現代では「感情」すらも、資本主義システムの中に組み込まれてしまっています──「感情資本」をキーワードに、働く人のメンタルヘルスからハラスメント、自殺問題まで幅広く研究する社会学者・山田陽子さんはそう語ります。
「いま私たちはどんな時代を生きているのか?」をアカデミアの知を頼りに探っていくプロジェクト「De-Silo」。今回のプロジェクトで山田さんは「ポスト・ヒューマン時代の感情資本」をテーマに探究を進めていきます。
ポスト・ヒューマン時代の感情資本 by 山田陽子さん
現在、多くの職場で、感情を抑え込んだり無かったことにしたりするのではなく、セルフコントロールに基づき上手に活用することが、生産性やモチベーションの維持に役立ち、自己の成長や人脈の拡大につながるとの考え方が一般化している。アンガーマネジメント、心理的安全、レジリエンス、「ファンベース」など、人びとの共感や愛着や信頼を原資にするビジネスモデルやマーケティングの手法、感情管理の技法を活用した人的資源管理や職場のリスク管理も顕著である。一方、家庭や親密な領域では、公正で公平な家事育児の分担やシャドウワークの可視化と支払い要求、時間の効率的な使い方、教育投資とリターンの予測、AI搭載マッチングアプリを介して効率よく相手に出会いたいという欲望など、私的で情緒的なつながりの範疇とみなされてきた事柄が合理性や効率性、公平性や正当性という基準によって測られ、査定されるようになっている。このように「経済的行為のエモーショナリゼーション」と「感情生活の経済化・合理化」が同時に進行する動的プロセスをイスラエル=フランスの社会学者エヴァ・イルーズは「感情資本主義」と呼んだ。本研究では、感情資本、「エモディティ・感情商品」、「ネガティブな関係性」をキーワードに、合理的なものと感情的なものの結びつきを解きほぐす。経済発展と技術革新が人間の感情や他者とのコミットメントを巻き込んだ結果、今何が生じているのかについて考察し、その未来を展望する。
いま私たちが生きるこの時代を、山田さんはどのように見ているのでしょうか? あらゆる感情が商品化されつつある現代、ますますアクチュアリティが高まる「感情資本」研究の現在地。
山田陽子(やまだ・ようこ)
社会学者。大阪大学大学院人間科学研究科准教授。博士(学術)。単著に『働く人のための感情資本論―パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』(青土社,2019年)、『「心」をめぐる知のグローバル化と自律的個人像―「心」の聖化とマネジメント』(学文社,2007年)、編著に『社会学の基本-デュルケームの論点』(学文社,2021年)など。日本社会学史学会奨励賞受賞(2007年)。社会学理論や学説を丹念に読み込みながら、フィールドワークやインタビュー調査を通して人々の生の声を聴き、近代資本主義社会と感情、自殺について研究している。
「感情」は資本として動員され、家庭にもビジネスが入り込む
──山田さんは今回、「ポスト・ヒューマン時代の感情資本」をテーマに設定されていますよね。
現代社会において、人間の感情や他者とのコミットメントに何が生じているのかについて、あらためて問い直したいと思っています。ポスト・ヒューマンというと、モノと人の関係や、AIやロボットのイメージが先行しますよね。ですがその前に、このプロジェクトでは人間の感情のモノ化と労働・消費空間について、今一度考えたいと思っています。
経済発展や技術革新は絶えず人間の感情を道具化して巻き込み、他者との関係性のあり方や社会のありように影響を及ぼしてきました。現在、それはどのような様相を呈しているのか、プロジェクトを通じて探究していきたいですね。
特に、マインドフルネスやリトリートなど、「癒し」とビジネス界との接点が気になります。また、「ウェルビーイング」と経営が結びつく中で、人々の感情や人間性がどのように事業に投入されているのか、そうした働き方がビジネスパーソンに何をもたらすのかにも注目しています。
──たしかに、マインドフルネスやリトリート、ウェルビーイングといったキーワードは、ビジネスパーソンの中にかなり浸透した印象があります。こうしたトピックも包括しているように思える、山田さんの研究テーマの一つである「感情資本主義」とは、そもそもどのような概念なのでしょう?
近代資本主義が、経済的な言説や実践とエモーショナルな言説や実践が強固に結びつく中で進展してきたとする見方です。言い換えれば、「経済的行為のエモーショナリゼーション」と「感情生活の経済化・合理化」が同時に進行する動的プロセスのことですね。イスラエルとフランスの社会学者エヴァ・イルーズが、2000年代に提唱しています。
──「経済的行為のエモーショナリゼーション」と「感情生活の経済化・合理化」とは、どういうことでしょう?
順番にご説明しますね。まず、「経済的行為のエモーショナリゼーション」を今の日本の文脈に即して考えましょう。
マインドフルネスやレジリエンス、怒りのコントロールなど、自分の心身を「整える」スキルを介して生産性を上げたり、職場の人的資源管理やリスク管理をしたりするのが一般的になっています。また、従業員の心身の健康や幸せと経営を結びつけた「ウェルビーイング経営」という考え方も近年広まっているようです。
さらに、商品の機能の宣伝や押し売りではなく、「ファン」になってもらう仕掛けや物語を提供することで末永く愛用してもらうようなマーケティング手法もありますね。これは顧客の共感や愛着や信頼を、先取り的に商品の一部に組み込んだビジネスモデルと言えるでしょう。
──「感情生活の経済化・合理化」についても教えていただけますか?
家庭など私的で情緒的なつながりの範疇とみなされてきた事柄が、合理性や効率性、公平性や正当性という基準によって測られ、査定されるようになっているということです。
公正で公平な家事育児の分担、シャドウワークの可視化と支払い要求、家事育児のアウトソーシング、時短家電、教育投資とリターンの予測、マッチングアプリを介して効率良く相手を探す……「お金に換えられないもの」とか「愛情」とみなされていたものが数量化され、交換される。あるいは社会保障制度や政策として、ケアを提供する仕組みが整えられていく中で、ケアの専門職化も進行する。
──仕事には感情的なものが求められる一方で、プライベートでは合理的なものが求められるようになっているということですね。
「癒やし」のプロセスも仕事に組み込まれている?
もはや、「公と私」「仕事とプライベート」「理性と感情」といった二項対立では捉えきれない社会になっています。政治や世論形成においても、理性的討議とは到底言えないような「共感」と分断が現れていますよね。
エモーショナルなものが労働や政治経済に不可欠の要素となる一方で、家庭や親密な領域では政治経済的な要素が前景に出てきています。感情資本主義論はこうした動向を見据え、近代的な二項対立図式を再考するものです。
──資本主義の発達について感情の観点から捉え直そうとするのが、感情資本主義論なのですね。
イルーズは、特に中間層の感情生活や対人関係が経済的交換のロジックに従うようになっていると指摘しています。消費社会化で感情労働が浸透しましたが、プライベートの対人関係でも配慮や気遣いに関する損得勘定をし始めている。自分が与えた分と同等かそれ以上のものが相手から返ってきているかを常に自己言及的に振り返り、見合わないと判断すれば別れる、といったケースが典型例でしょう。A.ギデンズのいう「純粋な関係性」の持つ純粋さゆえの儚さや脆さは、図らずも功利主義的な人間関係と近いところにあったということです。
家事や育児の作業を数値や分量に置き換えて「見える化」し、タスクとしてカップル間で「公平」に「配分」すべきだという意味での合理化も進んでいます。ここ数十年の間、ケア機能の外部化と専門職化、社会的に支える仕組みづくりが進んできましたが、家庭や親密な領域においてもケアや他者への愛、対人関係を予測可能、計算可能、操作可能なものとみなす傾向が強くなっているのではないでしょうか。
──個人的にもここ最近、「自分の感情すらも資本主義に乗っ取られている」という生きづらさを感じることが多くて。例えば自分自身や一緒に仕事する人のモチベーションを高めようと試行錯誤する中で、「こうして感情すらも仕事に動員していった先に、人間はどこに行き着くのだろう」と悩んでもしまうんです。
おっしゃる通り、働く人の感情は、生産性や利潤をあげる際の資本もしくは道具として職場の中に組み込まれていると思います。それも、リトリートなどの「癒し」とセットで。
自分の内面をよく見つめて、セルフコントロールを通して上手に活用していくことが、自己の成長や他者との協働、仕事のモチベーションやアイデアの活性化につながるという考え方が一般的になっていますね。感情を「非合理なもの」やノイズとして排除するのではなく、むしろ有効活用する。利己的に振る舞うというよりも、それぞれが心身を整え、前向きな気持ちで相互尊重するような組織のもとで、競争を勝ち抜いていくイメージでしょうか。
──競争とは対極の考え方に思える「相互尊重」ですら、勝ち抜くための手段となっていると。
自分の中のアモルフな(無定形な)状態の感情を、見て、分類して、名前を付け、操作可能なモノとみなす。そして折に触れてメンテナンスし、適当な場所で適切な程度に表出し、他者と分かち合う。現在、感情豊かであるということは、感情のモノ化とその理性的コントロールとともに生じているように見えます。
そして他者を共感的に理解し、アサーティブな(自他両方の気持ちや考えを尊重した)自己主張をすることが大切だと言われる状況では、エモーショナル・インテリジェンス(EI)の有無や程度が、他者との差異化や、P.ブルデューの言う「卓越化」に通じます。例えば、他者に共感的に寄り添いつつ巻き込まれない、自分の機嫌は自分で取る、一定の発話手続きにのっとって意見をすり合わせる……そうして他者に開かれた雰囲気をまとい、その場の空気に合わせてリフレクシブに自己をチューニングできる人がビジネスパーソンとして評価されている印象を受けますね。
そして、しんどくなったらリトリートにでかけてリフレッシュしたり、そもそもしんどくならないように瞑想アプリや睡眠アプリで日頃からマメにセルフケアしたりするような方もたくさんいらっしゃるのだと思います。働くことは「癒し」とセットというか……「癒し」のプロセス込みで「仕事」とさえ言えるかもしれません。自分をケアすること、癒すことのみならず、組織内では同僚や部下に「寄り添い」、互いにケアするような関係性も求められていますしね。
──もはや「仕事」から逃れられる場所はどこにもないような気がして、絶望的な気分になります……。
だからこそ、何をどうすることが感情資本とみなされうるのか、そしてそれはどのように形成されるのかについて考える必要があるのだと思います。
感情は内発的で個人的なものでもありますが、社会的なものでもあります。A.R.ホックシールドの言うように、人は社会的場面に応じた「感情規則」に沿って感情を表現している。そして、それをどのように表現するのかというのは、身体的なものでもあって。当人の感情はふるまいを通して表現され、周囲に認識される。感情をコントロールし、場面に応じて表現する力は、「身体化された文化資本」(知識、教養、感性、言葉遣いや立ち居振る舞いなど)の一部であり、その人がどういう人物で、どのような社会的立ち位置にあるのかを示す指標となります。
感情資本は、同僚や上司からの信頼を得ること、人脈の拡大や昇進、賃金の上昇といった社会資本や経済資本の獲得と紐づいています。ブルデューは文化資本という概念の中に感情資本を明示したわけではありませんが、イルーズは「感情資本」が文化資本の一形態として位置付けられることを示唆しています。
育児休業と感情資本主義論
──ここまでご説明いただいた「感情資本主義」に至るまでの、山田さんの研究の軌跡についてもうかがいたいです。そもそも研究者の道に進もうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
遠い記憶になりますが、神戸にいた学生の頃、阪神・淡路大震災や酒鬼薔薇聖斗事件が起こり、「心のケア」「心の闇」「心の教育」といった「心」に関する言説が大量に出始めました。その時、いったいこれはどういう現象なのか、なぜここまで皆が「心」に注目するのかが気になりました。「心」というブラックボックスに、何が詰め込まれているのかと。
学部では、虐待や摂食障害のソーシャルワークのゼミに所属していたのですが、思うところがあり、大学院では少し方向を転換。社会学の立場から、メンタルを病むということ、それをケアするということが社会の中でどのような意味を持っているのかについて考えようと思いました。
大学院は知的刺激に満ちていて。体系的な知の蓄積とそれが有機的につながることによってしか成しえないような、社会に対する深い分析や考察があることを知りました。それが研究の世界に入るきっかけと言えばきっかけです。
──感情資本主義の論者として、イルーズに注目しはじめたのはいつ頃ですか?
表立っては2011年に「『感情資本主義』の分析に向けて―メンタル不全=リスク=コスト」という論考を『現代思想』(青土社)に寄稿させていただいた頃でしょうか……ずいぶん前ですね。でもその種が撒かれたのはさらにその数年前、第一子の育児休業中に、イルーズの主著『Cold Intimacies:The Making of Emotional Capitalism』(Polity,2007)を読んだ時です。
当時は、ハラスメントや自殺について、働く人の感情マネジメントという観点からリサーチしていた時期でもありました。ですので、『Cold Intimacies』を読んだ時に、すべてがつながった気がして、強く印象に残ったことを覚えています。
──『Cold Intimacies』のどういった点が印象に残ったのでしょうか?
昼夜を問わない授乳など、生まれたばかりの子の本能的欲求に忠実に従う生活では、「段取り」や「計画」が水泡に帰することの連続でした。いわば「時計化された時間」とは異なる時間の流れがあることを痛感したのですが、巷間では公私ともに時間の有効活用が善きこととされています。育休中に何か資格を取得してキャリアアップをめざそうという言説すらありますしね。
「今、ここ」を大切にする関係的な時間の流れと、計量化され抽象化された時間の流れが、家庭の中でぶつかることで生み出される葛藤。そして、それに伴う焦燥や感情管理……これらはありふれているのですが、けっこう辛い。それを自分も経験したことで、真木悠介の言う「時間の物象化」や生全体の合理化とはこういうことだったのかもしれない、と思いました。
そしてそれに思い至ったのが職場ではなく家庭であったというのが、まさに感情資本主義的状況だったと思います。産業社会論的な文脈であれば、経済活動や労働と家庭や親密圏は別で、私的領域には合理化されえないものがあるという前提があったはずですから。
──イルーズの感情資本主義論が、当時の山田さんの状況をまさに言い当てているかのように感じられたのですね。そこから「労働者のメンタルヘルス」というトピックに結びついたのはなぜでしょう?
不況下で労働者が切り捨てられていく話や、ひどいハラスメントの話をよく聞く一方で、働く人たちはお互いにすごく気を遣いあっていたり、自分をコントロールしているように見えました。
また、2000年代の労働行政では、セルフケアやラインケア、社内外のカウンセリングサービスといった「4つのケア」が推奨され、労働者の「心の健康」に関するさまざまな制度が急速に発展していきました。90年代末の電通事件の最高裁判決を受けてのことですが、長時間労働の是正やハラスメントの防止など、働く人のメンタルヘルスを守る施策がたくさん出てきたのです。
ただ、そうした福利厚生を充実させていく流れと同時期に、従業員のメンタルヘルス対策は経営上のリスク管理であり、生産性の維持向上に必要な投資であるという考え方もアメリカから入ってきました。従業員のメンタル不調は本人にとっても事業主にとってもマイナス、生産性を最大限にするためには、小さなストレスにもマメに対応して、常に従業員をポジティブなエネルギーに満ちた状態にしておくことが大事、それが従業員と事業主双方にとって利益をもたらすのだという、経営者側に沿ったカウンセリングサービスが輸入されてきて。
こういうのはどう考えればいいのかしらと思った時に、感情資本主義論が重要な手がかりになると思いました。家事育児を含め、このあたりの議論は、拙著『働く人のための感情資本論: パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』(青土社,2019)にまとめています。
加えて最近では、理論的な関心として、社会学の古典から現代に至る学説史を「感情」という視点から再読する研究も科研のプロジェクトで進めています。
“幸せ”の階層社会「ハッピークラシー」
──あえて類型化した言い方をすれば、「感情資本」はとても日本的な概念のようにも思えます。海外に行くと、あまりの接客のそっけなさに驚くこともしばしばありますよね。
文化や社会によって、何が「感情資本」たりうるかは多様だと思います。「何が文化資本に該当するのか」という基準そのものが恣意的なものだからです。文化資本は差異化と卓越化の作用によって階層と不平等を再生産しますが、何が「良い」のかを見分けるまなざし自体に階層性と権力が伴っています。
社会階層や家庭環境、学校教育を通して獲得され、次世代にも受け継がれていく「文化資本」に照らした時、感情資本もまた階層や家庭や学校教育において再生産される面がありそうです。「感情知」は明示的にも潜在的にも伝達され、感情資本の形成に一役買います。子どもたちは、どのような感情表出の仕方が親や教師からエンカレッジされ、どのようなものがそうでないのかを、日々のささいなやり取りの中からも暗黙裡に学びとっていくからです。
──子どもの頃から「感情資本」の格差が少しずつ生まれ、広がっていくと。
格差と言ってしまってよいか、またそれがどのような意味でそう言えるのかは今後慎重に検討せねばなりませんが……若者の感情資本があからさまに試されるのは、就職活動の時かもしれませんね。前向きで“コミュ力のある人”(少なくともそのように自己呈示できる人)は就活を順調に進められる一方で、そのように振る舞えない人はなかなか内定が得られず、人間性を丸ごと否定されたような気持ちになってしまうのではないでしょうか。
今秋邦訳が出たばかりのE.カバナス&E.イルーズ『ハッピークラシ―:「幸せ」願望に支配される日常』(みすず書房,2022)では、労働者が「仕事を通して幸せになる」のではなく、「前向きでハッピーな人が仕事でも成功する」という形で因果関係の逆転が生じていることについて、「チーフ・ハピネス・オフィサー(CHO)」の職務内容などにも言及しながら批判的な分析がなされています。CHOとは、従業員の健康や幸福度についてマメに計測して確認し、コミュニケーション・スキルや瞑想などの研修を行って、幸せな従業員と幸せな職場をつくることで生産性をあげることを使命とするポジションのことです。
──ハッピークラシー……とても興味深い概念です。
社会学では、「アリストクラシー」(属性主義、身分や出自によって階層が固定されている)と「メリットクラシー」(業績主義、本人の努力や能力によって階層移動可)が議論されてきたのですが、幸せがニューノーマルとなった現代、つまり「ハッピークラシー」な世の中では、「感情の階層化」が生じる。ポジティブ度が高く精神疾患の度合いが低い人が、「機能的」で「健康」で「正常」で「幸せ」であり、「善」である、という形で。これに対して著者たちは、悲しみや怒りが社会を変革する力になりうるとし、これらの感情を「ネガティブ」なものとしてスティグマタイズすることに異を唱えています。
このように、感情資本の作られ方とその内実を追うことによって、今の社会を覆う価値観や人間像の方向性が見えてくると思います。また、学校から職業へのトランジション研究や階層研究に感情資本という変数を入れてみると、新たな展開が期待できそうですね。このプロジェクトで、働くことと「癒し」の接点について特に注目したいというのも、そういう理由からです。
商品化された感情は“偽物”というわけではない
──そうしたハッピークラシーを内包する現代を、山田さんはどのような時代だと捉えていますか? De-Siloでは、「いま私たちはどんな時代を生きているのか?」を人文・科学の知をはじめとするアカデミアの知を頼りに探っていきたいと思っていまして。
そこで一つカギになるのが、イルーズが『Emotions as Commodities』(2019)の中で示している、「エモディティ」(感情商品)という概念です。エモディティには3つの形態があり、(1)映画や音楽、旅行など「自己の解放」に関するもの、(2)贈り物など贈与と親密性の維持・更新、(3)メンタルヘルスや自己改良に関わるものがあります。
エモディティを消費する時、消費者が購入し消費しているのは、映画や音楽やプレゼントやカウンセリングサービスではありますが、同時に、「感情の変容」そのものでもあります。消費者は自分もアクターの一部として組み込まれている消費のネットワークの中で、あらかじめ予見された感情(恐怖、感動、親愛、落ち着きなど)が実際に生起することを経験し、それを堪能する。消費が遂行される過程で生じる消費者自身の感情変容とともに完成する商品、それがエモディティです。
──たしかに、私たちの暮らしは「エモディティ」に囲まれてしまっているような気がします。例えば、本来は行き過ぎた資本主義からの逃避手段であるはずのセルフケア」や「リトリート」も、いまや完全に商品化され、システムに組み込まれてしまっている印象を受けますし……私たちにはもはや、市場とつながらない時間は残されていないのでしょうか。
そうですね……解脱や精神統一のためのものだったはずの瞑想も、「マインドフルネス」の一部として商品化され、現世利益的な仕事に集中するためのツールとして流通していますしね。社会のさまざまなしがらみから距離を取るためにカウンセリングを利用したとしても、ついうっかり費用対効果について考えてしまう自分がいたり。悲惨なニュースさえスぺクタクルとして消費される現代では、普通に生活しているだけで、消費空間に否応なしに巻き込まれてしまいます。
とはいえ、ではそこで経験された感情が「偽物」かというと、そうでもなくて。
──そうなんですか?
現代人が「本物」の感情だと認識するものは、消費を促す心理的・文化的な構造と消費のパフォーマンスそのものを通して生み出されています。エモディティという見方をすると、感情の真正性と商品化という二項対立が、実際にはシームレスであることがわかりますよね。
だからこそニュースで自然災害や戦争の場面が映し出される直前には、気分が悪くなる人が出ないように注意喚起のテロップが出ますし、オチを知ってから映画を観て、自分が求める以上に感情を揺さぶられないように自衛する人たちも出てきています。無防備なままでいると自分の感情が消費空間に取り込まれて消耗することに気づいているからこそ、「感情の節約」をしているのではないでしょうか。
また、「推し活」が生きがいになったり、地縁や血縁でない「趣味縁」が大切な居場所やアイデンティティの源泉になることもありますよね。消費は、誇示や他者との差異化、疑似環境やシミュラークルとともに語られてきましたが、消費を介した共同体についてまじめに考える時期に来ているように思います。
──単に「あらゆる感情が商品化している現代はダメだ」という話ではないと。
資本主義が感情を取り込んできたことの逆説は、消費を通して経験される感情が「偽物」であることを可能にするのではなく、「本物」であることを可能にするということです。そうであるなら、E.デュルケームのいう「集合沸騰」は消費を介して生起しうるのか、その場合、いかにしてなのかも気になるところですね。
あと、念のため付言しておきますと、私は自己啓発や「癒し」のエモディティによって働く人々が騙されている、と言いたいのではありません。仕事でしか得られない充実感や自己肯定感、人とのつながりも確かにあると思います。生産物の質、自分の能力や人間性、他者との協働、すべて含めて「いい仕事ができたな」っていう時の満ち足りた感じは何物にも代えられないというのもわかります。ただ、すべての働く人がそのような好条件のもとにあるわけではないですし、全方位型感情労働に疲弊することもあると思うんですね。
近代において、宗教的・地域的コミュニティなどの中間集団の力が弱まる中、個人と社会をつなぐ媒介項として労働・雇用が重要なファクターになっています。多くの人にとって仕事は、単に日々の糧を得ること以上の意味を持っているとみなされています。働くことは、自分の存在意義や自己実現、社会での居場所や帰属に関わることである、と。
例えば子どもが「やりたいことは何?」と訊かれた時、「お昼寝」「お散歩」「犬と遊ぶ」といった答えでも文法上は誤りではないはずですが、文脈上、職業的な何かを答えるべきだという暗黙の前提があります。こうしたやり取りが日常の何気ない会話においても、キャリア教育においても繰り返し発せられる。「やりたいこと」の意味する範囲があらかじめかなり限定されてしまっているのに、誰もそれを指摘しない。このことは、生きていく上で仕事がもつ意味や価値が相対的に重くなっていることを示唆しています。先程「仕事」から逃れられない絶望感があるとおっしゃっていましたが、私たちはどのような人間としてどこで生きていくのかを考える際、仕事や職業と強く結びつけて考える環境に生きているわけです。社会意識や規範の面でも、社会制度の面においても。
賃金や糧のために感情や人格を投入しているかもしれないが、お金のためだけとは到底言えないような充実感や帰属意識も実際に生起する…そのような現代人と仕事を取り巻く状況について丁寧に考えていきたいですね。
研究は「いま」を俯瞰し相対化する
──現実社会の変化を反映し、刻一刻と前提が覆っていくのは、社会学ならではという感じがしますね。
社会学は、近代化によって激動する社会とそこで生きる個人のありようについて分析してきました。いま私たちはどんな時代や社会に生きているのか。そうした問いがふと頭に浮かんでも、忙しい日々の中ではなかなか落ち着いて考える時間を持てないことも多いと思います。
そういう時に、これまでの研究の蓄積を一般の方に理解しやすい形で示していくことが研究者の役割の一つだと思います。そうした知を通して、自分が生きている場所を普段と違った目線で見てみるだけでも、少しは楽になったりしますよね。
──「感情資本」をはじめとした山田さんの研究テーマはまさに、いまの時代を俯瞰させてくれるものだと思います。
ありがとうございます。ただ、現代社会は複雑さを増していますし、さまざまな立場からの議論が噴出していますので、なかなか「俯瞰」するのも難しくなっていますね。「社会」全体を見通すことが容易ではなくなる中で、ディシプリンとしての社会学についても常に再考が求められていると思います。
私としては、「何だろう、これ?」「どうして、こうなるの?」と思うことについて、ずっと社会学を通して考えてきたんですね。結果的にそれが「時代について考える」ということにつながっていたなら幸いです。今回、「概念の社会化」ということで、今までにない形でアカデミックな知を届ける回路を作っていく試みに参加できることが嬉しいですし、アーティストさんとのコラボもとても楽しみにしています。
Text by Mariko Fujita, Interview & Edit by Masaki Koike
【12/10開催】何のための「マインドフルネス」や「リトリート」?──社会学者・山田陽子さんと”仕事とセルフケアをめぐるモヤモヤ”を語り合うワークショップ、参加者募集!
「いま私たちはどんな時代を生きているのか?」をアカデミアの知を頼りに探求する「デサイロ」では、アカデミアの知を社会に届ける取り組みの一環として、ワークショップへの参加者を募集します。
今回のファシリテーターは、「感情資本主義」の専門家として、パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックといった仕事の問題を研究する社会学者・山田陽子さん。そんな山田さんと一緒に、"資本主義社会の仕事と感情にまつわるモヤモヤ”について語り合うワークショップを開催します。
現代において、仕事の能率や成果を高めるために、マインドフルネスやリトリートに取り組むことは珍しいことではなくなってきています。しかし、これは考えてみれば少し不思議な現象です。もともと社会生活から少し距離を取るための営みであるはずのマインドフルネスやリトリートが、社会生活における能率や成果を高めるために行われているこの状況に、ともするとモヤモヤする瞬間もあるかもしれません。
そこで今回は、仕事とセルフケアについて参加者の実体験での話を聞きながら考えていくワークショップを開催します。
・資本主義と仕事・感情に関して、社会学者と直接議論しながら理解を深めたい方
・仕事と「癒し」・セルフケアの間でモヤモヤを抱えている方
をはじめ、ご関心のある方はぜひフォームよりお申し込みください。
###山田陽子さんからのメッセージ
本ワークショップでは、現代社会における仕事と感情、セルフケア、自己啓発について、社会学の観点から皆さんと一緒に考えます。
参考文献は、山田陽子『働く人のための感情資本論:パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』(青土社, 2019)、E.カバナス&E.イルーズ『ハッピークラシー:「幸せ」願望に支配される日常』(みすず書房, 2022)です。
とはいえ、事前に読む時間が取れなくてもまったくかまいません。デサイロでの私のインタビュー記事を読んでくださっていればOKです。最初に私がミニ講義をして、その後、皆さんと語り合う時間を持ちたいと思います。テーマにご関心のある方、日頃なんとなく抱いている疑問やモヤモヤを誰かと共有して考えを整理したい方、どうぞお気軽にお越しください。皆さんにお目にかかることを楽しみにしています。
##対象となる方(8〜10名(予定))
・「マインドフルネス」や「リトリート」、「ウェルビーイング」にひも付くアクティビティに参加したことがある方
・職場や働く現場における「感情管理」やセルフケアについてモヤモヤを感じている方
・社会学の視点からいま私たちが生きている時代を考えてみたい方
###開催日時・場所
12/10(土) 13:00-16:00@都内
###参加費
無料
###申し込み方法
こちらのフォームに必要情報を記入ください。ご入力いただいたメールアドレス宛に当日のご案内をお送りさせていただきます。
【お申込みフォーム】
https://forms.gle/u1ESwaVzeqAg5eyu9
###注意事項
・ワークショップのなかで語られた内容は、匿名性を確保した上で、今後の研究プロジェクトのなかで資料として用いることがあります。その場合、改めて確認をとらせていただきます。
・8〜10名ほどの参加を想定しております。参加者が定員になり次第、募集を締め切らせていただく可能性があります。
・後日、個別のヒアリングのご相談をさせていただくことがあります。
■ Twitter:@desilo_jp
■ Instagram:@desjp
■ Discord:https://discord.gg/ebvYmtcm5P
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【10月22日開催】人文/社会科学領域の研究をエンパワーするには?──社会との接続、資金調達の方法を考える【De-Siloローンチ記念イベント】