「自分らしく」「ありのままの私で」……そんな謳い文句とともに、日本でも美容脱毛や美容整形が普及してきています。
こうした状況に対する洞察を深めるべく、人文・社会科学領域の研究者を支援するアカデミックインキュベーター「デサイロ(De-Silo)」で「21世紀の理想の身体」をテーマに研究を進めている人類学者の磯野真穂さんは、人類学の知見をベースにした身体の未来を想像した小説の執筆や、それをもとにした有識者との対談などを行ってきました。
・磯野さんが「21世紀の理想の身体」を想像した小説『HRR』
・脱毛しないのは「他者危害的」?「理想の身体」をめぐる「ノーマル」と「アブノーマル」の境界を考える──人類学者・磯野真穂×生命倫理学者・小林亜津子(前編)
そしてこのたび、磯野さん自身が執筆する小説の第二弾が完成しました。脱毛が人権として確立される未来を想像した第一弾の小説『HRR』に続く内容として、「脱排泄」が当たり前となる世の中の実現へ向けて人類が邁進する様子や、その結果生まれるさまざまな可能性や葛藤などについて、前作と同じくその未来を想像しながら描かれています。
※小説『もう出すことはやめた』は、下記リンクから無料で読むことができます(無断転載・引用禁止)
▶▶磯野さんが「21世紀の理想の身体」を想像した小説『もう出すことはやめた』はこちら
文化人類学を中心とした身体についての先行研究をベースに執筆した『もう出すことはやめた』が内包する論点について、より多角的な視点から深掘りを行うため、磯野さんは、現象学・リハビリテーションの科学哲学の見地から研究を行ってきた哲学者・稲垣諭さんとの対談を実施。前編では「自然」や「ありのまま」をキーワードに人間の倒錯性について考えながら、脱毛の先に来る「脱排泄」のトレンドに思いを馳せた議論をお届けします。
「自然」や「ありのまま」が大好きな私たち
──まずは今回、磯野さんが対談相手として稲垣さんにお声がけされた背景から伺えますか。
磯野 稲垣さんとは、私が『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』(春秋社, 2015)を書いたときからのご縁でして、稲垣さんの著書『大丈夫、死ぬには及ばない 今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社, 2015)の書評も私が書かせていただいたりと、もともと交流はあったんですよね。稲垣さんの研究テーマの中心は現象学・リハビリテーションの科学哲学で、私とはまったく違うところから身体にアプローチしていながらも、通ずる点も多々あるなと以前から感じていました。まずは今回、小説『もう出すことはやめた』を読んでいただいた感想からお聞きできますか?
稲垣 まず一読して、ディストピア的な世界観で描かれているな、と感じました。僕もそういう小説は好きで、最後に「脱出生」の方向に向かうのもよくわかります。ただ、一見絶望的な結末かもしれないけれど、ポジティブな脱出生というか、「明るく消えてしまおう」と人類が思えれば、それはひとつの希望になるんじゃないかとも思いました。
稲垣 諭(いながき・さとし)
現象学者、哲学者。北海道生。東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。 文学博士。自治医科大学総合教育部門(哲学)教授を経て現在、東洋大学 文学部哲学科教授。専門は現象学・環境哲学・リハビリテーションの科学哲学等。 著書に『大丈夫、死ぬには及ばない──今、大学生に何が起きているのか』 (学芸みらい社)、『壊れながら立ち上がり続ける――個の変容の哲学』 (青土社)、新著『くぐり抜けの哲学』(講談社)が2024年2月に刊行
磯野 まさにその点も、今回稲垣さんに対談をご依頼した理由のひとつです。私は絶望的な人間で、思考がすぐに絶望的な方向に行くんですね(笑)。けれど稲垣さんの著書『絶滅へようこそ――「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社, 2022)は、そんな自分からするとわりと明るい内容に感じられて。バランスから言っても、改めて稲垣さんとお話しできたらおもしろいんじゃないかと思ったんです。
稲垣 『絶滅へようこそ』は、そもそもタイトルがおかしいですよね。「ようこそ」ではないじゃないですか(笑)。でも、仮に絶滅へようこそと言えるような世界があるとしたら、それはどんな世界なんだろうというところから考えを広げていった。そもそも僕は人間を自然界の中の変態なんだと──つまり極めて倒錯している、反自然的存在として捉えているんです。絶滅してもいいよね、とすら「変態」な人間であれば思考できるんじゃないか、それをポジティブに語ることができないかと。
そして、人間は倒錯している、すなわち不自然な存在として生きているからこそ、「自然」や「ありのまま」が大好きなのではないでしょうか。たとえば、ライオンのような動物は自然には憧れないと思います。自然に憧れる欲望そのものが、自分たちが不自然であることをむしろ際立たせている。だから、「自然がいい」とか「ありのままがいい」というときに、その欲望自体があたかも自然なものにすり替えられている気持ち悪さについて、きちんと考えていけたらいいと思うんです。
自分らしさ=自分がなりたいと思う姿
稲垣 磯野さんは、「自然」や「ありのまま」というものをどういうふうに捉えていますか?
磯野 「ありのまま」という言葉は、額面上はその人が本質的に持っているものを開花させるというような意味合いで用いられていますよね。ただ、実際にはいまここに「ありのまま」も「自然」もなくて、自分の身体をどんどん変えていった先に現れるのが「ありのまま」や「自然」、「自分らしい身体」なのだろうなと考えながら、小説を書きました。
稲垣 つまり、実際にはありのままではない、ということですよね。身体変工を重ねた先にある姿をありのままだと誤解するのだと。
磯野 そうですね。自分がなりたいと思う姿こそ「自分らしさ」で、それを達成するからこそ自分らしくなれる。たとえば脱毛したツルツルな肌を自分らしいと感じるのは、自分が思い描いていた姿だからですよね。
稲垣 なるほど。だから「自分らしさはつくれる」という言葉もよく耳にするんでしょうね。でも、この言葉って一見、奇妙ですよね。
磯野 奇妙だけれど、すでにそういう流れになりつつあるのだと思います。1作目の小説『HRR』の中でも引用しましたが、主に糖尿病の薬の広がりについてフィールドワークをおこなっているアメリカの人類学者のJoseph Dumitは、デフォルトは身体ではなくライフスタイルなのだと述べていました。つまり、自分が理想だと思うライフスタイルに合わせて変えていった身体を変えればいいと。好きなものを好きなように食べて暮らしたいのであれば、薬を飲んで身体の方を変えればいい。Dumitは「自分らしい」という言葉を使っているわけではないですが、自分を変えた先に「自分らしさ」が現れるという例のひとつかと思います。
磯野 真穂(いその・まほ)
人類学者。長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、アスレチックトレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するも、自然科学の人間へのアプローチに違和感を感じ、同大学にて文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)を取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。研究、執筆活動を続けつつ、身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップや読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開く。 人類学の暮らしへの応用可能性を模索しており、企業の新製品立ち上げにおけるブレインストーミングなどにも関わる。共同通信「論考2022」、朝日新聞書評委員/同紙コメントプラス、コメンテーター。チョコレートと甘酒と面白いことが好き
稲垣 それは「自然」からはやはり乖離していますよね。僕は『絶滅へようこそ』の中で、哲学者のカントの言葉をパラフレーズして「風景なきiPhoneは空虚で、iPhoneなき風景は盲目である」と書きました。僕たち人間はすばらしい風景を見たら感動を覚えるけれど、その場にスマートフォンがなくて撮影ができないとなんだか虚しくなる。自然に憧れる一方で技術にも憧れるというのは、やはり人間の倒錯的あり方だなと思います。
けれど、そのハイブリッドの中でこそ「ありのまま」や理想の「自分らしさ」がつくられていく、という側面はありそうです。本の中ではこれを「セラピー的自然」と呼んでいたのですが、僕たちは「癒しになる限りでの自然」を求めているわけです。「自分らしさ」に関しても、清潔でツルツルなライフスタイルを自分で選択できること自体が癒やしになっているのかもしれないですよね。
磯野 ああ、たしかに。私は長野県の安曇野市といういわゆる自然豊かな場所の出身なんですが、都会から来た観光客の方が喜んで写真を撮る場所って、映画のセット用につくられた水車小屋だったりするんです。こんなに人工的なものはないと思う一方で、人工的な自然のほうが人間にとってはやさしいんですよね。私からすると、子どもの頃から家の中に虫は入って来放題だったし、自然はかなり暴力的なものだという認識があるからこそ、飼い慣らしたい、なんとかしたいと思ってしまう。
稲垣 うん、自然とは本来、暴力的ですよね。
磯野 その感覚と脱毛は、おそらくリンクしていると私は思っているんです。自分のコントロール外のところに生えてくる毛が気持ち悪いし暴力的で汚いから取り除きたい、というムードに社会全体が変化しつつあることを考えると、きっとこれはいずれ人権になるだろうと思ったんですよね。
「コントロールできないもの」に出会うストレス
稲垣 脱毛は理想から規範になると磯野さんは書かれていましたが、社会規範になったあとに、法規範にまでなるかどうかはわからないところがありますよね。
ただ、そもそも人間って脱毛せずとも、動物としてはかなりツルツルの部類じゃないですか。頭部と脇、腹部くらいにしか毛がない。諸説ありますが、人類の歴史を調べていくと、19万年前くらいにはすでにツルツルだった可能性が高いです。シラミの寄生や感染症のリスクを防ぐために脱毛化が進んできたという仮説があるんですが、それって社会構築的というよりかなり自然な進化ですよね。だから、全身の毛をなくしていこうという流れがその先にあるのは自然なこととも思えるし、人権化もあながち否定できないかもしれないとは思います。
磯野 これは前回の小林亜津子さんとの対談でも話したのですが、そうなると髪の毛もいらないのでは? と思うんです。でも、髪の毛に関してはみんなとにかく綺麗にしたいんですよね、死ぬまでフサフサでいたい。シラミのリスクだってあるのに。これはどうしてなんでしょう?
稲垣 たしかに、どうして頭にだけ毛が残ったのか……。四つん這いの状態から立ち上がって二足歩行をするようになったこととも関係がありそうです。髪の毛に限らず、人間は動物の中で唯一と言っていいほど白目が目立つじゃないですか。動物は通常、危険を避けるために目線が他者に読まれないよう、白目がほとんど見えないんです。その中で人間は、生存には不利になりそうなのにあえて目線を使ってコミュニケーションをとるように進化してきた。立ち上がって高所にある頭や髪の毛、顔が重要視されるような文化的・進化的な流れがあったのではないかという気はしますよね。
磯野 なるほど。頭部には、ある種のコミュニケーション手段として重要な意味があると。もう少し、時間軸を何万年前というところからここ数十年まで短くして考えると、顔への手入れの仕方はより詳細になってきていて、人間はもはや動物からどんどん離れていますよね。動物どころか、人間からも離れている。そうなるとやはり、IT社会的な理想の身体というのはもはやアバターやアニメの主人公なんじゃないかと思うんですが、いかがですか?
稲垣 その通りだと思います。いま僕は「プレイとゲームの哲学」ということを考えているんです。これは人類学者のデヴィッド・グレーバーが『官僚制のユートピア:テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社, 2017)という本の中で触れていることなんですが、「プレイ」も「ゲーム」も意味としては遊ぶことですよね。異なるのは、ゲームには規則や勝敗、盤面があるけれど、プレイにはそれがないこと。プレイとは髪の毛をくるくるしたり雑草を抜いたり、戯れたりすることなんです。そこには規則も勝敗も盤面もない。
グレーバーは、現在の人間はプレイを恐れているからゲームに向かっていくのだと言っています。つまりコントロール可能なほうに行きたいんですよね。体毛に関しても、理想的なのは、ゲーム上のアバターのスキンのように、コントロール可能になってカスタマイズできる状態になれば、今日はスキンヘッド、今日はフサフサといった感じで自ら選択できるようになります。その場合、毛がない状態だけが規範ではない世界にもなりうるんじゃないかとは思いました。
でも、現代は本当にコントロール幻想が強いですよね。以前にも磯野さんには話したことがあるんですが、僕、予約をしてレストランに行ったりするのが苦手で。
磯野 あ、おっしゃっていましたよね。予約が嫌いなんでしたっけ?
稲垣 予約をしたりレビューを見たりせずにレストランに行くと、ときどきものすごくまずい店とか、とんでもなく接客が悪い店に当たったりするじゃないですか。僕はわりとそういう体験が楽しいと思うタイプなんですね(笑)。出会いのリスクをとりたいというか。
でも、学生の中には「食べログの評価が3.6以上のお店しか行かない」という人もいて、お店に行った感想を聞くと「ふつうにおいしかったです」と言うんです。そりゃそうだろうなって思ってしまうけれど、いまの若い人たちはそこまで驚く必要がないんだと思います。コントロール可能な、予想されたおいしさが出てくればそれでいいという、プレイからゲーム化への流れの中にいるんだろうなと。体毛もそうですが、コントロールできないものに出会うこと(=プレイ)自体がストレスだと感じる傾向は今後も止まらないような気がするんです。
人類はますます動物から離れ、「TOTO化」していく
磯野 その流れを小説の中でより加速させてみたのが、2作目の『もう出すことはやめた』です。脱毛が人権化され、いずれみんながツルツルになったとしたら、身体の中でもっと気になる場所、コントローラブルな場所を見つけるだろうなと。私はダイエットの歴史をずっと追ってきたので、初めは痩せることができればそれでよかったダイエットが「健康的に痩せる」「若々しく痩せる」を目的に次々と変化していったように、短いタイムスパンで変化していくのではないかと想像しているんです。
その流れでいうと、将来受けるであろう介護に備えて脱毛をする「介護脱毛」がありますよね。介護脱毛の動機のひとつって「介護をする人にご迷惑をかけたくない」なんです、恐ろしいですが。排泄の問題が介護における「ご迷惑」であることを考えると、うんこを消せばいいのでは? と最終的には誰かが言い出すのではないかと私はわりと真剣に思ったんですが。
稲垣 いや、本当にありえますよね。さっきツルツルの話が出ましたが、TOTOとかの最新のトイレの流線型ってすごく美しいですよね。汚いものがシュッと流れていって、「最初から何もありませんでしたけど?」みたいな感じになるじゃないですか(笑)。だからいろいろなものが「TOTO化」していって……。
磯野 TOTO化! いい言葉ですね(笑)。
稲垣 やっぱりそれも反動物的というか。動物って食べるし排泄するしセックスするものだけれど、その動物的な要素をすべて消していくことに繋がっていますよね。
磯野 でもわりと切実に、私たちの世代って人口が多いので、高齢者になる頃には社会に与える負担の大きさについていろいろと言われるだろうなと想像できてしまうんですよね。表立っては言えなくても、排泄介助で悩んでいる方は相当いるし、介護される側でもつらい思いをしている方がいる。介護のDXでいうと、いまはすでに尿の膀胱での溜まり具合とか、排泄を知らせるセンサーなどが開発されていますが、結局排泄をコントロールするのが一番楽だよね、という発想にはいずれなりそうだなと。
介護に限らずとも、トイレで困ることって意外と多いじゃないですか。長時間の移動中などにトイレに行く必要がなくなれば相当助かると思うんです。ある意味それは人にやさしい発想ですし、そうなると誰も反対できないんじゃないか。
稲垣 うん、できないでしょうね。ただ、その際に少し気になるのは体内の細菌状況です。うんこって70%ぐらいが生きた細菌で、いまは大腸菌などのさまざまな細菌が僕たちの身体を支えてくれているわけです。それらをすべて駆逐していく方向になったら、健康状態をどう保つのだろうと。
磯野 その点は、小説だから多少発想を飛躍させてもいいかなと思って書きましたね。
稲垣 でも逆に言えば、現代社会においてはそのくらい細菌に対して汚いもの、取り除きたいものというイメージが強いということでもありますよね
排泄に関しては、健康上の問題さえクリアさえできればよさそうだとは思います。昔は各家庭にぬか床があって、家で漬けたぬか漬けをみんなで食べていましたよね。そこにさまざまな細菌がいた。僕は、ぬか床って腸の外付けデバイスみたいなものだったと思うんです。それを食べることで腸の調子を確認したり整えたりしていた。だから、排泄することも外付けにできるのが一番楽ですよね。
磯野 なるほど。いいですね、排泄の外付けデバイス。
(後編に続く)
Interview and text by Shiho Namayuba, Photographs by Shunsuke Imai, Edit by Masaki Koike
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