音楽家とAIの創造的な関係とは?「ライブ性」から探る、音楽と技術、人間の次なる関係性──音楽研究者・加藤夢生
コロナ禍によって急速に普及した「オンラインライブ配信」。この新しいメディアは私たちの生活にある程度定着した一方で、それが従来の「生演奏」のライブに取って替わることはありませんでした。むしろ、コロナ禍の収束をきっかけに、アーティストのライブに再び足を運ぶようになった人も多いはずです。
急速に発展する技術や社会環境の中で、これからの音楽やそれを取り巻く音楽産業は、いかなる方向性へと進んでいくのか──それを探求しているのが、ロンドン大学ゴールドスミス校音楽学部博士課程に在籍している加藤夢生さんです。「デサイロ アカデミックインキュベーター・プログラム(以下、AIP)」第1期に採択された加藤さんは、本プロジェクトで「AIと音楽家が織りなす「ライブ性」──人間と機械の創造的な関係性の模索」をテーマに、これからの音楽と技術、人間の関係性のあり方を模索していると語ります。
AIと音楽家が織りなす「ライブ性」──人間と機械の創造的な関係性の模索
今日、スマホさえあれば好きな音楽をいつでも聴くことが出来る。しかし、それでも(あるいは、それゆえに?)「ライブ=生演奏」には特別な価値があると考えられている。著名なピアニストが来日すれば、高額なチケット、混雑した電車での移動、窮屈な座席など数々の犠牲を払ってでも人々はコンサートホールに押し掛ける。
生演奏に付随するこうした特別さは、音楽研究において「ライブ性 liveness」と名指される。研究者によりアプローチは異なるが、この概念はテクノロジーとの関係性によって考察されることが多い。なるほど、確かにクラシックコンサートのライブ性は機械の無媒介性、すなわち、演奏者と聴衆の間に録音機器やマイク等が介在しないことに求められるかもしれない。
ここで「ライブ」は「機械」と対置される。根底にあるのはライブ=有機的 vs 機械=無機的という二項対立的前提である。しかし、これに揺さぶりをかけるのは人工知能である。機械でありながら人間の振る舞いを参照してきたそれは、無機と有機の境界を乗り越えるからだ。では、音楽家はこの新しい技術を創造活動にどう取り入れ、どのようなライブ性を紡ぎだしているのだろうか?本研究はこの問いを通じ、21世紀の人間と機械の創造的な関係性のあり方を探究する。
「ポピュラー音楽は録音とライブを二大形式として発展してきた」──そう語る加藤さんは、音楽研究において見落とされがちな「ライブ性」に、音楽学だけでなく技術や倫理などを交えた観点からも迫ろうとします。「ライブ性」の概念を軸にしつつ、音楽家や技術者にも介入する方法を模索する、加藤さんに話を伺いました。
加藤夢生(かとう・むい)
7歳からクラシック・ピアノを始め、その後、音楽史や音楽理論を学ぶ。中学ではHTMLやプログラミングを独習し、ウェブサイトやソフトウェアを作成、後者のいくつかは雑誌で紹介された。高校からジャズを独学。2016年、東京音楽大学ピアノ科卒業。副専攻の民族音楽学では日本のジャズ史に関する卒論を提出。翌2017年、東京芸術大学大学院音楽研究科音楽文化学専攻に進学し、植村幸生(主査)研究室にて民族音楽学、毛利嘉孝(副査)研究室で文化研究・メディア論を学び、日本のジャズ・フェスティバル研究で2019年修士号取得。
同2019年、同大学国際芸術創造研究科博士課程に進学し、毛利教授に師事(単位取得満期退学)。同年9月、ロンドン大学ゴールドスミス校音楽学部修士課程に留学、ポピュラー音楽学の泰斗、キース・ニーガス教授に師事。音楽学科目の他、他科のメディア論関連の授業を履修。Covid-19の影響で増えたライブストリーミング演奏への関心から、現代ジャズ音楽家のオンライン・プラットフォームの活用とそのライブ性に関する修士論文で2020年9月、2つ目の修士号(Master of Arts with Distinction) を取得。2021年9月同大学音楽学部博士課程に進学、在学中(PhD Candidate)。
90年代以降に論じられた、「録音」と「ライブ」の相互依存関係
──加藤さんは音楽研究の分野で、生演奏に人間が感じる”特別さ”について、「ライブ性」という概念をもって研究されているとお聞きしました。
まず、音楽の聴き方は時代や技術の変遷とともに変わります。レコードからCD、近年のサブスクリプションサービスまで、音楽の聴き方はさまざまですが、私たちが普段の日常生活で耳にするのは「録音」された楽曲や音源が多いと思います。
20世紀の商業音楽はレコードとともに発展してきました。いまでも例えば、「誰誰(アーティスト)の名盤といえば何年の『○○』だ」というように、録音物を指して音楽について語ることが多いですよね。それはいわゆるポピュラー音楽だけではなく、クラシックなども例外ではありません。つまり、「録音」は20世紀以降の音楽文化の重要な一面を担ってきたというわけです。
しかし、録音物だけでは音楽文化を語れません。音楽文化のもうひとつの重要な側面として、「ライブ演奏」も挙げられます。むしろ、音楽ファンであれば録音ではなく、「ライブ演奏」こそが本物の音楽に触れる場だと考える人も少なくありません。しかし、1990年頃までのポピュラー音楽研究では、「録音」された楽曲や音源と比較しても、「ライブ演奏」はあまり検証の対象となってきませんでした。
──なぜ、「ライブ演奏」よりも「録音」が研究の中心になったのでしょうか?
大きくふたつの理由があります。ひとつは、ポピュラー音楽研究にとって“録音を作る”役割を持つ音楽産業の存在が大きかった点。もうひとつは、伝統的に楽譜などの資料を研究対象としてきた音楽研究者にとって、録音物のような「モノ」に対して、ライブ演奏のような「コト」は扱いにくかった点です。
私は以前ジャズを研究していたのですが、ジェッド・ラスーラという研究者が「記憶のメディア──ジャズ史におけるレコードの誘惑と脅威」という論文の中でこの問題を論じています。メディアに固定された演奏の記録であるレコードは、ジャズ史家が一貫した「物語」としての歴史を書くのに都合が良かったのだと。(注1)
1990年代頃にはこうした批判がさまざまな形で展開されるようになり、レコードではなくライブ演奏を軸として、オーラルヒストリーや会場の資料などを手掛かりにポピュラー音楽史を再構築するような研究が出てくるわけです。こうした学問的な背景に興味を持ち、私はジャズ研究において「ライブ演奏」の場としての「ジャズ・フェスティバル」をテーマに修士研究を進めていました。
──録音中心の歴史記述に対する問題意識から、ライブを研究する重要性に気づいたということですね。ひとつ確認したいのですが、「ライブ性」研究とは、つまり「ライブ演奏」を対象にした研究という意味でしょうか?
少し違います。まず、「ライブ演奏とは何か?」という定義自体が「ライブ性」研究の問いのひとつなんです。これを明確に定義しようとすると、それだけで本が一冊書けてしまうのですが……。とりあえず、一般には「録音ではないもの」として考えられていると思います。
例えばコンサートホールでのピアノの演奏会であれば、ステージ上にピアノがあり、観客は客席からピアニストが楽器を操作するシーンを鑑賞します。ここにはレコードも再生機器も必要ありません。「ライブ」を「録音ではないもの」として理解するならば、「ライブ」と「録音」は二項対立的な概念と言えます。
しかし、こうした「ライブ」対「録音」という二項対立的な理解を疑い、この関係性の再考を試みたのが、フィリップ・オースランダーです。彼は『Liveness: Performance in a Mediatized Culture』(1999)という本で、録音の否定としての「ライブ」ではなく、それ自体の肯定的な要素として「ライブ性」というものを名指しながら、演劇、ロック、司法の事例を通して、「ライブ」の価値というものについて論じました。この本を立脚点として、2000年代以降はライブ性の研究が積み重ねられていった経緯があります。(注2)
──「録音vsライブ」という二項対立に疑いをかけたオースランダーは、「ライブ性」をいかに論じたのでしょう?
彼はまず、そもそも「ライブ」という概念はどこから生まれたのかを考えました。ここで彼の着眼点の面白いところは「『ライブ』とは、録音技術が出てきてから生まれた概念である」というアイディアを議論の出発点にしたことです。現代の感覚では、「まず『ライブ』な演奏があって、それが『録音』されるようになった」と考えてしまいがちですが、「そもそも『録音』という概念があるからこそ、『ライブ』という対概念を想定できるのではないか」と。
この発想の転換が好都合なのは、「ライブ」を「録音」との関わりから論じられるようになったこと。すなわち、「録音」を出発点とすることで、両者がいわば相互依存関係にあることを炙り出したのです。ライブ演奏の魅力を「録音されていないこと」によって訴えようとしても、その定義自体が録音との比較にならざるを得ないわけですから。(注3)
──面白いですね。「ライブ」と「録音」の相互依存関係を示す具体事例には、どのようなものがあるのでしょう?
オースランダーはロックの事例を挙げています。ロックもまたレコードの恩恵を大きく受けた音楽のひとつであり、ロックライブでの体験もレコードとの比較になりうると言えます。ライブに来た観客は録音で慣れ親しんだ演奏を期待するし、演奏家はそうした期待に応える(あるいはあえて裏切る)というわけです。また反対に、「録音された演奏」は、ライブがあるからこそ「本物」として鑑賞されます。録音では演奏者の姿が見えませんが、ライブ演奏によって演奏家の実在が証明されるからです。
ロックの事例のように、あらゆる文化的活動は何らかのメディア技術に関わっているとオースランダーは指摘します。彼にとって文化とはメディア技術に媒介されたものであり、「録音」的なものと「ライブ」的なものが常に媒介しあう状況です。『Liveness』は、この終わりない円環的な状況を描き出そうとしています。
こうした射程の広さから、「ライブ性」は様々な文化的活動に関して、日々変化するメディア技術との関係のもとに、今日に至るまで幅広い研究者たちによって論じられてきました。『Liveness』の初版の出版からはすでに25年以上経っていますが、いまなおフレッシュなトピックといえます。(注4)
人間と機械の関係性を撹拌する、AIと音楽家の「ライブ性」
──「ライブ性」の研究にはすでに25年以上の蓄積がある中で、加藤さんの研究はそこに「AI」という要素を掛け合わせています。どのような関心からこの研究がはじまったのでしょう?
AIと「ライブ性」を結び付けて考えようと思ったきっかけは、AIが「ライブ性」の従来の議論が暗に前提としてきた「有機/無機」の対立を攪乱するものとして、人間と機械の関係性を改めて考えるのに良い題材になるのではないかと思ったことです。
まず「ライブ性」という概念は、「生(生きている、生き物)」に関係しています。日本語でも「生演奏」と呼ばれるように、度々、生きた人間ならではの要素、例えば、その場限りの一回性や、演奏者と観客の場と時間・空間的共存性が強調されてきました。思い切って単純化してしまえば、「生きた人間」がそこにいる音楽こそがライブの条件としてしばしば考えられていたのです。
一方で、「録音物」は、英語圏においてしばしば「デッド性(Deadness)」として語られています。録音機器によってメディアに固定された録音音楽は、「生きた」ライブ音楽と対置されるわけです。おそらく機械の固く、冷たいイメージが重ねあわされているのでしょう。歴史的にもそのような事例が多々あります。つまり、「ライブ」と「録音」は、それぞれ「ライブ性 = 生きた人間、有機性」と「デッド性 = 冷たく固い機械、無機性」にしばしば重ねられてきたわけです。(注5)(注6)
──人間と機械、ライブと録音はそれぞれ生と死のメタファーで論じられてきたわけですね。
さらに、近年発展するAIは、「人工“知能”」という名前そのものが示すように、しばしば人間的なメタファーで語られます。そもそもコンピュータ自体、脳との対比で語られてきたという歴史があるのですが、人工知能と総称される様々な技術は歴史的に、サイバネティクスやA-Life(人工生命)など人間や生物の営みの機械的な再現を目指す試みの中で発展してきた背景があります。(注7)
このような歴史を持ったAIは、複製技術としてみたとき録音技術とは違った特徴を持っています。最近の生成AIに見られるように、AI(正確には生成モデル)は「学習データに似ているけど少し違う」アウトプットの生成を可能にします。これは「原典の忠実な再現」を目指す従来の録音技術とは大きな違いです。そのような点で、AIで作られた音楽について考察していけば、「ライブ/録音」=「人間/機械」という暗黙の前提を崩せると思ったのです。
──先ほどはジャズやロックを事例に「ライブ性」の概念を語っていましたが、AIにフォーカスする場合はどのような音楽に注目しているのでしょうか?
この着想を得た時に最初に頭に浮かんだのは、自らを「コンピューター・ミュージシャン」と称するアメリカの音楽家・研究者のホーリー・ハーンドンです。日本では知名度がありませんが、英語圏だと「AIとアート」と言えば真っ先に名前が出てくるアーティストです。彼女は元々、実験的なクラブ音楽で有名だったのですが、2019年に発表された『Proto』での成功によって活動の方向性を確立し、名声を決定的なものにしました。
このアルバムは、彼女がスタンフォード大学の博士課程で提出した修了作品がもとになっています(同大学には、電子音楽の研究所として名高いCCRMAがあります)。発表当時、AIを用いた音楽はまだ珍しかったのですが、技術的な革新性とクラブミュージックの聴きやすさが共存したアルバムで名盤と評価されています。
例えば冒頭の「Birth」を聞いてみてほしいのですが、人間の声とも、機械の音ともいえない、生々しい合成音が聞かれます。実際に制作過程を調べてみると、かなり意図的に「AIっぽい」音作りがされているのですが、私はそこからインスピレーションを受けて、音楽的に「ライブ」でも「デット」でもない存在について論じられないかと考えました。
音楽と技術、人文学の次なる関係性を見出す
──ここまでの議論は、「ライブ/録音」=「生/死」という単純な二項対立で従来の「ライブ性」が議論されがちだったものが、AIの登場によって「機械なのに生々しい」といった二項対立の脱構築が発生し、「ライブとは何か」という問いの探求が今後より深まっていくだろう……とも言いかえられると感じました。
そうかもしれません。AIと「ライブ性」の研究を始めた時にもうひとつ頭に浮かんだ音楽があります。それは2019年にヤマハとNHKが共同で行った、故・美空ひばりのライブステージの再現です。紅白歌合戦で放映され大きな反響を呼びました。放送当時はロンドンに留学していたので、テレビで「生で」見ることは出来なかったのですが、YouTubeなどで見て興味を持ちました。
この事例は二つの意味で興味深く思いました。まずひとつはそのクオリティー。特別な美空ファンでなくても、何かグッとくるものがありました。それと同時に、機械的な気味の悪さも印象的でした。もうひとつは、「AI美空ひばり」に対する一般の人々の反応の大きさです。ネット記事やSNSなどで多くの批判が寄せられ、NHKはその後、特別番組を制作しています。
──先ほどお話されていたハーンドンは、「Holly+」と名づけられた自分自身のボーカルクローンを一般公開していますよね。これを使うと誰でも簡単に彼女の声で歌わせたり、彼女とデュエットできたりする作品ですが、AIによる声のクローンという点では「AI美空ひばり」にかなり似ていますよね。
はい。ただ、ハーンドンの作品と「AI美空ひばり」は対照的だと思っていて、ハーンドンの作品では存命の方のデータを元に新しい「声」を作ってるのに対して、この作品は故人の過去の録音から「美空ひばりっぽい」演奏を再現しています。それが特有の違和感や人々の反応の大きさに関わっているのだと思います。
このような興味から、大学院の授業課題でこの事例を取り上げて、一般人の反響やNHKの反応などを題材にレポートを作成したのが、いま思えばAIと音楽の研究に携わった出発点でした。
──「AI美空ひばり」の事例について、加藤さんはどのような意見をお持ちなのでしょうか?
特に興味深いと感じているのは、一般の人の新たなテクノロジーに対する反応が顕著に表れている点だと思います。ラディカルな主張を好む人文学の研究では、テクノロジーと人間の関係から立ち現れる「新しい人間性」をポジティブに捉える傾向にあります。例えば、ドナ・ハラウェイのサイボーグ概念や、「ポスト人間主義」などもそうでしょう。そうした見地からいえば、ハーンドンの音楽に現れる人間とも機械ともつかない「声」も、人間と機械のハイブリット性による「新しい人間の表現」として称揚できてしまいそうです。
しかし、「AI美空ひばり」への人々の批判的反応は、こうした安易な“新しさ”への称揚に対して「待った」をかけるように思われました。ポスト人間主義的な観点からいえば、「AI美空ひばり」によるライブ演奏も「新しい人間性」と言えるかもしれません。しかし、「ライブ」=「人間」のメタファーを用いつつ、このような主張をするのが本当に妥当と言えるのでしょうか?一方で、だからといって倫理的な配慮がラディカルなアイディアを妨げるべきなのでしょうか?
こうした観点から、「AIと音楽に関する研究」を「人間と機械の交点に関する問題」と置き換え、安易なAI理解・ライブ性理解を避けながら、丁寧に事例を読み解いていくべきではないかと考えるようになりました。このAIと「ライブ性」というテーマは、人間や「生」に関する問いとして、人文学的にも考える価値があると思います。
──音楽研究と人文学を架橋するような取り組みとも捉えられますが、これによって音楽の世界にどのような影響が生まれると思いますか?
音楽家や演奏家の「文化をつくる」活動に、テクノロジーの変化はどのような影響を与えるのか。そのヒントを提示できると思います。これまで音楽家や演奏家は、ピアノやギター、シンセサイザーといった楽器などを用いて楽曲を制作したり、演奏したりしてきました。こうした旧来の技術が様々な音楽表現を生んできたように、AIの登場は新たな表現を生み出す契機になると思います。
また、AIテクノロジーと音楽産業やプラットフォームの関係性も考察したいテーマです。ここでは最近のトピックとして生成AIが外せません。最近の音楽産業の動向として情報産業、すなわちGoogleやAppleなどの巨大企業やSpotifyのようなスタートアップ企業の参入がよく語られますが、音楽に関わる生成AIの開発もこうした潮流とは無関係ではないでしょう。
しかし、Spotifyのレコメンデーション機能のように、音楽の流通にアルゴリズムが与える影響についてはこれまでよく研究されてきたのですが、情報産業が音楽制作へ与える影響についてはほとんど研究されていません。今後は生成AIを軸として、情報産業参入後の音楽産業と音楽文化の相互関係を文化産業論の枠組みからも考えていきたいと思っています。
新たな技術は「作る」という概念まで変える
──生成AIの登場は「誰にでも簡単に創作ができるようになった」という文脈でも語られると思いますが、どのように「音楽を作る」活動や行為は変わるとお考えですか?
その点では、自動作曲用AIソフト「Amper Music」の動向がとても興味深いと感じています。リリースされた当初、このソフトは「ユーザーに合わせて音楽を作る」という仕様でした。ところが、2021年に写真素材などを提供するShutterstockが同社を買収すると大きくサービスの形が変わります。AIが事前に音楽を大量につくり、その中からユーザーが選ぶ仕様になったんです。
しかし、この事例をあらためて考えてみると、そもそもオリジナルな音楽を「作る」ということと、たくさんの素材の中から「選ぶ」ことは、実はそんなに変わらないのではないかと思えます。「Amper Music」の体験談にこんなコメントがありました。ツールの中で指示される条件に従って選んでいくと、最後に音楽が出てくる。それを聴いて、「ああ、これを自分が求めていた!」と思ったと。でも、それはキーワードを検索窓にいれて、出てきた音楽を選ぶこととほとんど同じではないでしょうか?
──人間は自分が望んでいたものに近しいものを見つけて、初めて自分が何を求めていたのかわかる、というわけですね。
はい。もちろんAmperの宣伝の一部なので、この体験談をそのまま受け取ることは出来ません。しかし、このコメントは音楽制作一般にとっても示唆深い感想だと思いました。すなわち、AIに限らず、人間が内発的に創作をしているというより、制作を支えるツール側の所与の要件によって人間の嗜好が条件づけられるのではないか。
そうした意味で言うと、そもそも何かを「作る」ことと「選ぶ」ことが同じように思えること自体が、コンピューターの登場とは無関係ではありません。コンピューターは簡単な指示を与えたら、それに基づいた大量のアウトプットを瞬時に生み出すことが可能です。
これはコンピューターを使う作曲家にとっての「過剰問題(over-abundance problem)」と呼ばれて論じられています。すなわち、成果物を簡単に、大量に生み出せてしまうからこそ、そこから「選ぶ」ことが作業の中心となるということです。この例が示すことは、コンピューター、そして、AIの登場が、音楽制作が「作る」プロセスであると同時に「選ぶ」プロセスになっていることを示しています。(注8)
Amperの事例はこうした技術的背景、そこで行われる文化活動の性質、そして、それについて私たちが抱いている前提を振り返る機会を提供します。あくまでこれは一例ではありますが、AIと音楽に関するこうした研究を通じて、より広く、テクノロジーの変化が人間の創造的活動に果たす役割や影響を明らかにできるのではないかと思います。
音楽家の道から「音楽研究者」への転身
──加藤さんはもともと東京音楽大学音大のピアノ科で音楽家を目指していて、そこから研究者へと活動の軸を移されていますよね。音楽家としてのバックグラウンドについてもお伺いできますか?
まず、7歳からクラシック・ピアノを始めました。それが原体験と呼べるかはわからないのですが、演奏から音楽に接したことが、研究者を目指す現在でも音楽家の「実践」に強い関心がある理由だと思います。
そのまま大学の学部時代は音大へと進学して、卒業する頃までジャズピアニストになりたかったんです。しかし、とある有名ながらも厳しいピアニストのレッスンを受けている時に、「やめたほうがいい」と言われたことがありまして(笑)。実際、絶対音感もないですし、ピアノを続けていけば多少は上手くなることはあったとしても、プロを目指す周りと比較して特段のアドバンテージがあるわけではないと薄々は気づいていたんですよね。
そこで自分なりに考えた結果、自分は演奏よりも研究の方が得意なのではないかという考えに至りました。そこで東京藝大では音楽文化学を専攻し、学部生時代から関心が高かったジャズをテーマに、先述した日本の初期の「ジャズ・フェスティバル」に関する研究で修士号を取得しました。
──加藤さんは「民族音楽学」の研究もされていたとお聞きしています。
それはジャズの研究ができるのが民族音楽学だったからです。一般的に、音楽学はヨーロッパの人が考えた学問なので、クラシック音楽以外は「民族音楽」として分類されます。
また、実は音大に所属していた頃に、インドネシアの伝統音楽であるジャワ・ガムランを習ったこともあります。いまでも自分の中にジャワ・ガムランは存在感があるのですが、それまでの自分とは全く異なる音楽の理論や体系に触れたことで、「音楽」という世界の広さを知ることができました。
──その後、東京藝大の大学院で修士号を取得したあと、イギリスに渡って、カルチュラル・スタディーズで有名なロンドン大学ゴールドスミス校のポピュラー音楽研究修士課程にも進学されていますよね。どういった経緯からだったのでしょう?
大きな理由は、ゴールドスミスには大学では珍しく専攻にポピュラー音楽研究があることです。また、その当時関心が強かったテクノロジーやメディア論の研究が出来る環境でもあることから決めました。
これは東京芸大時代に師事していた社会学者の毛利嘉孝先生の影響でもあります。毛利先生は音楽に限らず美術やストリートアートなど広義の文化を論じながら、時に政治的な領域にも介入しつつ、国際的な活動を展開しています。そうした研究者としての姿勢は、いまの私にとってひとつの目標になっていますね。
ただ、修士時代は留学中にコロナ禍に直面しまして。2020年9月に「現代ジャズ音楽家のオンライン・プラットフォームの活用とそのライブ性」というテーマで修士論文を執筆しているように、そこがテクノロジーを題材に研究を進める入口だったと思います。(注9)
音楽家・技術者・研究者が共創する“生態系”に向けて
──先ほど毛利先生の影響についてもお話されていましたが、将来的に目指したい研究者としての像を教えてください。
まず音楽の研究を続けるモチベーションとして、音楽生産の現場や音楽の実践そのものにもっと深く関わりたい。その上で「実践」と「理論」を往復する方法を模索したいという気持ちがあります。
例えば、特にクラシックの世界に色濃い文化なのですが、いわゆる“音楽評論家”は「演奏できないのに言いたいことを言っているだけの存在」だとみなされることがあります。批評家には批評家ならではの役割や存在価値があるはずなのですが、どうしても「音楽家が偉い」といった価値観が少なからずある気がするんです。
そして、それは私のような“音楽の研究者”にとっても例外ではありません。音楽をつくる立場にいる音楽家と、“研究者”という立場からいかに対等な関係性を築いていけるか。そのためには、ただ単に「音楽を取り巻く世界を調べる」だけでは不十分なはずです。音楽を演奏しないで、音楽に貢献する方法を模索すること──それがいまの自分にとっての課題であり、追求したいと思っていることです。
──研究者として音楽のあり方に介入する方法を試行錯誤する中で、AIと「ライブ性」といったトピックにたどり着いたわけですね。
そうですね。音楽家は普段から楽器などを介して何かしらのテクノロジーを使っていますが、技術的詳細や歴史的背景には関心がない場合も少なくありません。だからこそユニークな表現ができることもあるとは思うのですが、音楽家たちの実践を研究者として技術的な観点も交えつつ紐解いていくことで、彼/彼女たちにもインスピレーションを与える新しい視点を提示できる可能性があると思います。
さらに、楽器をつくる技術者なども音楽の実践者、音楽生産の担い手だと言えます。調査を通じて気づいたのですが、こうした人は「ライブ性」といった概念を重要視していながらも、直接的にそれを言語化して問うことには興味がないことがある。だからこそ、こうした人々と積極的に関わり、AIと「ライブ性」といった概念を提示して問いかけていくことで、音楽の発展に寄与できる可能性があると思っています。
──広い意味での音楽の実践者、すなわち音楽家や技術者、その産業を取り巻く企業なども含めて、研究者という立場から創造性を高めていく方法を模索していくわけですね。最後に、これからAIPを通じて取り組みたいことをお聞かせください。
まずは音楽学の研究者として、近しいコミュニティ内で付加価値を発揮する方法を模索したいと思っています。具体的には、楽器の生産に携わる企業の研究所などで中長期でのフィールドワークを実施。「技術開発の現場で、音楽家や音楽演奏の経験がいかに取り込まれているのか?」といった問いを模索し、音楽の発展に寄与するような研究成果を生み出していけたらと思っています。
一方で、音楽研究ではない領域にこの研究がどのように活きるのかにも興味があります。近年、AIなどを中心に技術開発と芸術の距離が近づいていますが、日本国内にはこうした異分野の活動をつなぐネットワークがなかなか存在しません。こうした学際的な活動に関心のあるアーティスト、機関、企業、研究機関や芸術系大学などはありますが、それらは点として存在しているため、それぞれの活動の知見が十分に生かされていないように思います。そうした意味でも、幅広いジャンルの研究者と交流する場としてデサイロを活用しつつ、自分が音楽現場の実践者の声を異分野の人々に届ける役割を担っていければと思っています。
最後に「ライブ性」研究の展望と意義についても触れておきます。ライブストリーミングやメタバースなど、「ライブ性」という概念が人文・社会科学の領域で発展することで恩恵を受ける領域はいま既に広がっていると感じます。ここからさらに「ライブ性」概念の拡張を見据えるなら、例えばスポーツなどにもポテンシャルを秘めているはずです。身体と技術、そして創造性の関係性を「ライブ性」から明らかにすることで、音楽だけでなく、幅広い領域の発展に貢献できたら嬉しいですね。
Text by Ryoh Hasegawa, Interview & Edit by Tetsuhiro Ishida
注釈・参考文献
(注1)原題“The Media of Memory: The Seductive Menace of Records in Jazz History”(1995))。日本語訳は『ニュー・ジャズ・スタディーズ──ジャズ研究の新たな領域へ』(宮脇俊文+細川周平+マイク・モラスキー編著、アルテスパブリッシング、2010)に収録
(注2)なお、オースランダーは本の第二版を2008年、第三版を2022年に出版しており、そのたびに大きく内容を変えているので注意が必要です。彼によれば、この本自体が「ライブ」として時代を反映しているといいます。本記事の記述は、記載がない限り初版に基づきます。また、ライブ性という概念自体はオースランダーのオリジナルではなく、それ以前にも論じられています。オースランダーもさまざまな先行研究を引きながら論じているのですが、有名な本としてはSarah Thorntonの『Club Cultures: Music, Media and Subcultural Capital』 (1995)が挙げられます。こうした概念を本一冊の一貫したテーマとして徹底的に論じ、音楽学やパフォーマンス研究の主要概念として仕立て上げたのがオースランダーだとされています。
(注3)「録音」の存在によって「ライブ」の概念が生まれる過程について、オースランダーは、「メディアタイゼーション mediatization」という用語を用いて議論しています。『Liveness』の副題が「Performance in a Mediatized Culture」となっているようにこの概念はこの本の中心的なテーマになっています。「mediatization」をどう訳すかという点は非常に悩ましいのですが、大阪公立大学准教授の海老根剛氏は「メディア技術による媒介」と訳しています(https://www.korpus.org/archives/2014)。「録音」という語はrecordあるいはrecordingsの日本語訳ですが、そもそもrecordという単語自体が広い意味を持っていて、録音に限らず様々な方法で「記録すること」を指しています。彼は「メディア media」という語を使うことで、その射程をさらに広げています。そもそも録音に捉われないメディア技術を問題にしたことは『Liveness』の問題提起そのものと関わってきます。なぜなら、本書が論じているのは、次々と現れる様々な「複製」に関わる技術──つまり、ビデオや写真に加えて、ラジオやテレビなど通信に関わる技術、さらにライブ会場で使われるマイクなどの機材──が「ライブ」の体験や価値をどういう風に変えているかという問題だからです。
(注4)「メディアタイゼーション」はフレデリック・ジェイムソンから取られているのですが、この用語はメディア論の有名な概念、「リメディエーション remediation」(ボルター&グルーシン)を思い起こさせます。また、オースランダーも実際に引用しています。この概念は異なるメディアが相互に参照しあうような状況について論じるものなのですが、まさにロックに関する議論がこの概念の影響を受けていることが分かります。この点で、「ライブ性」は音楽学や演劇だけではなく、メディア論とも関係が深い概念であり、極めて学際的な性格を持っていると言えます。
(注5)このイメージには歴史的な経緯も関係しています。すなわち、音を奏でる機械は、劇場で働く人間の演奏家にとって脅威でした。なぜなら、そうした機械は人間の仕事を奪うからです。よく引用される話としては、アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザは1906年の「機械音楽の脅威」で、録音や自動演奏ピアノで奏でられる音楽を「缶詰音楽」と揶揄し、人間の「魂」のこもった演奏と対比しています。また、1950~60年代において英国の音楽家組合は劇場での演奏の仕事が録音物に置き換わることに反対する際に「Keep Music Live」をスローガンに掲げました。
(注6)オースランダー以降のライブ性研究では、しばしば「ライブ」と「録音」の区別の自明性が疑われているにも拘わらず、研究者たちはこの対比に頼ってきました。例えば、ライブ性に現象学(知覚を出発点に事象を分析する哲学的立場)的なアプローチをするポール・サンデンという研究者は『Liveness in Modern Music: Musicians, Technology, and the Perception of Performance』(2017)の中で、グールドの録音に注目して「録音物のライブ性」を主張します。その際に彼はグールドという人間の存在を音から感じられる部分に着目しています。つまり、「ライブ」と「録音」の区別が疑われたとしても、「ライブ性=生きた人間」という前提は未だに残っているのです。
(注7)杉本舞, 『「人工知能」前夜 ―コンピュータと脳は似ているか― 』青土社, 2018.
(注8)Matthew Yee-King, ‘Latent Spaces: A Creative Approach’, in The Language of Creative AI: Practices, Aesthetics and Structures, ed. Craig Vear and Fabrizio Poltronieri, Springer Series on Cultural Computing (Cham: Springer International Publishing, 2022), 137–54, https://doi.org/10.1007/978-3-031-10960-7_8.
(注9)ちなみに、この修論の成果の一部は芸大の紀要で「音楽とテクノロジー研究の再考:ジェイコブ・コリアー作品における技術的環境とライブ性の検討を通じて」として発表しました。文字数の関係で修士論文に含むことが出来なかった研究背景の部分では、従来の「音楽のデジタル化」に関する研究を批判しつつ、なぜライブ性研究が大事なのかということも説明しています。ライブ性研究に関心を持った方は是非読んでいただきたいと思います。
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