4月13日と14日に開催された「研究」と「アート」が交差する2daysイベント「DE-SILO EXPERIMENT 2024」。人文・社会科学分野の4人の研究者が「いま私たちはどんな時代を生きているのか」を考えるための研究テーマを設定し、そのテーマに基づきコラボレーターとなる計11組のアーティストが作品を制作。展示、パフォーマンス、トークセッション、ワークショップの4つのコンテンツを通じて、研究とアートの融合が展開された。
総計で約400名が来場し、“東京らしい雑多さ”から「知」と「表現」の可能性を探る場として閉幕した本イベント。そのDAY2は、ライブパフォーマンスやDJを中心としたセットを通じて、哲学者の柳澤田実が検討する「we-ness 私たち性」を多角的に捉えていく一日となった。当日の様子を、さまざまなメディアに寄稿しており、女性ラッパーの功績に光をあてた著書『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)の著者でもある文筆家・つやちゃん氏がレポートする。
(DAY1のレポート記事はこちら:小説と歌、遊びと儀式。「表現」から探求する、人文・社会科学の知の可能性——「DE-SILO EXPERIMENT 2024」Day1レポート)
大音量とは“全く異なる”脳や身体の振動
「DE-SILO EXPERIMENT 2024」DAY2は、音楽からのアプローチが強まったプログラムになった。しかしそれは、音楽だけの力では決して成し得ることのできない、デサイロならではの「研究知」が作用したからこそ生まれた新たなシナジーだったように思う。画期的で、驚きに満ちた一日をレポートしたい。
DAY1同様、まず開催されたのは、小説をもとに参加者それぞれが「身体の未来像」を考えるワークショップ。
ここで用いられた小説は、人類学者の磯野真穂が設定したテーマ「21世紀の理想の身体」をもとに彼女自身が執筆したもの。脱毛に美容整形、医療痩身……「ありのまま」が称揚されるにもかかわらず身体のありとあらゆる場所に手を加え安心を得ている現代の私たちだが、磯野はそのような矛盾を、未来の物語として落とし込んでいった。さらに、その作品を読んだ3名の小説家が各々の視点から咀嚼し、オリジナルの短編小説を書き下ろす。
参考:“ありのまま“ではいられない私たち。「理想の身体」への欲望から見えてくるもの──人類学者・磯野真穂
この日はDAY1にも登壇した小説家の山内マリコに加えて、同じく小説家の松田青子が登壇。参加者は、ワークショップにて小説の内容をベースに「ありえてしまうかもしれない社会像」を飛躍させていく。
まず、冒頭で磯野は今回のワークショップの目的を語った。
「面白さを駆動させるために小説の力を借りたいんです。大学の授業は概念を教える場であって小説のような描写はしません。でも私は、学問の三人称と小説の一人称をつなげたい。
具体的には、21世紀の理想の身体がどのように変わっていくかについて、皆で想像を膨らませていくというのが今日のテーマです。今は『ありのまま』とか『自分らしさ』とかが称揚される時代ですが、同時に暗黙のうちに『理想の身体』像が共有され、『こうなりなさい』と言われているような感覚もあります」(磯野)
まったくもってそうだ。「自分らしさ」と「理想の身体」をめぐるダブルバインドは、あらゆるところで人々を混乱させアイデンティティを引き裂いている。
参加者の間にも共感が伝播していき、ワークショップでは多くの「ありえるかもしれない社会像」が提示された。体臭は重大なハラスメントになりつつあるかもしれない。他者に接触すると罰金が科される世の中になるかもしれない。過去の自分の写真を修整することが当たり前になるかもしれない——等々。
その時、法や倫理はどのようなアップデートを求められるのだろうか? 「人権」の定義そのものが大きく書き換えられるのではないか? いや、むしろすでにもうそういった時代が到来しつつあるのでは……?
さまざまなアイデアを通して、WALL&WALLの場に想像力と新たな知の回路が広がっていく。普段大音量を浴び踊っているようなフロアで、全く異なる方向から脳や身体の振動を受けることが、新鮮で心地よい。
ワークショップ終了後、次のプログラム開始まで、OMOTESANDO MUSEUMの展示へ。
刺激的な作品が並び、多くの人が鑑賞とともに思考を巡らせている。思わず見入ってしまうものばかりだ。
磯野真穂の研究テーマ「21世紀の理想の身体」に、アーティストの山内祥太が応答して披露した展示「-HRR - OBSESSIONIZM」。社会学者・山田陽子の「ポストヒューマン時代の感情資本」という研究テーマに応答した、メディアアーティスト/ゲーム開発者・木原共の体験型ゲーム。
鑑賞していると、あらゆる方向から脳が錯乱させられる。恐らく、創作活動とアカデミアの知がこういった形で衝突しているさまを、初めて目の当たりにしたからだろう。
電子音を切り裂く朗読が、「私たち性」についての思索を誘う
知の回路があたたまってきたところで、次はパフォーマンスへ。
映像作家のPennacky、ラッパー/トラックメイカーの荘子it、そして哲学者の柳澤田実という三人による創作だ。柳澤の「『私たち性 we-ness』の不在とその希求」という研究テーマに応答して制作された映像作品「実景集」がOMOTESANDO MUSEUMにて展示され、さらにWALL&WALLではパフォーマンスが行われた。
テント型に仕切られたフロア空間の中に皆が集まり、身体を寄せ合いながら座る。ここで荘子itは、暗闇の中でグリッチ/ノイズにまみれた電子音を切り裂くように朗読を披露した。吉本隆明『言葉からの触手』からの引用だ。
わたしが思い違いをする。そしてあなたも思い違いをする。わたしやあなたが思い違いをしやすい主題は、その発想の型がどこかで、じぶんと親たちとの関係に源泉をもつものではないだろうか。
audiot909 & TOMC「he Out of Africa Hypothesis (feat. 荘子it)」が流れ、続いて高橋睦郎の詩「いまは」が朗読される(このテキストは柳澤が荘子itとの対話の中で紹介したものだという)。
私たちはようやくにして知った/世界は言葉で出来ていたのだ と/言葉がゆっくりと壊れていく時/世界も目に見えず壊れていったのだ と/壊れた世界を回復するのだ といって/そのための言葉が機能しないから といって/たぶん あせらないほうがいい/時間をかけて壊れた言葉は/時間をかけてしか回復しない/壊れたのなら 自分が回復する/などと 過信しないほうがいい/知るがいい 言葉が壊れた時/きみじしんも壊れたのだ と/きみもまた 言葉で出来ていたのだ と
音の洪水に溺れそうになりながらも、荘子itは憑りつかれたように最後まで力強く朗読を続けた。ことばについての価値観を強烈に揺さぶられる体験だったが、それを説明するには、直後のトークセッションで交わされた三人のことばを振り返り整理しておく必要があるだろう。
そもそも本パフォーマンスは、柳澤が研究する「『私たち性 we-ness』の不在とその希求」というテーマから出発している。宗教からファンダムカルチャーに至るまで「人々が何かを神聖視すること」について横断的に研究している柳澤は、デサイロからの「いま私たちはどんな時代を生きているのかを考えたい」というテーマに対し、そもそも「私たち」とは何か?を問いかけた。つまり、いまの日本では、「私たち」あるいは「共同体」という言葉からリアリティが失われているというのだ。
「私」とその家族や友人たち以外は、すべて「彼ら」、つまり「私/膨大な彼ら」という認識しかなく、だからこそ各々がエゴイズムを克服する契機を失っている、と柳澤は語る。その主張に、会場の皆が聞き入った。
参考:“ねじ伏せない”社会変革のため、「私たち」の感覚にリアリティを付与する──哲学者・柳澤田実
「西洋は、キリスト教の血縁をベースとした共同体を解体したことで、12、13世紀から数百年をかけて血縁ベースの共同体が主流ではなくなりました。都市部に地縁血縁から解放された個人が流入し、そこで理念や目的に合わせた「私たち」ができあがっていった。かくして、イデオロギーや信念に基づくコンセプト・ドリブンの共同体が実現したわけですが、西洋が長い時間をかけてやってきたことを、日本は明治維新以降一気に行なうことになったのです。
しかし当然、長らく共同体というものを家族の延長戦で考えていた我々にとって、コンセプトでつながるというのは難しい。気がつくと、つい人間関係が前面に出て人間関係ごとになってしまいます。抽象的な概念に対してリアルを感じるということ自体がどうしても西洋的なあり方であって、日本に住む我々にとっては、やはり家族や親しい友人こそが共同体でありリアルな関係です。
けれども、現在の日本では皆が個人消費に閉じてしまっている中で、孤独とアイデンティティへの不安を抱え苦しむ人たちが増えているのも確か。『世界は自分と他者が協力し合えるんだ、手を取り合えるんだ』ということへの信頼が失われ、利他的な行動が成立しなくなってきている。一方で、西洋のコンセプト・ドリブンの価値観が作るシステムも様々な限界が見えてきており、今、我々は『私たち性』をどのように考えていけば分からなくなっているのではないでしょうか」(柳澤)
話を聞きながら、ふと考え込んでしまった。筆者が「私たち性」について意識したのは——当時はそういったことばで思考してはいなかったが——親もとを離れて大学に進学した時だった。周囲は進学先に高校の同級生がいたが、私の場合は自分ひとりしかおらず、突然都会の海に放り出された感覚があった。
もちろん、学部のクラスやサークルやアルバイト先など、自分を受け入れてくれるコミュニティがなかったわけではない。ただ、育ってきた環境とは全く別の地域だったため、そこではことばのノリも、人の歩く速度も、笑いのツボも、まったく違った。社会に出たと同時に社会を失ってしまった感覚だったのだ。
共同体なき場所に放たれた自分が、当時、次第にインターネットに希望を見いだしていったことも思い出す。2000年代半ば、あの時のわくわく感は、実のところインターネットが新たな社会になり得るという希望だったのかもしれない。
時は流れ、2024年のいま、もう誰もインターネットには夢を抱いていない。たとえば、ツイッターはXになり、イーロン・マスクの気まぐれによってその共同体は脆弱なものであることが一層あらわになった。それぞれが個別の小さいコミュニティに閉じたが、結局それは、従来のムラ社会的共同体の延長線上にあるような閉塞感が漂っている。過激なインプレッション競争や派閥争いから隠れるように息を潜める我々は、防空壕で身を寄せ合う弱き者のようだ。
「ことばと風景が手を結ぶ前」へと戻る
話を戻そう。対話を繰り返す中で、Pennackyから「風景を撮りたい」という案が出てきて柳澤はハッとしたという。概念やコンセプトではなく、同じ風景を共有することで「私たち性 we-ness」を立ち上げられるのではないかという仮説にたどりつき、コラボレーションは一気に進んでいったそうだ。
表現者と研究者がそうやって創発し合うこと自体が本イベントならではの化学反応と言えるが、実際、映像に触れサウンドに身をまかせていると、次から次に繰り出される荘子itの朗読がぐさりと胸を刺してくる。
いま思い出すべきは きみの未明の時/きみの内なる闇に 一つの言葉が生まれ/生まれた言葉が 別の言葉を呼び/言葉たちが手をつないで 立ちあがった/その時 幼いきみが怖ず怖ず立ちあがり/幼い世界が危なっかしく立ちあがったのだ/その時 きみはあせらなかった/あせることなど知らなかった/きみのその時を思いおこすがいい/きみはいま あの時と同じ未明にある
荘子itはこの日のトークセッションに実子を連れてきており、赤ん坊を抱きかかえながらのトークとなった。その様子も相まって、朗読していた詩のことば一つひとつが、より一層のリアリティをもって迫ってくる。彼は、「ことばで成り立っている世界が崩壊している時に、我々が赤ちゃんの時にことばを獲得していったことを思い出したい」としたうえで、「 ことばとともに自分自身が立ち上がっていくという感覚が重要」と説いていた。
これは、非常に示唆に富む話だ。赤ん坊が生まれ、目に映る風景を見ながら、覚えていく一つひとつのことばとその景色を紐づけること——記号と意味を糊付けしていく作業——によって、人はまず家族という共同体の構成員として成長していく。
「赤ん坊の頃を思い出そう」というのは、記号と意味がベタ付いたあとではなく、その過程にこそ意義があると言いたいのではないか。ことばを覚え風景が言語のもとで整理されてしまったあとよりも、それらが整理されないままの状態にこそ、我々が繋がり共同体を生むヒントがあるのではないか。断片的なトラックの連なりに乗りつつも切断されていく荘子itの朗読を聴いていると、そう思わずにはいられなかった。いかにして赤ん坊に戻るか、いかにことばと風景が手を結ぶ前の状態で人と人が鉢合えるか。
そして、「実景集」を制作した映像作家のPennackyも、半ば無意識ながら同様の問題意識に貫かれていたのではないか。
彼も初めは「私たち性」が分からなくて悩んだらしい。制作にあたりアプローチを二転三転させたうえで、最終的に「風景を撮りたい」と悟った。それについて柳澤は、「確かに日本では風景を共に見るという共同の体験を大事にしてきた。桜を見たり、銭湯に富士山を描いたり、和歌を詠んだりと、景色を愛でることを繰り返してきた。小津の映画も、西洋の視点から見ると風景描写が独特だ」と述べつつ、次のように指摘する。「でも、Pennackyさんの作品には、最後ゴジラのような不思議なものが映っています」。
そう、彼は、意図的に目的地を決めず様々な場所の風景を撮りつつも、最終的には見たことのない生き物に出会いたいと思ったらしい。この国で共同体を生み出すためのヒントとしての「風景」を撮り続けながら、結局はそれによって生じてしまう意味から逃走し、「見たことのない生き物」へ向かっていった点に、奇妙なシンクロニシティを感じずにはいられない。
荘子itは、Pennackyのそういった表現について、次のようなことばを添えていた。
「日本や中国では、山水画や浮世絵のように、様々な時間軸やシチュエーションが同居するあり得ない絵を描いてきた。それは、西洋のキュビズムみたいに概念化・哲学化されている形ではなく、ごく自然にやってきたことなのだと思う。実景集と断っておきながら最後に特撮が出てくる、Pennackyの映像と近いところがある」(荘子it)
ディスコミュニケーションから立ち上がる「私たち性」
面白いことに、テーマ「we-ness 私たち性の不在とその希求」に応答した新曲「NANA」を制作したバンド・んoonのパフォーマンスにも近しいものを感じた。
そもそもんoonの演奏や楽曲は「崩壊したアンサンブル」と評されたこともあるというが、一人の頭で全てを完結させるのではなく、バンドメンバーそれぞれが自分のやりたいことをやる。それでも、バンドという共同体としてぎりぎり成り立ち、“私たちである”状態として演奏や音源が存在している──そんなバンドのあり方が、柳澤の研究テーマ「we-ness」と通ずるところがあり、両者のコラボレーションは始まったのだという。
「NANA」の制作過程においては「作品の説明がなくても耳を委ねられるような強度があること」「作品の説明を経ると聴くものの聴取の体験がさらに変化すること」が重視されたという。演奏中なにをやりとりしているのか分からなくなる曲のようで、リーダーの積島直人曰く「『7拍のベースリフ』『4小節で円環するハープ』『3拍+4拍のキーボード』『28小節で一周するリズム』『2文字/3文字の言葉とメロディ』といった輻輳する各パートの音が寄る辺なく並走していくことで、どれを聞いてもどれかとはズレていく感覚が常にある」とのこと。「無理やり楽譜に起こせないこともない、無理やり解読できないこともないテクスト群にある『掬いとれなさそうな澱の部分』を『私たち性 we-ness』と呼べるのかもしれない」と言うが、確かに、「NANA」には不思議な違和感と穏やかさが同居している。
バンドというのは、音楽を通した共同体で「私たち性」を追求していく作業とも言えるが、積島直人(ベース)はメンバーとのやり取りを「ディスコミュニケーションで生産性を高める」とも表現していた。
「相手に伝える時にことばを使いますよね。でも、文字面ではこう言ってるんだけどうやら違うようだな、と感じることがあります。本音は違うところにありそうだ、と。そういう時は、誤解しながらも相手を慮って手探りでやるしかない。『こうやりたい』と相手が言ったとしても、その通り受け取らないことも多いんですよ」(積島)
んoonには、互いの齟齬を齟齬として認識しながら楽曲制作を「受け入れる」という余白がある。JC(ボーカル)が語った、「本当に自分がやりたいことだけをしたいなら一人でやればいい。でも今私たちが求めているのは、一人で完成したものではないんです」ということばが忘れられない。
作詞においては、JCがLINEでメンバーに投げた歌詞のアイデアに対し、2週間くらい経って忘れた頃にふと反応が返ってくることもあるそうだ。一見、噛み合っていないように見える部分もあるが、全体としては少しずつ前に進んでいるという感覚。
そういった価値観のもとで「NANA」を聴くと、「すごく眠い」という歌詞一つとっても、色々な意味へ拡張していくのが分かる。眠いはずなのに、何か身体が躍動するような違った眠さを感じて踊り出したくなるような不思議。
これもまた、「風景」と「ことば」が繋がっていく前の過程について考える、という示唆に通じるものがある。ことばが何かを表象してしまう前の、混沌とした状態で人と人が繋がるという奇跡。
ソリッドなことば、世界を切り取ることば
そして最後は、ヒップホップアーティスト・Skaaiがトークセッションに登場。「自分は日本人ではなく、国籍がアメリカにあって、韓国にも中国にもルーツがある。なぜか父は中国系なのにマレーシアに親戚がいる。シンガポールにも住んできた」と語るSkaaiは、ドイツ語も学び、ラップの言葉も操る。
柳澤はそんな彼に、ことばの可能性をいかに考えているか尋ねた。Skaaiは言う。
「自分が専攻していた分野では、ことばのもつソリッドさを駆使していたんです。でも今自分がヒップホップでやっていることばは、ソリッドな使い方ではなく、いかに世界を切り取るかというもの。いずれソリッドなことばに戻らないといけないという気持ちもあるんです。なぜなら、ずっと曖昧なことを考えているとおかしくなるから」(Skaai)
司会の岡田弘太郎は、以前インタビューでSkaaiが語っていた「初めは踊ってるんだけど、でも踊ってる場合じゃなくなる感じ」という表現にしっくりきたという。Skkaiは「FINE LINE」(2023年3月にSIRUPとuinとのコラボレーションのもとリリースした楽曲)がまさにそういう曲だと返答していた。ガラージでテンポが速くてノれるが、じつはそこには明確な政治批判があると。
トークを終え、この日の出演者やパフォーマンスアーティストが揃い感想を語り合った。さまざまな領域で多くの試行錯誤が行なわれた一日だっただけに、互いに受けた刺激についてそれぞれが口々に語る。アートから見た音楽の可能性について等「いま私たちはどんな時代を生きているのか」の答えが異ジャンルの視点で交わされ、その雑多性に、本イベントならではの達成を感じた気がした。
プログラムは、SkaaiのDJで幕を閉じた。DisclosureやMagixx、Mcdeez Fboy、DEAN、MF Doomといった多彩な国・ジャンルの曲が次々と繋がれる中で、今日の一日に思いを馳せながら、共同体とは何だろうと改めて自らの思考の感触を確かめた。
それはどのような質感で、どのような温度で、どのような姿かたちをしているのだろう? ことばを覚えて言語のもとで整理されてしまったあとではなく、それらが整理されないままの状態に立ち返りながら、赤ん坊の状態で誰かと何かを分かち合いたい。何か、できそうな気がした。少しずつだが、何かできそうな気が。
そもそも、メディアアートや音楽、映像といった表現と、「研究知」がこのような形で交わる場に、私は初めて立ち会った。間違いなく、新たな回路が開いた。
私たちは、「私たち」として、恐らく何かを分かち合える。それを共同体と呼んでいいかは、正直分からない。けれど、今よりはずっとすばらしい世界のはずだ。
(取材・文:つやちゃん)
■論考集「DE-SILO PUBLISHING第一弾書籍(限定1000部)」のご案内
「DE-SILO EXPERIMENT 2024」に参加した人文・社会科学分野の4名の研究者(磯野真穂さん、柳澤田実さん、山田陽子さん、和田夏実さん)による研究成果は、論考集「DE-SILO PUBLISHING第一弾書籍(限定1000部)」として刊行されます。
なお本書籍は一般販売はせず、De-Siloの活動をご支援いただくサポーター(寄付)加入の返礼品として、1万円を寄付いただくごとに一冊ずつお届けするかたちになります。
非営利型一般社団法人として運営しているデサイロは、みなさまからの寄付や事業収入にて活動を継続しているため、こうした取り組みのためにサポーター(寄付者)を募集しています。私たちの活動に共鳴し、デサイロおよび研究から生まれる知の可能性をともに切り拓き、豊かにしていく営みを共にしていただける方は、ぜひサポーターになっていただけますと幸いです。
1万円を寄付いただくごとに、デサイロ第1期の研究プロジェクトに参加した人文・社会科学分野の4名の研究者(磯野真穂さん、柳澤田実さん、山田陽子さん、和田夏実さん)による研究成果がまとめられた論考集「DE-SILO PUBLISHING第一弾書籍(限定1000部)」を1冊プレゼントします。
タイトル:
磯野真穂・柳澤田実・山田陽子・和田夏実『生の実感とリアリティをめぐって』(全四巻)
目次:
第一巻:磯野真穂『21世紀の理想の身体』
第二巻:柳澤田実『「私たち性 we-ness」の不在とその希求』
第三巻:山田陽子『ポスト・ヒューマン時代の感情資本』
第四巻:和田夏実『「生きているという実感」が灯る瞬間の探求』
特別付録:磯野真穂・松田青子・李 琴峰・山内マリコ『短編小説集:「21世紀の理想の身体」の世界を生きる』
発行部数:
限定1,000部
書籍概要:
DE-SILO PUBLISHING第一弾となる書籍「磯野真穂・柳澤田実・山田陽子・和田夏実『生の実感とリアリティをめぐって』(全四巻)」は、「研究」と「アート」が交差したからこそ生まれた、いま私たちの社会から抜け落ちつつある「生の実感とリアリティ」を考え直す四篇のテキストです。
「いま私たちはどんな時代を生きているのか」という問いに人文・社会科学分野の4名の研究者が向き合い、設定した4つの研究テーマ──「21世紀の理想の身体」「『私たち性 we-ness』の不在とその希求」「ポスト・ヒューマン時代の感情資本」「『生きているという実感』が灯る瞬間の探求」。2024年4月13-14日の2日間にわたり開催された「DE-SILO EXPERIMENT 2024」では、そのテーマに基づきコラボレーターとなるアーティストが作品を制作し、作品展示やパフォーマンスが展開されています。
アーティストたちとの協働プロセスの中で、4名の研究者もまた、普段の研究活動の中では得られないような刺激やインスピレーションを得て、それぞれの研究テーマに関する思索を深めていきました。その最終成果は、研究者たちによるそれぞれの論考をまとめた書籍というかたちでも結実。書籍の制作数は限定1,000部です。
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