「自分らしく」「ありのままの私で」といった謳い文句とともに、美容脱毛や美容整形が普及しつつある昨今。こうした状況に対する洞察を深めるべく、人文・社会科学領域の研究者を支援するアカデミックインキュベーター「デサイロ(De-Silo)」で「21世紀の理想の身体」をテーマに研究を進めている人類学者の磯野真穂さんは、人類学の知見をベースにした身体の未来を想像した小説の執筆や、それをもとにした有識者との対談などを行ってきました。
・磯野さんが「21世紀の理想の身体」を想像した小説『HRR』
・脱毛しないのは「他者危害的」?「理想の身体」をめぐる「ノーマル」と「アブノーマル」の境界を考える──人類学者・磯野真穂×生命倫理学者・小林亜津子(前編)
そしてこのたび、磯野さん自身が執筆する小説の第二弾が完成しました。脱毛が人権として確立される未来を想像した第一弾の小説『HRR』に続く内容として、「脱排泄」が当たり前となる世の中の実現へ向け人類が邁進する様子やその結果生まれるさまざまな可能性や葛藤などについて、前作と同じくその未来を想像しながら描かれています。
※小説『もう出すことはやめた』は、下記リンクから無料で読むことができます(無断転載・引用禁止)
▶▶磯野さんが「21世紀の理想の身体」を想像した小説『もう出すことはやめた』はこちら
文化人類学を中心とした身体についての先行研究をベースに執筆した『もう出すことはやめた』が内包する論点について、より多角的な視点から深掘りを行うため、磯野さんは、現象学・リハビリテーションの科学哲学の見地から研究を行ってきた哲学者・稲垣諭さんとの対談を実施。「自然」や「ありのまま」をキーワードに人間の倒錯性について考えながら、脱毛の先に来る「脱排泄」のトレンドに思いを馳せた前編に引き続き、後編では「言葉の暴力性」や「接触」が忌避されていく未来についての議論をお届けします。
脱毛、脱排泄の行き着く先は「脱言葉」?
磯野 前編では、人類は「コントロールできないもの」をどんどん遠ざけていくという話をしました。『もう出すことはやめた』では発想をわりと飛躍させているんですが、最後にたどり着くところは間違いなく言葉の暴力性だろうと思うんです。小説の中では、イチャイチャしている恋人たちに向かってその友人が「死んで」と言うのはかつては親しみを込めた冗談で済んだけれど、2100年代には重大事件として扱われていると書きました。コントロールできない形で排出されるものが危害的になるという流れがより加速していった場合、それもありえるのではないかと。
先日聞いて驚いた話なのですが、「肉屋」などの「〇〇屋」という言葉は職業差別的・自嘲的なニュアンスを持つことがあるので、放送コードや一部の出版物においては「〇〇店」と言い換えるのが一般的になりつつあるんだそうです。そんなふうに、相手を傷つけてしまうかもしれない言葉や状況に対して非常に敏感になっているのがいまの社会だと思います。言葉の暴力性をどうやって取り払うかを突き詰めていくと、アルゴリズムで統計的に安全な言葉を選び出すという形になりそうだなと思うんです。
稲垣 科学技術にサポートしてもらって会話の選択肢を狭めることで、言葉もコントロール可能になってくるということですよね。
稲垣 諭(いながき・さとし)
現象学者、哲学者。北海道生。東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。 文学博士。自治医科大学総合教育部門(哲学)教授を経て現在、東洋大学 文学部哲学科教授。専門は現象学・環境哲学・リハビリテーションの科学哲学等。 著書に『大丈夫、死ぬには及ばない──今、大学生に何が起きているのか』 (学芸みらい社)、『壊れながら立ち上がり続ける――個の変容の哲学』 (青土社)、新著『くぐり抜けの哲学』(講談社)が2024年2月に刊行
磯野 そうですね。ChatGPTが提示してくる答えっておもしろいじゃないですか。同じように、小説で書いた、会話の不確実性を消去するアルゴリズム「ユニバ」も、利用してみたらわりと楽しいのではないかと想像していて。「こんな選択肢あったんだ、おもしろい」みたいな感じで、人間は明るく言葉を忘れていくんじゃないか。その発想から「ユニバを使わない方お断り」というポスターを掲げる店が出てくると想像しました。
稲垣 プレイとゲームという観点から見ても、言語が文法に縛られすぎると「正しい話し方」に合わせて喋らなければいけないという圧力が出てくる。
身体的に「できる」ことがはらむ暴力性
稲垣 一方で、現代においてもとりわけ高校生などは、新しい言葉をどんどんつくっていますよね。言語における「プレイ」要素、つまり言語をコントールするのではなく、言語と戯れるような感覚が文法を壊していくということはありそうだなと思います。
磯野 たしかに。小説の中でユニバが使われるようになったとき、それに真っ向から反対するわけでもなく、ユニバとは逆方向のプレイ的な流れを新たに生み出したのはティーンエイジャーたちだった、という展開もおもしろいかもしれないですね。
稲垣 差別的な構造を生まないように言葉を変えていこうという潮流自体はよいことだと僕は思っていて、言葉が言い換えられて新しくなっていくことには未来も感じています。社会の流れは今後いっそう、誰かを傷つけてしまう可能性のある表現を避ける方向に向かっていくとは思いますが、その先で本当に何も言えなくなってしまうようなことはないんじゃないでしょうか。でも、それは言葉狩りだという人たちもいますよね。
磯野 真穂(いその・まほ)
人類学者。長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、アスレチックトレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するも、自然科学の人間へのアプローチに違和感を感じ、同大学にて文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)を取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。研究、執筆活動を続けつつ、身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップや読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開く。 人類学の暮らしへの応用可能性を模索しており、企業の新製品立ち上げにおけるブレインストーミングなどにも関わる。共同通信「論考2022」、朝日新聞書評委員/同紙コメントプラス、コメンテーター。チョコレートと甘酒と面白いことが好き。
──先日、特定の状況で発声をともなう会話がしづらくなる「場面緘黙症」の当事者である小学生が、状況に応じて生成AIが会話の選択肢を示してくれることでスムーズに会話ができるアプリ「Be Free」をリリースして話題になっていました。まさにユニバを彷彿とさせるアプリですが、そういったテクノロジーが耳の聞こえない人や社交不安を抱える人などにとっても便利に機能することは大いに考えられそうだと、お話を伺っていて思いました。
稲垣 それはありえますよね。いまって、対面で話すことが苦手な人にとっては不利な社会じゃないですか。対面でスムーズに喋れる人は優遇されるけれど、その場ではなく、後から自分の考えを文章にまとめたり、時間をかけて言葉を選ぶことができる人はそうではない。
僕自身、人から怒られたときとかに、よくそう思っていたんです。その場では何も言葉を返せないのだけど、家に帰ってから「あれを言えばよかった」と思い浮かんで後悔します。だから公平さからいえば、「あなたの言い分は分かりました。私は1週間後に返答しますので」という別の機会が許されてもいいですよね。そういうことが苦手な人たちを支えるテクノロジーは当然あっていいと思う。
磯野 私は小説を書きながら、人間の身体性を排除してテクノロジーに身を任せていく方向のほうが、結局多くの人にとってやさしいのではないかと考えていました。たとえば場面緘黙症の方だけではなくいろいろな人がそのアプリを使うようになったり、より技術が発展していくと、身体的に何か「できる」こと自体が暴力的であるという空気になっていってもおかしくないんじゃないかなと。
『もう出すことはやめた』の中でも、排泄をしなくなった人たちに対し、オストメイト(編注:人工肛門・人工膀胱の保有者)の人たちがアドバイスをするという展開も少し考えたんです。未来においては、かつて身体障害と呼ばれていた人たちの身体のほうがデフォルトになっていくことも考えられるのかもしれないと思います。
視覚優位のこの社会そのものがルッキズム
稲垣 言葉もそうですが、コロナ禍を経て、やはり人に触れることのリスクがいっそう強くみなされるようになっていますよね。磯野さんの小説の中にも、性行為が野蛮なものになるという描写がありましたが。
僕はその方向性でいくと、接触が危害になる社会というのはありえそうだと思っているんです。この裏側にあるのは視覚の優位性です。いま、サブカルチャーなどが好きな学生と話していると、アニメや漫画の世界に入りたい、キャラクターたちと交流したいとは思わないと言うんです。むしろ「目」になりたいという。その世界を構成する空気の分子のような純粋な目になって、その世界を見ていたいという欲望があるそうです。触れてしまうと関係性が変わってしまうし、その世界を壊してしまうので申し訳ないと言うんです。そういった考え方が主流になっていくと、いずれ「触れてはいけない社会」がくるのではないかと想像しています。
磯野 100%視覚だけになりたいという欲望は、やっぱり人間が二足歩行をするようになったことと関係しているんですかね。
稲垣 僕の専門のフッサールの現象学でいうと、人間性は幾何学を発見したこととともに出現したと考えられているんです。たとえば約200万年前、ヒト属が石器を削っていくなかで、「ここを削るともっと綺麗な平面になる」と気づく。するとその先に、理想的な直線や完全な平面、角や円といった概念が生まれてきますよね。それが見えてくると、次はそれに合わせて自分の行為を縛るようになります。皮膚を理想的な平面にするためにはこの粉をムラなく塗らなければいけない、というように。幾何学に動物が縛られていった結果、徐々に人間になっていくという議論なんです。
磯野 なるほど。でもその人間は幾何学や理想を追い求め続けるわけだから、結果的に自分を否定し続けることになってしまいますよね。
稲垣 まさにそうです。だから僕たちはずっと苦しい。幾何学ってつまりは視覚的なものだと思うのですが、たとえば、いまの政治家の大多数が先天的に視覚に障害を持つ人たちだとしたら、おそらくスカイツリーなんてつくろうと思わないですよね。
磯野 そうですね、絶対つくらないですよね。
稲垣 そうなると都市デザインがまったく異なるものになるはずだけれど、そういった可能性を僕たちが基本的に考えていないのはやはり視覚優位で生きているからで、突き詰めればこれは壮大な歴史的ルッキズムなんだと思うんですよね。
だから、磯野さんの小説を読んでいて、もしかして視覚を失っていく選択をする者たちが出てくる、という展開はありなのかもしれないと少し想像しました。InstagramもそのほかのSNSも、基本的にはすべて視覚優位ですよね。目が理想像をつくり出して僕たちを縛っているのだとしたら、苦しみの源泉は目なのだろうと気づいてしまう。だから一方では視覚をなくしていく方向に、もう一方では接触をなくしていく方向に将来的にはなるのかもしれないと思います。
あらゆる「接触」が消える未来は「明るい」か?
磯野 それはありえるかもしれないですね。接触に関して言えば、ムダ毛や排泄物がなくなれば、おそらくケアを通じて相手に触れる機会がなくなっていくと思うんです。そうなると人に触れること自体がますます恐ろしくなっていって、接触に対する忌避感がどんどん募っていくのだろうなと。私が小説の最後で「会話を外部化する」という展開を選んだのは、いずれは言葉すらある種の「接触」になって、心に直接触れることへの恐怖感が、言葉を新たに生み出すおもしろさに勝る可能性があると思ったからなんです。
稲垣 触れるという行為が身体的な接触以外のところまで広がっている風潮は、もうすでにありますよね。僕は、接触において暴力をできる限り避けたいという人間の思いは信じたいし、人間の変態的なおもしろさでもあると思っています。「動物に対する加害だから肉食をやめよう」なんてことを考える動物は人間以外にいないんですよ。
でもそのまま進んでしまえば当然、人間は絶滅しますよね。暴力の可能性を排除していけば、いずれ出産は暴力的だという議論も出てきて、じゃあみんなで絶滅していきましょうという合意が生まれる余地も少しはあるのではないかと思います。
磯野 バイオバッグ(編注:ビニールバックのような形態の人工子宮)というものがすでに生まれつつあるわけで、出産は女性に対する人権侵害だという議論も起きていますよね。1969年にフランスの人類学者のルロワ・グーランが、人間は身体の機能を外部化していくと述べているのですが、出産も外部化され、排泄も外部化され、言葉も外部化されていけば、いずれ人間が「生まれない」という選択をするところまでいってもおかしくないと私は思うんです。
稲垣 うん、そこまでいってもおかしくないと僕も思います。
磯野 稲垣さんは人類の未来に希望を持とうとされている一方で、そこまでいってもおかしくない、とはやっぱり思うんですね。
稲垣 最後に残った人類みんなで「さあ消えよう!」と明るく消えられる、そういうメンタリティさえ持てるのが人間じゃないかと考えてしまうんです。
磯野 たしかに。私は明るく消える最後は小説の中では選びませんでしたが、そういうところも含めて小説から未来を発想してもらえると嬉しいですね。
[了]
Interview and text by Shiho Namayuba, Photographs by Shunsuke Imai, Edit by Masaki Koike
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