脱毛しないのは「他者危害的」?「理想の身体」をめぐる「ノーマル」と「アブノーマル」の境界を考える──人類学者・磯野真穂×生命倫理学者・小林亜津子(前編)
「脱毛は大人のたしなみ」──そんなことを言う人すら出てくるようになった今日この頃。
国内における美容脱毛をめぐる風潮や状況は大きく変化し続けており、もはや「脱毛」は特別なことではなくなりつつあります。
人文・社会科学領域の研究者を支援するアカデミックインキュベーター「デサイロ(De-Silo)」で「21世紀の理想の身体」をテーマに研究を進めている人類学者の磯野真穂さんは、脱毛が人権になった世界を描いた小説『HRR』を執筆することで、こうした状況に対する洞察を深めようとしてきました。
これは脱毛が人権として確立される未来を想像したものだ。コロナ禍以降に顕著に増えた駅構内や車内の脱毛広告。将来介護を受ける際に迷惑をかけないようにといった理由とともに着実に顧客を増やす「介護脱毛」。短パンを履いたら自分のすね毛を汚いと感じてしまった男性。テレビの解像度がよくなったためテレビ映りをよくしたいと自ら脱毛を願う子役たち。
ありのままがもてはやされる社会で「ありのままの毛」はもはや汚れだ。この脱毛ブームにはどのような社会の力学が働いているのだろう。人類学を中心とする学問の力を背景に据えながら毛を取り巻く未来の社会を想像してみた。
※小説『HRR』は、下記リンクから無料で読むことができます(無断転載・引用禁止)▶▶磯野さんが「21世紀の理想の身体」を想像した小説『HRR』はこちら
文化人類学を中心とした身体についての先行研究をベースに執筆した『HRR』が内包する論点について、より多角的な視点から深掘りを行うため、磯野さんは、美容整形、ドーピング、スマートドラッグなどを題材に「人体改造」についての研究も行っている生命倫理学者・小林亜津子さんとの対談を実施。前編では「脱毛」を取り巻く状況について考えながら、社会における「ノーマル/アブノーマル」についての議論をお届けします。
脱毛は社会の「当たり前」になりうるか
──お二人は今日が初対面ということですので、まずは小林さんの現在の研究内容から説明いただけますか。
小林 私はヘーゲル哲学と生命倫理学を専門にしていまして、生命倫理学の分野ではケア現場のICT化について研究しています。これまでは人の手で行われていたケアが技術を介したケアに変わっていくことで、どんな問題が起きうるのか、というのが研究の主なテーマです。たとえば今後、ケアがますますICT化していくことで、高齢者が「機械に任せておけばいい」存在として捨て置かれ、彼/彼女らの人権が尊重されなくなるのではないか、という問題について考えています。
小林 亜津子(こばやし・あつこ)
東京都生まれ。北里大学一般教育部教授。京都大学大学院文学研究科にて博士(文学)を取得。専門は、ヘーゲル哲学、生命倫理学。著書に、『はじめて学ぶ生命倫理』『QOLって何だろう』(共にちくまプリマー新書)、『生殖医療はヒトを幸せにするのか』(光文社新書)、『看護のための生命倫理』『看護が直面する11のモラル・ジレンマ』(共にナカニシヤ出版)、『生命倫理のレッスン』(筑摩書房)、共著に『近代哲学の名著』(中公新書)などがある。
磯野 医療現場における機械の進化は凄まじいですものね。
小林 そうですね。医療や看護の歴史を遡ると、医療が高度化した1960年代以降、ICUでケアされる人に看護師がどう向き合うべきかという議論は盛んに行われてきました。当初は機械によって身体が数値化されることや、身体が機器につながれて管理されることに抵抗する声もあがったのですが、「自分たちが人間らしく扱われなくなるのではないか」という懸念に対し、患者たちが安心できるような声がけを常に行ってきたのは現場の看護師たちだったんです。
ですから、医療が高度化する中でも看護師がいれば十分なケアはなされる、むしろ最高のケアというものは看護師の働きを技術が媒介することによって果たされるのではないか、というスタンスを生命倫理学(看護倫理)では取ってきたんです。在宅ケアのICT化に関しても、訪問看護師が主役になっていくことで少しずつ受け入れられていくのではないかと考えています。
磯野 たしかに医療のICT化に限らずさまざまな技術が進歩していく中で、これまで人間がやっていた行為が機械に取って代わられることに関しては、もちろん批判も出る一方で、大きな流れとしては徐々にそれが当たり前になっていくことが一般的なのかもしれないと思いますね。たとえば、ひと昔前であれば「炊飯器でご飯を炊くなんて信じられない。ご飯は釜で炊いてこそだ」みたいな声も上がっていたのかもしれないけれど、いまでは誰もそんなことは言いませんし。
同じように小説『HRR』で取り上げた脱毛に関しても、いまはまだ限られた人たちが選択するものという空気がありますが、おそらく半世紀ぐらいの間にはデフォルトになるんじゃないかと想像して書いてみたんです。小林さんは著書『生命倫理のレッスン 人体改造はどこまで許されるのか?』(筑摩書房, 2022)の中でも「私の自由」「ありのまま」といった言葉に着目されていましたが、今回はそういった文脈とも結びつけつつお話を伺ってみたいなと思っています。
磯野 真穂(いその・まほ)
人類学者。長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、アスレチックトレーナーの資格を取るべく、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入するも、自然科学の人間へのアプローチに違和感を感じ、同大学にて文化人類学に専攻を変更。同大学大学院にて応用人類学修士号、早稲田大学にて博士(文学)を取得。その後、早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。研究、執筆活動を続けつつ、身体と社会の繋がりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップや読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開く。 人類学の暮らしへの応用可能性を模索しており、企業の新製品立ち上げにおけるブレインストーミングなどにも関わる。共同通信「論考2022」、朝日新聞書評委員/同紙コメントプラス、コメンテーター。チョコレートと甘酒と面白いことが好き。
小林 ありがとうございます。拙著の中でも引用させていただきましたが、私は磯野さんの『ダイエット幻想 やせること、愛されること』(筑摩書房, 2019)が非常に琴線に触れまして。ダイエットという事象に関してこれ以上の表現はないだろうと思っていたんです。
磯野 前から読んでくださっていたんですよね、ありがとうございます。
脱毛は「医療化」され、毛があることは「他者危害的」になる?
磯野 『HRR』の中には、2080年には脱毛は完全に人権になっているという描写があります。哲学者のイアン・ハッキングは、そうなれたらいいなと願うものを「理想」、誰もが到達すべきもの、到達できて当然のものを「規範」と呼び分けているのですが、脱毛はいずれ理想ではなく規範になるのではないか、というのが私の見立てなんですね。
現代では誰しも住む場所があることが規範化していて、貧困などによってそれが奪われることは人権問題であるという認識が社会の中にある。それと同じように、公平性の観点から言っても「脱毛ができないことは人権問題だ」という時代が来るのではないかと私は想定しているのですが、小林さんはどうお考えですか?
小林 難しいところですが、そこまではいかないのではないかと個人的には思います。脱毛をしていることはすなわち一定の文化レベルに達しているということだ、という見られ方にはなっていくかもしれませんが。ただ、現時点では脱毛と健康問題にはあまり関連性がないけれど、脱毛がいずれ医療化していけばそうなるのかもしれないとは想像します。
磯野 なるほど。医療化については私も考えまして、小説の中の未来では、体毛がある状態に「有毛症状」という名をつけています。小林さんが著書で引用されていた美容整形についての社会学者・谷本奈穂さんの論考の中にも、美容整形が一般的になっていく過程には医療のお墨つきがあったという話がありましたが、同じように、たとえば有毛であることは感染症のリスクを高めるだとか、脱毛することでQOLが上がるというような文脈が生まれてきたら、体毛も簡単に病理化されてしまうのではないかと思ったんです。
小林 その場合、女性だけではなく男性の脱毛も一般的になっているという想定ですよね。男性が巻き込まれるようになったら早いだろうとはたしかに思います。
磯野 私は最近、男性の脱毛の広告に注目しているのですが、アスリートが脱毛のCMに出演していたり、「男らしさより自分らしさ」といったキャッチコピーが使用されたりと、徐々に男性の世界にも脱毛の波がやって来ていると感じるんです。おっしゃる通り、男性が巻き込まれると流れが変わるのは早いですから。
小林 でもたしかに、衛生の観点から見ると、「無毛こそが倫理的な身体だ」ということにはなるのかもしれないですね。生命倫理学においては、ジョン・スチュアート・ミルの主張をもとにした「判断能力のある成人の場合、自身の生命、身体、財産等に関して、たとえ当人にとって不利益な決定を下したとしても、他人に危害を及ぼすことにならない限りはその決定を認める」という原則があるのですが、自己決定権は「他人に危害を及ぼすことにならない限り」認められるというのがこの原則のポイントなんです。有毛は他者危害的だ、といずれ言われるようになるのかもしれない。
磯野 「有毛は他者危害的」! でも、毛が生えていることが他者にとって「ご迷惑」になるというのは、実は介護脱毛の文脈ですでに出てきているんですよね。いずれ介護をされるようになったら、アンダーヘアの脱毛が済んでいないとケアする人の「ご迷惑」になるかもしれないと。未来のリスクヘッジにしても程があるだろうと思うのですが、これは完全に「他者危害的」の発想ですよね。
介護に関わる方にお話を伺うと、高齢になってくるとどんな方も全身の毛が薄くなってくるので、アンダーヘアだけがフサフサなんてことは滅多にないらしいんです。けれど、糖質制限ダイエットにおいて「糖質は身体によくない」という空気が生まれてからは糖質が過剰に忌避され始めたように、特定の文脈が一度生まれてしまったら、「それが実際にどうなのか」はあまり関係ないのかもしれないなと。そうなると、誰一人脱毛には逆らえなくなる……というところで辿り着いたのが『HRR』の結末なんですよね。ややディストピア的な終わり方なのですが。
小林 あの終わり方は非常に印象的でした。仮に私が同じテーマで小説を書くなら、こんな世界はおかしい、と抵抗する人を一人くらいは入れるだろうと思います。けれどその主張は世間に伝わらず、ボディ・エンタープライズの本社ビルに時限発火装置を仕掛けて爆破事件を起こし、負傷者が出てしまったために自首しながらも、「社会の要請を内面化していることに気づかない限り、私たちには信念も自由もない」ということを心に響く言葉で訴えかける、といった展開にするのではないかと思いますね。
磯野 いやいや待ってください! おもしろすぎます。小林さんの中にそこまで設定があったとは(笑)。もう『HRR2』じゃないですか!
『HRR』の中ではユミの母親が、いま小林さんがおっしゃったような立場の人物だったと思うんです。けれど脱毛が一般的になった時代においては、「脱毛なんてしなくてもあなたには価値がある」という言説自体が暴力的だと捉えられてしまう可能性もあるのではないかと。最近では小学生も脱毛したがるようで、脱毛サロンのメニューにはすでにキッズ脱毛というジャンルを用意している店舗もあると聞きました。ですから、脱毛していない子どもがいじめられるようなことになったら、親は子どもに脱毛させるべきだ、という論調になっていくのではないかと。
小林 親が子どもに積極的に受けさせるという点では、歯列矯正に近いものがあるのかもしれないですね。
磯野 そうですね、私も小説を書いているときは歯列矯正のことを念頭に置いていました。歯列矯正に関しても、矯正をしている身体が社会にとってノーマルになってくると、ノーマルの基準自体が変わりますよね。そうなると、アブノーマルからノーマルに引き上げることは治療であるという文脈になってくるのではないかと。
小林 なるほど。脱毛している身体がノーマルになると、脱毛をしていないことがある種の欠損である、という空気は生まれうるかもしれませんね。
どこまでが「救済治療」なのか?揺れ動く「ノーマル/アブノーマル」の境界
磯野 技術の発展が「ノーマル」の基準を動かし、結果的に「アブノーマル」の範囲が拡張していくという話は生命倫理の中にもあるのではないかと思うのですが、いかがですか?
小林 そうですね。医師の立場からすると、治療を超えたエンハンスメント(医療技術を転用し、健康な身体や精神の機能を向上させるために用いること)にはあまり手を出したくないと思いつつも、実際には治療とエンハンスメントの境界が非常に曖昧になっているという状況があるのではないかと思います。
たとえば、乳がんで乳房を摘出した方を対象に行う再建術に関しても、かつては倫理委員会に申請した上で、乳房があることは当人のQOLに重要な影響を及ぼすというお墨つきを得て手術をしていた時期があったんです。医療の基本はあくまで患部を治すための治療であることを踏まえると、美容整形と同じプロセスで乳房を再建するというのは病院でやるべきことなのか、という議論が当時はあったわけです。
磯野 かつてはそれが、病院がすべきことの粋を超えているのではないかと考えられていたと。
小林 ええ。性別適合手術もしばしば議論の対象になっていました。旧優生保護法の中には「故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」という文言があるのですが、性別適合手術はこれに抵触するのではないかと考えられていたんですね。
流れを大きく変えたのが、1985年に埼玉医科大学で行われた男性器の再建手術でした。交通事故で性器を失ってしまったある新婚の男性が子どもを望んでいたことから、男性器を再建する手術が行われたのですが、手術を担当した医師がマイクロサージャリー(編注:手術用ルーペや手術用顕微鏡を用いて微細な手術を行う技術のこと)の権威だったこともあり、男性はその後、妻との間に子どもを3人作ることができたんです。
磯野 そんなことがあったんですね。
小林 その手術が世界的に話題になったことで、女性の身体で生まれたFtM(編注:「Female to Male」の略で、女性の身体で生まれてきて、男性として生きることを望む人を指す)の男性が、1992年に陰茎の形成を希望して埼玉医大を訪れました。1960年代にはブルーボーイ事件という、男娼の方に睾丸摘出術を行っていた現役の産婦人科医に有罪判決が出た事件もあったことから、埼玉医大ではその患者に陰茎の形成をするべきか否か、何年もかけて議論したんです。
結果的に、性別適合手術は病気の発生源そのものを治療する「根治治療」にはあたらないものの、患者の苦痛を軽減させるための「救済治療」であるという結論になり、手術が認められました。つまり、性別適合手術を必要としている方を医学的に擁護するために、新しい概念を作ったんです。
磯野 新しい概念を作るという行為って、実はしばしば行われますよね。そうなると今度は、救済治療の範囲をどこまで拡大させていくかが問題になってきそうですね。
小林 おっしゃる通りです。たとえば卵管閉塞が原因で不妊症になった方が体外受精を行うのも、根治治療ではないものの、救済治療の一種だと考えられる。埼玉医大の一件をきっかけに救済治療という概念がさまざまな医療に応用されるようになったわけです。そうなると、歯並びの悪さに悩んでいる方が歯列矯正をするのも救済治療と言えるのでは? という考え方もできそうですよね。
磯野 美容整形だって救済治療の一種であると言えるかもしれませんよね。もちろん、美容整形を望む人の悩みが整形によってすべて解消されるわけではないだろうけれど、喫緊の悩みを解決する手段としての美容整形のハードルはどんどん下がってきているように感じます。
(後編に続く)
Interviewed by Shiho Namayuba & Masaki Koike, Text by Shiho Namayuba, Photographs by Shunsuke Imai, Edit by Masaki Koike
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