出していたんですが、「有給を取って課題に取り組みました」と言ってくださる方もいて。そこまでして取り組んでくれたのは、やっぱり「おもしろい」と感じてもらえたからだと思うんです。
──おもしろければ、負担が大きくても頑張ろうと思えますもんね。
人文知が提供してくれる価値は、「世界をおもしろくすること」だと信じています。だからこそ、一人でも多くの方に人文知を届けたい。何か一つでも「おもしろい」と感じるものがあれば、人ってポジティブになれるじゃないですか。落ち込むようなことがあっても、「まあいいか」と思わせてくれる。
だから、これからも「おもしろさ」を大事にしながら、研究とその成果を社会に伝えることを続けていきたいと思っています。
Text by Ryotaro Washio, Interview&Edit by Masaki Koike, Photographs by Kazuho Maruo
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