“集団の熱狂”に加わると高揚するのに、一歩引くと煩わしくなるのはなぜか?<私たち性 we-ness>研究序説|柳澤田実
陰謀論や排外主義に象徴されるように、昨今、「集団への帰属意識が高いこと」の弊害がさまざまな形で表出しています。一方、マイノリティの立場に置かれる人々が「私たち」として連帯することで、社会変革が推し進められることがあるのもまた事実です。
「私たちであること」とは、一体いかなるものなのでしょうか?
「私たちであること」のポジティブ/ネガティブな影響は、どのような時に生じるのでしょうか?
人文・社会科学領域の研究者を支援するアカデミックインキュベーター「デサイロ(De-Silo)」で、「私たち性(we-ness)の不在とその希求」をテーマに研究を進めている哲学者の柳澤田実さんは、こうした問いに正面から取り組んでいます。
「私たち性 we-ness」の不在とその希求
政治の不在以前の「私たち性 we-ness」の喪失こそ、今日の日本人が置かれた状況ではないだろうか。日本社会における個人主義や自己責任論、オタク的な個人消費の普及は、新自由主義を政治家から吹聴されたからというよりむしろ、多くの日本人が「私たち」である感覚を持てず、「私」とそのささやかな延長しかわからないという状況から来ていると予想する。「私たち」という実感を持てない日本人は、国のために戦わないだろうが(ナショナリズムの不在)、同時に他人を助けること(道徳)にも無関心で未来の子供たちために投資すること(長期的展望)にも乏しい。「私たち」なき「私」は、多くの場合外部も超越性も持たないため、実は相当脆弱で、自分が愛着する対象によってかろうじて自己を立てることしかできない。他方で今日の様々なジャンルでのファンダム形成、ヒップホップの流行、キリスト教福音派の若年層への拡大には、どこかで超越性に基礎付けられた「私たち」への渇望が見え隠れするようにも感じる。こうした日本人の「私たち」感覚の喪失と掘り起こしを、イメージのアーカイヴとフッテージによって顕在化させ、他者と共同する中間領域がすっぽりと抜けた2020年代の日本人の「セカイ」を作品として記録し、希望的には「私たち」が生成する兆しを指し示すことを目指す。
本記事ではその序説として、<私たち性 we-ness>の持つ両義性について、先行研究も踏まえながら解説いただきます。集団で何かに熱狂することはこの上なく高揚することだが、盛り上がっている集団を第三者的に見ることは実に煩わしい──「私たちであること」のこの両義性は、いかにして捉えうるのでしょうか?
<著者プロフィール>
柳澤田実(やなぎさわ・たみ)
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。博士(学術)。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、何かを神聖視する心理に注目しながら研究している。
“ねじ伏せない”社会変革のため、「私たち」の感覚にリアリティを付与する──哲学者・柳澤田実
大規模なスポーツ・イベントが包摂する集団
毎年2月、アメリカ合衆国ではナショナル・アメリカン・フットボール・リーグ(NFL)の優勝を決めるスーパーボウルが開催され、全国民のおよそ3割がテレビで視聴する。フットボールに関心がない人であっても、友人や家族でチキンウィングを食べながらスーパーボウルを観戦する日曜は、さながら国民行事のようだ。その前半と後半の間に催されるハーフタイムショーは、時代を代表するアーティストたちによる13分間に凝縮されたライブショーで、そのスケールの大きさや華やかさからしばしば試合以上に注目される。2023年のハーフタイムショーでは、しばらく音楽から離れていたリアーナが、約7年ぶりにライヴを行い、テレビ視聴だけで約1億2000万人を記録した(*1)。彼女が完璧なオープニングショットで膨らんだお腹を見せて第二子の懐妊を示したこともあり、その日のSNSや翌日のトークショーはハーフタイムショーの話題で持ちきりだった。
リアーナは2018年に、制度的な人種差別に抗議して膝をつくパフォーマンスを行いNFLから追放されたコリン・キャパニックを支持するために、ハーフタイムショーへの出演を断っている。その意味でも、まさに満を辞して行われた今回のショーは、振り付けからセットリストまで彼女の強さとクールネスで貫かれ、ドナルド・トランプに「EPIC FAIL(大失敗)」(*2)という意地悪な投稿をさせるほどに圧倒的な内容だった。言い換えるならば、今年のスーパーボウルは、何かと分断ばかりが指摘される現在のアメリカにあっても、リアーナを観たい左派寄りの人々とトランプのような右派が共に経験を共有することができる場になっていたのである。
「集団」に対する両義的な思い
昨年2022年のサッカー・ワールドカップでは開催国カタールの人権問題が取り沙汰され、2021年のオリンピックでは主催するIOCやJOCの金権政治が顕在化するなど、最近、大規模なスポーツイベントを虚心に楽しむことができないことが増えている。こうした大規模なスポーツイベントに対する批判的な言説には、しばしば運営団体側への具体的な批判だけではなく、国同士で競うことによって顕在化するナショナリズムへの忌避や、そもそもスポーツに熱狂するという人々の集団行動への嫌悪までが数珠繋ぎになっていることがある。しかしながら、そもそもナショナリズムの全てが悪いものなのか、あるいは、集団で熱狂すること自体が悪いことなのかと問うならば、当然そうとは思えない。そもそもスポーツとは、プレイヤーやファンも含めた多くの人々が、様々な階級や立場の相違を超え、楽しさのなかで連帯できる機会の一つである(オリンピックの起源もそのようなものだった)。そこに俄かファンも含まれ盛り上がることができることは、W杯のようなスポーツイベントの意義だったはずだ。2002年の日韓W杯の時に渋谷のスクランブル交差点でサッカー・日本代表チームの勝利を祝う人たちがハイタッチを始め、2006年には六本木アマンド前で祝う人たちが作り出す空間が、画期的な都市空間の生成として称賛された(*3)。あれから20年近くの時が流れ、気づけば不特定多数の人たちが集団をなして盛り上がること自体が歓迎されなくなっているように感じる。
こうした大規模なスポーツイベントの是非を巡る問いについて考えを巡らせていると、「集団」というものに対する、私自身も共有する両義的な感情があることに気づく。思えば確かに集団で何かに熱狂することはこの上なく高揚することだが、他方で、盛り上がっている集団を第三者的に見ることは実に煩わしいことでもある。もし集団の体験が主観と客観でこれほどまでに異なるものになるのだとしたら、集団で一体化できる機会が減れば減るほど、ますます集団の熱狂に対して冷ややかな人が増えるだろう。他方で、集団への帰属を必要とする人たちは、反動的に教条的な集団を形成していくことにもなりそうだ。実際今の日本はまさにこのような状況にあるように見える。「自分の国のために戦いますか?」という問いに肯定的に答えた人が最も少ないという「世界価値観調査」(2021年)の結果(*4)からもわかるように、日本人全体の国という集団への帰属意識は薄れている。他方で、ファンダムやカルトやネトウヨなどの強い帰属意識を持つ小集団が興隆しているのが現在の日本社会だと言えるのではないだろうか。
共通の価値や目的が集団を作り、健やかに維持する
健やかな「集団」のモデルが想像しづらい時代状況にあって、改めて集団の基盤とも言える「私たちであること」について問い直す作業を行ってみたい。これが私のDe-Siloでの研究プロジェクトである。言うまでもなく、社会学では社会集団についての議論が積み重ねられ、社会心理学では、人の認知、発達、行動、道徳性において集団が果たす機能について研究が蓄積されてきた。また哲学では集団それ自体を問う研究はあまり多くはないが、最近では行為主体(エージェント)としての集団に関する議論が「心の哲学」の分野で行われている(*5)。特に人種やジェンダーに基づくアイデンティティ政治が盛んになっている北米では、様々な分野の研究者が「集団」の問題に取り組んでおり、この流れは当分継続すると思われる。しかし、いずれの領域においても、そもそも集団になるとはどういうことか、集中的に議論した研究は少ない。「私たちであること(we-ness)」はまさに今後精緻化され、議論されるべき主題だと言えるだろう。以下では、私が自身の研究のために参照している代表的な先行研究を二つ紹介したい。
最初に紹介するのは昨年Power of Us:Harnessing Our Shared Identities for Personal and Collective Success(2021)(*6)を上梓した心理学者ジェイ・ヴァン・バヴェル(ニューヨーク大学)の研究である。社会心理学的な実験・調査と神経科学を組み合わせ彼の研究は、著書のタイトルが示す通り、集団が持つ力を最大限に活かす可能性を探るものだ。ヴァン・バヴェルの議論の中で特に感銘を受けるのは、個々の集団が強いアイデンティティを持ちつつ、不毛な党派性に陥ることなく、生産的な競争を行うためには、「正確さ(accuracy)」「公正さ(fairness)」などの共通の価値とルールが不可欠だと考えている点である(*7)。具体的な例として彼は、チームスポーツや科学論文のピアレビューを例に挙げている。例えばもしJリーグの個々の試合が不正だらけであったら、Jリーグごと潰れてしまうように、科学論文も正確さを追究しなくなれば、科学という研究領域、ひいてはアカデミア自体が自滅してしまう。だからこそ一つ一つの試合や審査は、単なる個々の競争ではなく、実はより大きな何かを成立させるため寄与しているのだと言える。このヴァン・バヴェルの議論は、逆説的に日本人の競争力の低下、生産力の低下と、国家としてのアイデンティティの弱まりが循環していることに気づかせてくれる。
「私たち」という表象が立ち上がる:集団的主体性
このヴァン・バヴェルの議論を更に解像度を高く理解することを可能にし、また集団に対する両義的な感情に一つの解釈を与えてくれるのが、ガリー・シュタインバーグ(テネシー大学)らによる論文“Agency and Identity in the Collective Self”(2021)(*8)である。社会心理学では、帰属集団を問題にする場合に、上述のヴァン・バヴェルが展開しているような社会的アイデンティティ理論が主流である。シュタインバーグは、客観的に認識された社会的カテゴリーに基づく<集団的アイデンティティ>とは別に、主観的に体験される集団を捉える心理学的概念が必要だと考え、<集団的主体性(collective agency)>という概念を提唱している。この区別が重要なのは、社会的アイデンティティに基づく集団は必ず外集団よりも内集団を贔屓するという、内集団贔屓の法則があるからだ。シュタインバーグは、人が誰かと目的や意図を共有して集団になるという体験のみ、つまり他集団との相対化なしに内集団への愛着のみを主観的に感じている状態を指す概念として、集団的アイデンティティ以外の概念が必要だと考えている。事実、社会的なアイデンティティが確立された後でさえ外集団への嫌悪よりも内集団を愛着のほうが強いことが明らかになっているように、「集団であること」はそれ自体では外集団への敵意を必然的に引き起こすものではない可能性が高い。
先に示した「集団で何かに熱狂することはこの上なく高揚することだが、他方で、盛り上がっている集団を第三者的に見ることは実に煩わしい」という観察もまた、この二つの概念で説明することができる。「集団で何かに熱狂して高揚している」状態とは、人が誰かと目的や意図を共有して集団になる状態であり、いわば「私たち」という表象が立ち上がる<集団的主体性>の体験である。例えば、W杯での日本チームの勝利に興奮し、渋谷のスクランブル交差点で見知らぬ人たちとハイタッチをしている情景を思い浮かべていただきたい。2002年の私はまさにそれをやっていたわけだが、その時に感じた見知らぬ人たちとの一体感と高揚感は今でも鮮明に思い起こされる。こういう自然発生的な祝祭に興じるために、外部集団は必ずしも必要ではなく、意識されることも少ない(*9)。
他方で「盛り上がっている集団を第三者的に見て煩わしく思う状態」とは、<集団的アイデンティティ>の体験だと言えるだろう。こちらの例としては、スクランブル交差点で熱狂する人々をテレビで観ている状態を思い浮かべていただくと良い。あなたは、スクランブル交差点で盛り上がる人々を「民度の低いモブ」としてカテゴライズし、対する自分を「理性的な市民」とカテゴライズするかもしれない。あるいはあなたが女性で、ハイタッチしている群衆を「男性」ばかりだとみなすなら、「彼ら」は「野蛮なホモソ集団」、「私たち」は「まともな女性」とカテゴライズすることになるかもしれない。言うまでもなくこうしたカテゴライゼーションには、必ず身内(内集団)を贔屓し、身内ではない方(外集団)を悪く見るバイアス(偏り)が伴われる。客体化されたカテゴリーに基づくアイデンティティには、明確な敵対ではないとしても、外集団に対する緊張関係が付随するのだ。
とはいえ無邪気に熱狂しているわけにもいかない
シュタインバーグは、ヴァン・バヴェルらの神経科学研究、またハーヴェイ・ホワイトハウス(オックスフォード大学)の宗教儀礼研究を用いながら、社会的カテゴリーに基づく<集団的アイデンティティ>の経験が意味上の分類に関わるのに対し、<集団的主体性>の経験は自伝的エピソード記憶や他者の心を推測する心の働きに関わり、両者においては活動する脳の部位が違うと論じている(*10)。要するに、前者は知識として処理されるが、後者は自分自身を形作る物語や他者への共感に深く関与しているということだ。
しかし、このように排外主義を伴わない集団の主体性に注目するシュタインバーグも、集団のこうした美点を謳歌できるのは社会的なマジョリティーであることを指摘している。社会的なマイノリティは常にマジョリティの視線を意識するために社会的アイデンティティを意識せざるを得ない状況にある。それに対して、マジョリティは社会的なアイデンティティ、カテゴライゼーションを意識せずに、自分たちが集団として同じ目標を持ち、協力し、生産することを能天気に享受できるのだ。シュタインバーグは、具体例として、自分たちの特権に無自覚になりがちな白人を挙げている。
以上のことからも、私たちが集団になる時、常にマジョリティとマイノリティの力関係を考慮する必要があるのは間違いがない。と同時に、上記のヴァン・バヴェルやシュタインバーグの研究から導き出されるのは、<集団的主体性>の経験を軽視すべきではないということだろう。集団で盛り上がっている人たちに無闇に冷や水を浴びせるのではなく、他者の<集団的主体性>の経験を尊重することもおそらくヒューマニズムの観点から見て、大切なことなのだ。酔っ払って騒いでるサッカーファンも(念のために明記するが、サッカーが好きな私も第三者的に眺めている時には煩わしく思うことがある)、人間の本性に即した喜びを謳歌しているのであり、このように集団を熱狂させるものには多くの人々を包摂する可能性があることもまた事実なのである。文化進化論で広く共有されているように、集団での協力こそが、人間の種としての繁栄を可能にした(*11)。ヒトである私たちの本性に即しているがゆえに、集団として目標を持ち、協力して何かを遂行し、成功するという体験は、強烈な喜びを与えるのだとヴァン・バヴェルは主張する。
シュタインバーグは<集団的主体性>という概念を提唱したが、日本社会で強い影響力を持つ血縁集団の問題も含め(*12)、「私たちであること」についてより深く知るためには<集団的アイデンティティ>以外の枠組みや概念が必要である。私の研究でも、集団であることの内実をより詳細に記述するために、脳科学も含め何らかの実証科学的データに基づく解析を行いたいと考えている。
(*1)https://en.as.com/entertainment/rihanna-breaks-record-with-most-watched-super-bowl-halftime-show-n/(2023年2月20日閲覧)
(*2)https://www.forbes.com/sites/petersuciu/2023/02/14/rihannas-super-bowl-halftime-show-is-blowing-up-youtube--did-she-prove-donald-trump-wrong/?sh=6add91c9be93 (2023年2月20日閲覧)
(*3)アトリエ・ワン著『コモナリティーズ:ふるまいの生産』LIXIL出版、2014年。
塚本由晴+篠原雅武「対談:空間と個と全体:コモナリティの方へ」https://www.10plus1.jp/monthly/2013/10/post-85.php (2023年2月20日閲覧)
(*4)本川裕「「国のために戦いますか?」日本人の「はい」率は世界最低13%…50歳以上の国防意識ガタ落ちの意外な理由」https://president.jp/articles/-/58391?page=1
(2023年2月20日閲覧)
当該の数値については、歴史的背景を含め、複数の要因が影響していると考えられるが、本稿では集団への帰属意識は集団のための自己犠牲と相関するというヴァン・バヴェルの議論に即し、国のために戦う意志の低さを国への帰属意識の低さと解釈する。
(*5)Devorah Perron Tollefsen, Groups as Agents, Polity Press, 2015. 政治哲学にも社会集団に関する分析はあるが、こちらの検討は今後の課題としたい。
(*6)Jay J. Van Bavel, Dominique J. Packer, The Power of Us: Harnessing Our Shared Identities to Improve Performance, Increase Cooperation, and Promote Social Harmony, Little, Brown Spark, 2021. 邦訳が近日公刊される。
(*7) Ibid., Chapter 3.
(*8)Garriy Shteynberg et al, “Agency and Identity in the Collective Self,” Personality and Social Psychology Review, Volume 26, Issue1, 2021,
(*9)サッカーなど対戦相手がいる場合であっても、祝祭においては敗者を貶めることが中心になることは少なく、また少なくとも近年は望ましくないとされている。昨年のサッカー・W杯の優勝国アルゼンチンのキーパー、エミリアーノ・マルティネスが優勝パレードで準優勝国フランスのキリアン・エムバッペを馬鹿にする行為をしたことは、サッカー業界内でも強く非難された。
(*10)Shteynberg et al,2021.
シュタインバーグの整理によれば、一般に意味の知識は主に前側頭葉で表象されるが、社会的なカテゴライゼーション(分類)においては、眼窩前頭皮質(OFC)や楔状回、内側前頭前皮質などの評価処理と社会情報に関連する領域も活動する。OFCの活動は、個人の内集団バイアスの強さとも関連している。これに対し、自伝的エピソード記憶には、海馬と内側側頭葉を中心とした脳領域のネットワークが関与している。また、側頭頭頂接合部や背内側前頭前皮質などの自伝的記憶の際に活性化する同じ脳系は、個人が他人の視点や経験をシミュレートする際にも働く。このように、意味的な分類とエピソード経験を支える脳システムは、日常生活で相互作用もするが、機能的には互いに異なるとされている。
(*11)
サミュエル・ボウルズ、ハーバート・ギンタス『協力する種』竹澤正哲ほか訳、NTT出版、2017年。
(*12)
Joseph Henrich, The Weirdest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous, 2020, Farrar Straus & Giroux.
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