「仲人」からマッチングアプリへ。マッチメーカーの近現代史から、パートナーシップのこれからを考える|阪井裕一郎
事実婚、夫婦別姓、同性婚、マッチングアプリ、ポリアモリ……まだまだ課題は山積しているものの、ここ数年、パートナーシップのかたちや選択肢が急速に多様化しつつあります。
“20世紀型の旧態依然とした結婚”から、“21世紀型の自由なパートナーシップ”へ──いま私たちはそんな転換期に立たされているようにも思えますが、この状況をいかにして捉え、これからのパートナーシップのかたちを模索してゆくべきなのでしょうか?
この問いに向き合うにあたって、重要な補助線と示唆を提示してくれるのが、社会学者の阪井裕一郎さんです。「仲人」の近代史から、「事実婚」と「夫婦別姓」、そしてマッチングアプリまで、家族社会学の視座から研究を重ねてきた阪井さんは、「昔はお見合い、近年は自由恋愛」といった単線的な捉え方に疑義を呈します。
現代におけるパートナーシップは、いかなる地点に立たされているのでしょうか? 明治以前の婚姻のあり方から昨今のマッチングアプリを取り巻く課題まで、結婚を仲介する「マッチメーカー」(matchmaker)の近現代史をたどりながら、パートナーシップの現在地を論じていただきました。
阪井 裕一郎(さかい・ゆういちろう)
1981年、愛知県生まれ。大妻女子大学人間関係学部准教授。博士(社会学)。専攻は家族社会学。著書に『仲人の近代――見合い結婚の歴史社会学』(青弓社)、『事実婚と夫婦別姓の社会学』(白澤社)、共著に『結婚の自由――「最小結婚」から考える』(白澤社)、『社会学と社会システム』(ミネルヴァ書房)、『入門 家族社会学』(新泉社)、『境界を生きるシングルたち』(人文書院)、共訳書にエリザベス・ブレイク『最小の結婚――結婚をめぐる法と道徳』(白澤社)など。
1.はじめに
未婚化や少子化が進行するなかで、結婚相手と巡り会うことができない人々の増加が社会問題とされて久しい。日本社会で長らく結婚を仲介し、夫婦を支える役割を担った「仲人」や「見合い」の慣行が衰退し、パートナー選択が個人の自助努力によって達成すべきものへと変化してきたこともその要因の一つに挙げられるだろう。
もちろん、結婚観が変化したことは必ずしも否定すべきことではない。とはいえ、個人化が進行するなか、安定的な帰属先を失い、持続的で安定的な関係性を形成することに困難を抱える個人が増加している。現代社会は、ライフスタイルにおける「個人の自由」を最大限尊重しながら、同時に人々を孤立させずにいかに繋げるかという難しい課題を突き付けられている。
本稿は、結婚を仲介するマッチメーカー(matchmaker)に注目して、パートナーシップの現状と課題について考察する。近代以降の日本で長らくマッチメーカーとして君臨した「仲人」の盛衰の歴史を振り返り、個人化やデジタル化が進行する現代のパートナーシップについて検討する。
2.「仲人」から見る、パートナーシップの近代史
(1)明治以前〜戦前:「夜這い」から「見合い」へ
「仲人は一生に三度くらいしないようでは、人間の価値がない」、「仲人をすることは、一人前の社会人に成長したことを証明するようなもの」──。戦後の結婚関連書物には、仲人に関するこのような文言が必ず掲載されていた。
仲人と聞くと、戦前の家制度と関わる「前近代的な存在」をイメージするかもしれない。しかし、戦後に「恋愛結婚」が急増し「見合い結婚」が減少するなかでも仲人はその形や機能を変えつつ存続し続けた。結婚の8割以上が恋愛結婚となった1990年に至ってもなお8割以上のカップルが結婚式には仲人を立てていたのである。まずは、近代日本における仲人の隆盛と衰退という現象について論じていこう。
仲人は太古から続く日本の伝統文化とはいえない。仲人を立てる結婚形式は、江戸時代には人口の5%程度にすぎない武士階級に限られ、明治初期までは庶民に浸透していなかった。明治以前の村落社会では仲人や見合いという慣習は浸透しておらず、代わりに行われていたのが「夜這い」の風習である。夜這いは鎌倉時代に定着したといわれ、むしろこれが日本における配偶者選択の「伝統文化」であった。村落共同体では、結婚の仲介は「若者仲間」や「若者連」と呼ばれる同輩集団が担っており、結婚は共同体の規制のうちにあったのである。
仲人の媒介による結婚が広く浸透するのは近代化以降のことであり、その過程で夜這いなどの婚姻風習は「野蛮」という烙印を押され排斥されていった。明治政府は、武家社会の儒教道徳を基盤とする「家族主義」を重視し、仲人を媒介とする結婚を規範とした。儒教的な家族道徳により、父母の発言力が増し、個人よりも「家」が重視されていく中で、若者同士の自由な結婚は否定されるようになる。夜這いは野蛮とされ、仲人のいない恋愛結婚は、「畜生婚」や「野合」などと呼ばれ蔑みの対象となった。武家社会で確立していた仲人という「伝統」が近代化を進める中で再発見され、国家統治に活用されたのである。
大正時代になると、恋愛至上主義が隆盛する。ただし、その言説を追ってみると、恋愛が「正しい恋愛」と「正しくない恋愛」に区分され、そこでは「自由恋愛」が否定されていたことが分かる。正しい恋愛や結婚のためには家同士の釣り合いだけでなく、相手の身体能力や健康、遺伝といった優生思想的な正当性も必要とされたのだ。つまり、結婚に仲人を立てることは、二人が無頓着に結婚したわけでないことを示すものであり、社会的に「品質」が保証された結婚であることを対外的に示すものだったといえる。戦時下には、「公の仲人」としての結婚媒介事業も盛んになった。「結婚報国」を掲げ「産めよ殖やせよ」の人口政策のもと、厚生省が主体となり、結婚や出産、育児が国家によって管理されていく。官製の結婚相談所もつくられ、それが地域の隣組などにも張り巡らされていったのである。すなわち、男女交際や配偶者選択は近代以降に「自由」が奪われてきたことがわかる。人々の結婚や家族観も、個人よりも国家への忠誠に基づくものになっていく。
(2)戦後〜高度経済成長期:血縁・地縁から「職縁」へ
戦後、家制度が廃止されたことで、見合い結婚を「封建的」とする見方が急速に社会に広がる。特に1959年の皇太子の「ご成婚」は恋愛結婚ブームを生み、恋愛を蔑視の対象からあこがれの対象へと変えるきっかけになった。
高度経済成長期に入ると、結婚と企業の結びつきが強まる。職縁結婚が増加し、結婚式の仲人を「職場関係者」が占める比率が高まっていく。高度経済成長期には終身雇用や年功序列といった日本型経営が行われ、企業を拡張されたひとつの家族として捉える「経営家族主義」が評価された。企業が従業員家族の生活保障を担う制度の確立によって、家族や結婚生活が企業と密に結びつき、その依存度を高めていったのである。その中で、結婚のきっかけは従来の「地縁」から「職縁」へと変化する。当時の職縁結婚は当事者の意識としては恋愛結婚だったとしても、「企業によって身元保証された男女」が帰属意識の高い集団のなかで配偶者を見つけるというかたちをとった。男女ともに生涯未婚率が5%を割るような当時の「皆婚社会」を支えていた大きな要因の一つがマッチメーカーとしての企業社会の存在だったのである(岩澤・三田 2005)。
熊谷苑子による全国調査『戦後日本の家族の歩み』(略称NFRJ-S01)の分析によれば、1950年代までの仲人は、「親族等」が70%以上で大半を占めていたが、その後減少していく(熊谷 2005)。対照的に、「職場の関係」が戦後一貫して増加傾向におり、1980年代後半には40%を超え「親族等」を上回りトップに躍り出る。特に1960年代以降、「夫方の関係のみ」が仲人を務めるケースが過半数となり、1980年代後半には約70%と多数派になっている。結婚の社会的承認を求める基盤が、男性を中心とする企業社会へ移行したことを示している。
戦後は「恋愛結婚」割合が上昇したことで、配偶者選択をめぐる「個人の自由」が普及したととらえるのが一般的だが、より正確にいうならば、結婚は「企業」へと組み込まれていったのであり、血縁・地縁に代わって新たに職縁がこの時代の結婚を支えていたと考えることができるだろう。
(3)1990年代〜2000年代:仲人の消滅
現在は結婚式の際に仲人を立てるカップルは1%にも満たない。しかし、注目すべきは、仲人はけっして漸進的に減少してきたわけではないということだ。ブライダル事業の大手企業Bicブライダルの調査によれば、1990年時点で結婚式に仲人を立てた割合は86.3%という高い数値を示していたが、99年には21.1%まで減少した。リクルート社の『ゼクシィ結婚トレンド調査』(2005年版)における「首都圏の経年比較」を見れば、結婚式で仲人を立てた割合は、97年までは過半数を占めていたが、2004年には1.0%にまで急減している。仲人は1990年代に減少を始めそこから一気に消滅へと至った。注目したいのは、戦後に見合い結婚が減少していくなか、形式的な「頼まれ仲人」であったにせよ、仲人慣行だけは存続し生きながらえてきたという事実である。
仲人が急減するのは1990年代半ばから2000年代初頭にかけての出来事だったわけだが、この10年はいわゆる「失われた十年」と呼ばれる日本経済の低迷期と重なっている(現在はさらに「失われた三十年」とも言われる)。仲人割合が過半数から1%まで激減する1995年から2005年の10年は、平均初婚年齢に鑑みれば、おおよそ「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代の結婚コーホートだといってよい。つまり、「失われた十年」に仲人は失われたとみることができる。
小括:共同体から個人へ──「仲人の消滅」が示すもの
仲人の近代史をたどると、人々の帰属集団が村落共同体から家へ、家から企業へと移り変わってきたことが分かる。戦前の日本では国家を一つの家族とみなし、親への孝行を天皇への忠誠と同一視する家族国家観にもとづく共同体へと人々を動員する動きがあった。戦後は、地域社会・村落共同体が弱体化していくなか、終身雇用制や年功序列、企業内福祉等を柱とする日本的経営を基調とする企業が、社員とその家族を公私にわたって丸抱えする共同体として存在した。そして現代において問題化されているのは、こうした共同体から離脱する個人である。
背景には経済構造の変化に伴う結婚観の変化があるだろう。バブル崩壊後、家族生活を企業が保障するという福祉システムが揺らぎ、雇用の流動性が高まり非正規雇用が増加するなか、人々の企業への忠誠心や帰属意識が希薄化していく。企業が「自助努力の重視」に舵を切り、結婚や家庭の問題は個々の労働者の責任と位置づけられていく。
さらには、プライバシーやハラスメントに対する新しい価値観が浸透し、地域社会や職場集団が個人間の結婚に介入することは忌避されるようになった。結婚は個人的なイベントと位置づけられ、そこに仲介人や後見人としての仲人が介入することはなくなっていった。このようにみれば、「仲人の消滅」という現象は、単なる古い慣習の衰退としてのみとらえられるものではなく、人々の帰属集団や結婚観が変化するなかで生じた現象だといえるだろう。
3.「マッチングアプリ」の登場──デジタル時代のマッチメーカー
90年代以降、配偶者選択における「自助努力」の重要性が高まり、2000年代には「婚活」という言葉が急速に社会に浸透していった。そして、近年ではインターネットが新たなマッチメーカーとしてその存在感を増している。
データの活用によって人々の生活の利便性を向上し、業務を効率化するのがデジタル社会である。マッチメーカーの役割もまたデジタルの領域へと移譲されつつある。その象徴がマッチングアプリだろう。2022年11月に明治安田生命が発表したアンケート調査では、同年結婚した夫婦の「出会いのきっかけ」はマッチングアプリが22・6%のトップに躍り出た。対人接触が制限されたコロナ渦の後押しもあり、マッチングアプリによる配偶者選択が急速に市民権を獲得しつつあることがわかる。
こうしたマッチングアプリに対してはネガティブな反応も多いだろう。その理由は何だろうか。
一つには、マッチングアプリでの出会いが「正しい出会いではない」という社会意識の存在がある。例えば、結婚披露宴では「マッチングアプリで出会った」と言うのをためらう状況があるという。社会的に認められた「正しい出会い」に照らして、逸脱的な出会いとみなされているようだ。
だが、歴史を振り返れば、出会いの「正しさ」をめぐる社会規範は変化し続けてきた。すでに述べたように、仲人を立てた見合い結婚こそ正統だった戦前は「恋愛」自体が恥ずべきことだった。反対に、恋愛結婚が理想化された戦後には、見合い結婚は個人的魅力の欠如の表れとみなされ、見合いを「恥ずかしい」と感じる人が増加した。それゆえ、たとえ出会いのきっかけが「見合い」でも「恋愛結婚」と語る人も多かった(阪井 2021参照)。90年代以降になると、「合コン」が普及するが、現在でも結婚披露宴では「友人の開いた食事会」(間違ってはいないものの、あくまで「偶然の出会い」を装う意図が感じられる)という慎重な表現が用いられたりする。このように、たとえ「リアルな出会い」であっても常に「正しい/正しくない」の境界線は存在してきたのであり、デジタル化が進行する社会において、マッチングアプリが今後その存在感を増していくことは不可逆的な現象と考えるべきだろう。
二つ目に、「マッチングアプリの出会いは危険」という社会意識の存在がある。オンラインでの出会いやその手軽さが「リアル」な出会いに比べて危険だという認識である。ただし、これも歴史を振り返れば、男女の出会いを危険視する言説はいつの時代もあふれていた。戦前は「男女七歳にして席を同じゅうせず」の儒教道徳が規範化されていたし、戦後も長らくは学校教育で男女交際を危険視する言説は支配的だった。結婚媒介業そのものはすでに明治時代には数多く存在しており、当時からその危険性はさまざまなメディアで語られていた。自分たちの世代になかったものやよく知らない新奇なものを危険視する傾向は普遍的な現象とさえいえる。マッチングアプリが危険でないというのではなく、街中で出会う場合でも、合コンで出会う場合でも、出会いは常に危険になりうるし、場合によってはアプリ以上の危険がありうるということだ。実際、ここ数年マッチングアプリ特有の危険に対する認知も高まり、いわゆる「出会い系」との差別化やルールの厳格化など、マッチングアプリの「交通整理」がある程度進行しつつあるように思われる。
少なくとも、旧来の「正しさ」への思い込みからマッチングアプリを否定するのではなく、デジタル社会においてつながりの形成をどのようにサポートするかを議論するほうが、現実的かつ建設的だといえよう。
4.マッチングアプリが及ぼす社会的影響
以上述べたように、マッチングアプリを安易に否定する傾向には注意を促したいが、それが及ぼしうるネガティブな社会的影響についても考えておきたい。
(1)既存の価値観の補強
第一に、「既存の価値観を補強する」という側面がある。マッチングアプリのような新たな手段が登場すると、それが社会をどう変えるかに関心が集まる。しかし、大事な点は、新しく登場した手段が必ずしも新しい価値観や社会関係を生むわけではないということだ。むしろ、新しい手段が古い価値観を補強することもありうる。たとえ「出会いの手段」が多様化しても「出会いの目的」は画一化する可能性がある。
そもそもAIによるアルゴリズムは個人の初期傾向に沿ってその要望に従うものであるがゆえ、既に存在する価値観をより強化する傾向をもつ。マッチングアプリは、社会通念や個人の有する趣向に沿って、それを後押しするかたちで、既存のジェンダー規範や結婚規範、ほかにも人種やエスニシティをめぐる価値観を補強していく可能性がある。これが異質な他者への理解を妨げ、社会の分断に作用することも考えられる。
以前、筆者が結婚相談所で取材を行った際、最近は「結婚できない」という理由からではなく、「より良い結婚をするために」20代前半から利用する女性も増えているという話をうかがい興味深く思った。パートナーとの出会いを日常の偶然に任せていては非効率だしリスクが高い。それに対し、最初から学歴や年収、趣味、家族構成等の詳細な情報を得られる結婚相談所での出会いは、自分の理想に合ったパートナーと効率的に出会うことができるというわけである。
社会学者エヴァ・イルーズは、私的で親密な関係性が経済モデルに浸食される傾向に警鐘を鳴らす。パートナー選択がますます合理化モデルに依拠するようになり、ウェブ恋愛はその道具化(instrumentalization)を加速化させていると指摘する(Illouz 2007:90)。イルーズが指摘するように、効率性を求め自己の利益を最大化するための戦略性が重視される行為が支配的になれば、人はあらかじめ自分自身にとって「価値がある」と考えた人のみと交流することになりかねない。もちろん、パートナー選択がこうした道具的側面を持つことはなにもアプリや結婚相談所に限られた話ではない。しかし、これらのサービスでは女性側がまず「年収」で、男性が「外見」でフィルタリングするといわれるように、既に存在する「スペックの社会的序列」がいっそう固定化される可能性は否定できない。
(2)偶然性の排除
この「既存の価値観の補強」と強く関連するが、第二に「偶然性の排除」が重要なキーワードになる。個人にとって、マッチングアプリはあらかじめ「条件の合わない人」を排除できるがゆえにリスクが少ない合理的で便利な手段だと認識される。しかし、アプリの利用により、個人が有する初期傾向が極性化していく可能性がある。あらかじめ定められた「最適解」へと人を導くマッチングアプリでは、偶然の出会いとそれに伴う個人の「変容可能性」の契機が奪われる。人は他者との関わりや偶然の出会いの中で自己を変革していくのであり、絶えず価値観の修正や刷新をおこなう。しかし、最適解に従う行為において、自分に合わない(と思い込んでいる)異質なものへの理解や自分自身が「変わる」可能性が阻害されてしまう。
そもそも「最適解」とはあくまでその時点における個人から導出されたものにすぎず、それが長い目で見て「最適解」であるという保証はない。それにもかかわらず、このことが省みられる機会が奪われてしまう。この「最適解」こそが人を拘束し自由を奪うかもしれない。これは衣服や書籍のオンライン購入などとも重なる話だろう。以前のように店頭で「偶然」出会うのではなく、「あなたへのおすすめ」という最適解が首尾よく提示され、人は自分の初期傾向にあった特定の方向に誘導される。デジタル社会では、個人の意思とは無関係に、「偶然性」は忌避され、「必然性」が尊重される傾向がある。
さらに指摘しておきたいのは、個々人の合理的行為が社会全体に合理的に働くとは限らないということである。「合成の誤謬」と呼ばれるように、個々の単位で見たときには合理的な行動であっても、皆が同じような行動をとってしまうと、全体としては悪い状況がもたらされてしまうこともある。すなわち、各個人が効率的にパートナー選択をおこなっていると考えていても、それが社会全体のマッチングを効率化するとは限らない。各人が持っている初期傾向がより固定化される結果、全体においてマッチングの「非効率」が生じうる。人々のライフスタイルや価値観が多様化する現代において、旧来の価値観が固定化されてしまえば、多くのミスマッチが生じることになるだろう。
(3)コミットメント・フォビア
第三に、「コミットメント・フォビア」の問題を挙げておきたい。オンラインでのマッチングは、パートナー選択の範囲を大幅に拡大した。潜在的なパートナー候補の人数はリアルな出会いとは比較にならない。個人差はあるものの、こうした状況が結果的に「決定」や「持続的関係」を困難にする可能性がある。
もちろん、パートナー選択の範囲が広がったことやそれが及ぼす影響についてはマッチングアプリ以前から議論されてきたことである。社会学者アンソニー・ギデンズが著書『親密性の変容』(原著1992年)で描いたように、現代の関係性は、外部の規制や伝統的拘束から自由であるがゆえ、明確な「ゴール」が定まらず「もしかしたらもっと良い人がいるかもしれない」と永遠に理想のパートナーを探し続けてしまうようなアディクション状況に陥りうる(ギデンズ 1992=1995)。ここで述べたいのは、マッチングアプリがこうした傾向をより推し進めるかもしれないということだ。
近年、「コミットメント・フォビア」という言葉が注目されている。虐待との関連などさまざまな文脈で用いられるため一概に定義するのは難しいが、端的に言えば、特定の誰かと深い関係になることを忌避(嫌悪)する症状をさす。こここでは、マッチングアプリがこうした症状を助長する可能性に限定して言及しておきたい。
パートナー選択の可能性が無限に拡大することで、特定の関係性にコミットしてしまうことへの躊躇が生じる。あるいは、いったん交際を始めても「ありうる」別の可能性が持続的関係を脅かす。特定の相手にこだわるインセンティブが低減してしまうことで、個々人の不安定性が増大するのである。
エヴァ・イルーズは、パートナー選択の自由の広がりが男女間の不平等と結びつくことを指摘している(Illouz 2012)。彼女は、特に男性に「コミットメント・フォビア」傾向が強まっているとし、その理由として男性が女性よりも長く恋愛市場で「積極的なプレーヤー」でいられる余裕があることを挙げる。例えば、恋愛市場において男性に重視される「経済資本」は加齢により高まるし、「性的魅力」は女性よりも男性のほうが(社会的に、もしくは主観的に)持続期間が長いと考えられている。何より女性はパートナー選択において出産などの身体的リミットを考慮する傾向も強い。選択肢が広がる状況では、子どもや献身的な関係を求める傾向の強い女性たちが不利な状況に置かれやすいというのだ。つまり、いつまでも「幻想」にとらわれ続け深い関係へのコミットメントを忌避する男性と、永続的な関係性を望む女性との間でミスマッチが生じるということである。このあたりは大いに議論の余地があるが、マッチングアプリが及ぼしうる社会的影響の一つとして紹介しておきたい。
5.新たな時代のマッチメーカーを考える――多様性の推進か抑制か
以上、マッチングアプリが及ぼしうるネガティブな影響について言及したが、それが人々のパートナー選択の範囲を広げ、つながりを促すことは疑いようのない事実である。
例えば、セクシュアル・マイノリティなどこれまで出会いの場や機会が制限されてきた人々にとって、新たなマッチングサービスは孤立を解消するうえで重要な役割を果たしているという指摘がある。ほかにも、対面でのコミュニケーションが苦手で、これまで自分の考えや趣味を共有するような段階まで到達できなかった人たちがオンラインでの交流によりパートナーとつながる可能性が高まったともいわれる。さらに話を広げれば、マッチングアプリはすでにさまざまな新しいつながりを生み出すうえで活用されており、趣味友やシングルペアレント同士などをマッチングするビジネスも登場している。社会的孤立が進行する現代において、マッチングアプリが多様なつながりを促す可能性にも目を向けなければならない。
筆者は、現代社会の孤立化や不平等をめぐる諸問題の要因にさまざまな「ミスマッチ」があると考えている。すなわち、人々のライフスタイルが多様化し流動化する一方で、社会は依然として旧来の関係モデルに拘束され、多様なニーズや関係性を受け止める選択肢を用意できていないということだ。その意味で、社会に存在する「ミスマッチ」を解消するうえでマッチングアプリが果たしうる可能性に期待している。
もちろん、孤立とそれに伴う社会問題への対応として、公的福祉による生活保障を求めることが何より重要なのは間違いない。しかし、同時に私的な支えあいの関係をさまざまに「マッチング」することで問題が解決できる側面にも注目すべきだろう。いくら公的福祉を拡充しても関係性の受け皿が変わらなければ、つながりからはじき出される人は減少しないからである。
このように考えていくと、現代はデジタル社会がもたらしうる「多様性の排除」に抗いつつ、「多様なつながりを促す仕組み」を構築するという難しい舵取りを求められているように思われる。ともすれば、パートナー選択やつながりへの第三者の介入は既存の価値観の押しつけになってしまう。一方、こうした介入を個人の自由への脅威として否定するだけでは進行する孤立や分断の問題に対処できない。仲人消滅社会=ポスト仲人社会において、仲介機能は従来の人間関係の枠組みにとらわれない形で再構築していかなければならない。
「孤立」を重大な社会問題ととらえ「孤独・孤立対策担当大臣」まで設置した日本政府だが、現時点ではその施策は従来の家族観や共同体観に拘束されたものにしか映らない。孤立を防ぐには人々が取り結ぶ「関係性」をめぐる固定観念を改めなければならない。個々人がさまざまな関係性を選び取れるような多様な選択肢を用意することこそが重要であり、その関係性を社会的に承認し、支援するための制度を構築していくべきだろう。これは個々人の善意や努力目標に依拠していては困難な課題である。
たとえ個々人の「自由な選択」を保障することが大切であるとしても、自由意志に基づく「選択」が必ずしも当人の福利を増進するわけではないという点も重要だ。現代社会における「個人化」をめぐる議論では、一方に個人の自由を尊重すべきとする推進の方向があり、他方に孤立化を押しとどめるべきとする抑制の方向がある。こうしたジレンマを超え、個人化する社会における共同性のあり方を構想しなければならない。
政治学者の宇野重規は、個人化する社会に対応した共同性の必要を説くなかで、「国家は、個人間の社会性の生産者である」とし、国家が個人と個人、集団と集団との間に関係を築き、社会関係を生産する役割を担うことが重要だと述べている(宇野 2016)。個人が「孤立」して生きていることは社会にとって望ましい状態ではない。社会を存続し、個々人の人生を安定化するために、特定の人間関係や社会関係の間で相互依存・ケア関係を取り結ぶことそのものを社会が推進することが重要である。真の問題は、人々のつながりに国家が介入することにあるのではなく、つながる手段が「恋愛関係にある男女の結婚」という一つのオプションしかないということにある(阪井 2022も参照)。
社会的に承認される支えあいの共同生活が「結婚」の一択に限られる日本に対し、例えばフランスでは、結婚のほかにPACSや自由結合といった複数の選択肢が用意されている。デンマークの人口統計では家族の形を37種類に分類しており、配偶関係も異性同士の法律婚だけでなく、同性法律婚や登録パートナーシップなど5種類があるという(「わたしの選択(1)脱少子化へ家族再定義 多様さ、繁栄の源泉」『日本経済新聞』2022年11月22日)。
日本も「結婚、さもなければ孤立」といった現状の制度を改め、こうしたグラデーションのある制度設計を目指すべきであろう。個々人の生活上のニーズが多様化している現在、既存の婚姻制度の中だけに権利を束ねるのは限界を迎えている(ブレイク 2012=2019)。セクシュアル・マイノリティはもちろんのこと、例えば二人のシングルマザーが友人同士で共同生活をするという選択があってもよいだろう。今や、恋愛や性的関係に基づかない高齢者同士による共同居住や、高齢者や若者、シングルペアレントなどが住宅をシェアして生活の充実化・効率化を図るという実践例も珍しいものではない。個々人の多様な信条とニーズに対応した、パートナーシップの選択肢を社会が用意しなければならない。
参考文献
ブレイク,エリザベス,2012=2019,『最小の結婚——結婚をめぐる法と道徳』久保田裕之監訳,白澤社.
ギデンズ,アンソニー,1992=1995,『親密性の変容』松尾精文・松川昭子訳,而立書房.
Illouz, Eva, 2007, Cold Intimacy: The Making of Emotional Capitalism, Polity.
Illouz, Eva, 2012, Why Love Hurts: A Sociological Explanation, Polity.
岩澤美帆・三田房美,2005,「職縁結婚の盛衰と未婚化の進展」『日本労働研究雑誌』47 (1): 16-28.
川島武宜,1950,『結婚』岩波新書.
熊谷苑子,2005,「結婚の社会的承認──仲人に焦点をあてて」『コーホート比較による戦後日本の家族変動の研究:全国調査「戦後日本の家族の歩み」(NFRJ-S01)報告書No.2』.
阪井裕一郎,2021,『仲人の近代——見合い結婚の歴史社会学』青弓社.
阪井裕一郎,2022,「婚姻制度の廃止か、改革か?──パートナー関係への国家介入について」『結婚の自由──「最小結婚」から考える』白澤社.
宇野重規,2016,『政治哲学的考察——リベラルとソーシャルの間』岩波書店.
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「感情」すらも資本化されていく時代に、「働くこと」と「癒し」を問い直す──社会学者・山田陽子