文系学問と「社会」の新しい接点──生産的相互作用やELSIから考える、研究評価の現在地|標葉隆馬
2015年にメディアを賑わせた「文系学部不要論争」に象徴されるように、日本社会における人文・社会科学は、昨今厳しい状況に置かれているといえるでしょう。
「何の役に立つのかわかりづらい」「評価指標が明確でないために社会的意義が示しづらい」──こうしたイメージを持たれるケースも少なくないのではないでしょうか。
一方で、いま改めて人文・社会科学の存在意義を示そうという動きも生まれています。
学術界に留まらず、産業界や行政、NPO、市民など多様なアクター間との「知識交換」ネットワークの拡大をポジティブに評価しようと試みる「生産的相互作用(Productive Interaction)」、先端科学技術をめぐる倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal, and Social Issues)を指す「ELSI」。
人文・社会科学の研究と「社会」との新たな接点を生み出しつつある、研究評価の現在地を、科学社会学を専門とする標葉隆馬さんに論じていただきました。
標葉隆馬(しねは・りゅうま)
大阪大学・社会技術共創研究センター・准教授。専門社会調査士。専門分野:科学社会学、科学技術社会論(STS)、科学技術政策論、科学計量学。特に、生命科学と社会、遺伝子組換えや幹細胞を巡る議論、科学技術に関するメディア言論動向分析、Public Engagement、科学技術イノベーション政策のための科学、東日本大震災を巡る構造的課題など。
1.人文・社会科学をめぐるエコシステムの変化──STI政策の視点から
先端的な知識の生成が鍵を握る現代において、その知識生産のためのより良いエコシステムの模索と構築は重要な関心事である。それは人文・社会科学の分野においても例外ではない。いま、人文・社会科学研究をめぐるエコシステムは変化しつつある。科学技術政策の視点から見るならば、1995年に制定された日本の「科学技術基本法」 では、その第1条において「この法律は、科学技術(人文科学のみに係るものを除く。以下同じ。)の振興に関する施策の基本となる事項を定め」とされていた。この除外に関わる文言は2021年に「科学技術・イノベーション基本法」(以降、STI法)に改定された際に削除され、国内で行われる学術活動全般がSTI法の対象になるという大きな変化が生じている(注1)。
現在、日本の科学技術・イノベーション政策は成長戦略の下位戦略として位置付けられる。そのため必然的にそこで使われる「イノベーション」という言葉の含意も経済競争力に関わるイノベーションに偏りやすい構造になっている。STI法では、イノベーションの創出は「科学的な発見又は発明、新商品又は新役務の開発その他の創造的活動を通じて新たな価値を生み出し、これを普及することにより、経済社会の大きな変化を創出すること」とされており、また付帯決議などでもイノベーション志向偏重ではなく基礎研究も重視すべしということも付議されているが、科学技術・イノベーション創出の方針として、研究開発の成果の実用化によるイノベーションの創出、国民への還元、社会的課題対応(少子高齢化、人口減少。国境を越えた社会経済活動、食料問題、エネルギー利用の制約、地球温暖化など)という要素が具体的なイメージとして付与されている 。このような中で、経済・社会的インパクトへの視点が必然的に強化されていくことになる。
このような大きな変化の中で、人文・社会科学分野をめぐるエコシステムも今後変わっていくことが予想される。例えば、2021年3月26日に閣議決定された『第6期科学技術・イノベーション基本計画』(以降、第6期STI基本計画)において、人文・社会科学分野の貢献への期待と評価をめぐる議論が登場している。前者については特に、人文・社会科学と自然科学の「知」を融合し、人間や社会の総合的理解と課題解決に資する「総合知」の創出への貢献が強調されている(ただし「総合知」の具体的な内容として想定されるものは依然として曖昧である)。そのため、今後の人文・社会科学分野へのファンディングにおいて、文理融合的かつ社会的・政策的課題を意識したプロジェクト型/プログラム型としての性格がますます強化されていくことが考えられる。また後者の評価をめぐる議論については人文社会科学分野ならびに「総合知」をめぐる指標を用いた評価の議論が現在進行形で行われている(そしてその評価の在り方や指標の捉え方が適切かは今後のモニタリングが必要不可欠である)(注2)。
そもそも科学技術政策は何を行うためのものなのか。科学技術政策研究で有名な小林信一は、政府が科学技術政策に取り組む目的を以下のように分類・整理している(小林 2012: 27-29)。
政府の援助が必要な科学技術活動の支援
公共的ニーズのための科学技術活動の推進
公共的観点からの科学技術活動に対する規制・統制・誘導
科学技術活動の悪影響からの国民の保護および科学技術活動への国民の参画
これらの実現のために、各国がそれぞれ独自の科学技術政策の体制やファンディングシステム(研究助成制度)を構築し、政策的ノウハウの蓄積を行っている現状がある。またここでは科学技術政策と言っているが、「先端的な知の創出」のための政策と言い換えていいだろう。実際に欧州委員会の政策などを見るならば、「包摂的アプローチ」という表現の下、基礎研究ではなく「先端的な研究」への投資という位置づけによる人文・社会科学分野への投資可能性の増大を模索する動きが登場して久しい(注3)。
このような潮流を捉えながら、より良い評価、そしてより良い研究エコシステムの構築が世界的に試行錯誤の中で模索され続けていることは強調に値するだろう。
2.研究評価をめぐる論点──生産的相互作用という視点
研究評価をめぐっては、これまでにもさまざまな議論の蓄積がある。紙幅の関係もあるため、研究評価をめぐる議論の詳細に立ち入ることはしないが、例えば基本的な視座として、研究評価の対象には「個別研究」・「プロジェクト」・「プログラム」など階層に応じた評価が求められること、また事前・中間・事後・追跡など時間軸によっても評価の在り方は異なることなどは把握しておく必要がある。その上で特に日本の研究評価においては以下のような課題が指摘されている(注4)。
非効果的・過剰な評価の負担(評価疲れ)からの脱却
プロジェクトレベル、プログラムレベルの評価の重要性増大と実質化
資金配分機関などの責任明確化と評価の実質化
「評価の評価」(メタ評価)の脆弱性
また国際的にも様々な議論の蓄積がある。特に有名なところでは、研究評価に関するサンフランシスコ宣言 (San Francisco Declaration on Research Assessment: DORA)(注5)やライデン声明(The Leiden Manifesto)(注6)などがあげられる。国際的な議論では、インパクト・ファクターや被引用数などの数量指標の扱いに関する誤解と誤用を戒め、また分野ごとに異なる研究の文化と慣行があることを十分に踏まえた適切な評価の重要性を説くものが多い。少なくとも、論文数や、引用数、h-indexや競争的資金獲得額といった量的指標を数えてランキングすれば良いというような表面的なものは想定されていない(注7)。
このような議論はもちろん人文・社会科学にも適用される。筆者自身は、人文・社会科学分野の研究評価を考える上で、自然科学分野との違いを強調する形でその議論自体を避ける態度に対しては批判的な立場である。しかしながら人文・社会科学の研究評価に特有の課題に関する議論の蓄積を無視することは全く支持しない。このような前提の下、これまでに行われてきた人文・社会科学分野を巡る科学技術政策や研究評価の議論をまとめるならば、少なくとも以下のような論点に注意が必要であると指摘できる(注8)。
科学技術への投資だけに留まらず、人文・社会科学へのファンディングも包含した、「先端的な知」あるいは「先端的な研究」への投資が目指されている(包摂的アプローチ)
分野によって研究目的や生産物が異なり、分野間における成果発表の仕方と重み付け、業績体系、引用の文化・慣行の多様性があることを理解する
対象読者と出版言語の多様性の問題を理解する
各種データベース(Web of ScienceやSCOPUSなど)の人文・社会科学諸分野の書誌情報に関するカバー率・範囲の脆弱性(注9)
研究パフォーマンスの可視化と多様性を支援するような評価が摸索されている
そして、研究評価の対象は、論文や特許などの直接的なアウトプットあるいはアウトカムだけでなく、社会・経済・文化などに対する中長期的かつ多面的な影響(インパクト)(注10)までも含むものへと拡大している。紙幅の関係から、このインパクトを巡る議論の詳細に立ち入ることはここではしないが(注11)、その議論の要諦の一つには、研究活動や学術的知見が持つ多様なインパクトを洞察することを通じて、それぞれの研究や学術分野の社会における役割と位置づけの再考と、その将来ビジョンや目的の共有が促されることにある(注12)。
3.「生産的相互作用」という視点
さらには、このインパクトを研究活動自体の質的な変化として捉えようとする取組も試行されている。最近注目されている事例の一つは、オランダにおけるSocial Impact Assessment Methods for research and funding instruments through the study of Productive Interactions between science and society(SIAMPI)(注13)の試みである。SIAMPIでは、ヘルスケア、ICT、ナノサイエンス、人文・社会科学の4分野を事例として研究プログラムの実施期間中に生まれたネットワークを分析しつつ、研究者間あるいは研究者と社会的アクター間の相互作用・コミュニケーション・共同を「生産的な相互作用(productive interaction)」(注14)として捉えて評価していくことが提唱されている(e.g. 標葉 2017b, 日本学術会議 2021)。
「生産的な相互作用」の内容としては、①直接的相互作用(Direct interactions:個人的なつながり)、②間接的相互作用(Indirect interactions:文書やマテリアル、モデルやフィルムなどのやり取り)、③経済的相互作用(Financial interactions:研究契約、経済的貢献、研究プログラムへの寄付などの経済的関与・参加)の3区分がまず想定されている。
この「生産的な相互作用」の評価とは、学術界に留まらない、産業界、行政、NPO、市民などの多様なアクター間の「知識交換」ネットワークを積極的に評価する試みとして捉えられる。言い換えるならば、新しい「知識交換」のネットワークの拡大そのものを中期的なインパクト(あるいは知識生産にいたる中間生成物)として位置づけて評価することによって、評価の対象が研究そのものから相互作用のプロセスにシフトすること、関与するステークホルダーの数の増大、「知識交換」のプロセスが研究者のモチベーションを効果的に高める効果があること、評価者の側もまた挑戦すべきより大きなテーマに向き合う効果、更には「ネットワークの失敗」(Fred and Matthew 2009, p.459)による知識生産やインパクト創出をめぐる機会損失の減少を期待することができる。
この評価枠組みを素朴に履行するならば、様々なアクターとのつながりの模索とその基盤構築の営みをより積極的に評価するべきであり、学術が社会の中で果たしてきた多様な役割、例えば各種のデータベースの維持、史料の収集・修復・保全、社会的な運動への貢献なども研究上の評価において考慮すべきということになる。
この視点に立った上で、一つ面白い事例を紹介しておきたい。東日本大震災の後の民俗学、文化人類学、歴史学などの分野の活動である(注15)。東日本大震災の後、被災した歴史資料の回収・修復・保存、あるいは無形文化財に関わる調査記録の共有や保護活動、またこれらの復旧プロセスの記録などがこれらの分野の研究者では積極的に行われてきた。これらの学術活動は、地域の住民や行政との密接な関わり合いの中で行われるものであり、また資料や文化財を通じて人のつながりを支援するものでもある(注16)。
しかしながら、これらの活動のすべてが必ずしも論文となるわけでもない。また恐れずに言うのであれば、これらの活動の最大の成果もまた「論文化」にあるでもない。むしろ文化財の修復や保護という活動の成果そのもの、そしてその活動を通じた新しい人と組織のネットワークの構築 ―ここにはこれまで以上の大学と地域のこれまでになかった/これまで以上のつながりの構築も含まれる-こそが最大の成果であると言える。そのため論文刊行数などの評価視点では中々評価されにくいが、「生産的相互作用」の観点から考えた場合、より積極的な評価がされるべき重要な学術活動がそこには多数存在している好例と言える(そして繰り返しになるが、このような活動は、論文数や被引用数を想定した評価指標では評価しづらい)。
そして実際のところ、このような事柄は人文・社会科学分野に限らず、自然科学分野を含めた様々な分野に見られることでもある(注17)。
4.ELSI/RRIという新しい取り組みの事例から
新しいつながりと協働が必要の不可欠の分野やテーマでは、生産的相互作用の視点が自然と重要となる。とりわけ現在、第6期STI基本計画や統合イノベーション戦略2023などにも見られるように、先端科学技術をめぐる倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal, and Social Issues: ELSI)への対応は科学技術政策的にも注目されている事柄である。
先端的な科学技術の発展は、我々の多くのベネフィットや新しい可能性をもたらすものであると同時に、図らずもこれまでには見えていなかったELSIへの対応を要請するものでもある。また科学技術が人による社会活動の一種であるがため、研究開発の営みとその成果の活用は、時々の社会的・政治的・経済的状況による様々な影響を陰に陽に受けることになる。生み出されてきた先端的な知識は、そのままで社会の中に実装・活用されていくわけではない。そのため先端的な知識生産とその活用をめぐるより良いイノベーション・エコシステムの在り方を模索するためには、新しい知識がもつ潜在的かつ幅広いインパクトの予見と考慮、研究活動をとりまく多様な「問題の枠組み(フレーミング)」と価値観の把握と包摂、そして多様なアクターの積極的な参加を踏まえた意思決定プロセスの構築といった課題に応える議論と仕組みづくりが課題となっている。このような取り組みは近年では「責任ある研究・イノベーション(Responsible Research and Innovation: RRI)」という枠組みの下で議論されている(注18)。
そのため、このようなELSIやRRIへの取り組みは必然的に分野を超えた協働が不可欠となり、一つの分野の中で閉じることは決してない。分野を超えた協働による研究・実践・対話が必要不可決である。そして、このような挑戦的な試みが日本でも実際に行われるようになっている。
分子ロボティクス分野の事例
ここでは特に先端分野の研究開発の現場に近いところで行われた議論や実践事例の中で、筆者が関わるプロジェクトを事例として紹介することにしたい。ここで紹介する例は、「分子ロボティクス」分野で進みつつあるRRIの実践事例である。分子ロボティクス分野は、ロボットを「『外部環境から情報を獲得し、コンピュータ(情報処理回路)によりその情報を処理し、その結果に応じて環境に対して働きかけるアクチュエータ』からなるシステム」と定義しながら、DNAやRNAなどの生体部品を素材として構成していく先端領域である(注19)。分子ロボティクス分野では、2010年代に入り大規模な研究プログラムがスタートしている。そのような中で、実際に科学研究を行う研究者の中で、分子ロボティクスが持つ応用可能性とその潜在的なELSIへの関心が生じ、2016年に分子ロボット倫理プロジェクトがスタートしている(注20)。
筆者の研究グループは、この分子ロボティクス分野におけるELSI議論が始まる当初から、分子ロボティクス分野の研究者らと協働する機会を得た。分子ロボティクス分野が持つ幅広いインパクト-これは正負両面がありうる-を洞察し、そこに潜むELSIを検討するプロジェクトを行っている(注21)。過去の事例(遺伝子組換え、ナノテクノロジー、AIなど)から得られたELSIに関する知見を参照点としつつ、実際に研究開発を行う科学者コミュニティとの対話を繰り返し行いながら、将来シナリオの形成を行う。そこで得られた視点を参照点としながら、関係者と協議をしながら実際に倫理原則(注22)やアジェンダを共創していく、そのようなプロジェクトである(注23)。
その過程で得られた示唆は多岐にわたる。研究が進展したときの国内外の規制のあり方に対する潜在的なインパクトの想像はもちろん、「自己増殖機能」が持つ可能性とそのELSI、研究者の自治に関わる課題などが積極的に議論された(注24)。そしてその過程で、「誰と、何を対話することが必要であるか」という論点も繰り返し登場した。その議論は潜在的なステークホルダーを模索し、また言語化する過程であり、今後の「生産的相互作用」の増大に向けた議論であったとも言い換えることも可能である。その中で、例えば農業・環境分野での応用も想定が始まっていたこともあり、農業関係者らとの繰り返しの対話の試み(注25)、また日本科学未来館での自主的な科学コミュニケーション実践などの自主的な活動へとつながっていった。
ここでお気づきの通り、このような新しいコミュニケーションの取り組みの中でこれまでになかった繋がりが数多く形成されている。ひとつは、分子ロボット研究コミュニティと倫理学や社会学の研究者の密接な協働という新しい展開である。人文・社会科学の側だけをみても、これほどまでに長期間かつ高強度に人文社会科学分野と自然科学分野が協働と対話を繰り返し、RRI実践を創り上げていく事例は世界的に見ても稀有である。
また分子ロボット研究コミュニティの側においても、この過程で農業関係者、科学コミュニケーター(注26)、ジャーナリスト、政策担当者、そして一般の方々との新しい対話と実践の繋がりを見出し、継続的な活動が試みられている。生産的相互作用の視点からは、このような繋がり自体を模索する営みのプロセス自体が、このコミュニティが得た大きな成果として評価されるべき事柄であるが、近年ではより幅広い関係者の巻き込みなどの課題も認識されながら、分子ロボティクス研究者コミュニティ自身によるRRI実践活動の持続的な取り組みとしての努力が日々行われている。
mercari R4Dの事例
前節ではパブリックセクター、特に人文・社会科学分野と自然科学系分野の協働事例を紹介した。このような試みは既に民間セクターにおける知識生産活動でも試みられつつある。社会の中で行われる知識生産の多くは、実際として民間セクターにおいて行われている。しかしながら、そのような民間セクターにおける知識生産もまたELSIやRRIに関わる課題を持つものは多い。とりわけAI技術の利用や、更に新しい技術開発を目指す際にはそれらが持つ潜在的なインパクトを洞察し、様々なフレーミングを可視化しておくことがより良いイノベーション・エコシステムの形成において必要不可欠となる(注27)。
言い換えるならば、より良いイノベーションの創出のためには、「知識生産」、「ガバナンス」、「価値(観)の提案/将来社会のビジョン」の3つの要素がそろうことが必要不可欠となる。そしてこのような問題意識は既に民間セクターの知識生産においても次第に認識されつつある。
そこで、筆者も関わる民間セクターにおけるRRI実践の事例について、公開されている情報の範囲でエッセンンスを紹介しておくことにしたい。この実践的研究は、大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター)とmercari R4Dの間の共同研究として行われているものである(注28)。その中では研究開発倫理指針の構築(注29)をはじめ、AI技術や量子技術に関わる潜在的なインパクトやELSI/RRIに関わる問題の探索的な分析と可視化、関連技術をめぐる幅広い対話の取り組みなどが行われている(注30)。詳細なデータや現在地は参考文献と今後公開されていく資料を見ていただきたいが、ここで強調すべき事柄は、この民間セクターにおける知識生産をめぐるELSI/RRI研究と実践が、少なからず新しい「繋がり」を模索する活動であり、「生産的相互作用」の点から見ても興味深い事例であるということである(注31)。
第一に、これまでにあまり事例のなかった「民間企業」と「人文・社会科学」の緊密なコミュニケーションに基づく研究・実践事例である点。むろんこれまでにも人文・社会科学分野研究者と民間企業の共同研究事例はある。しかし、(例えば経済学や経営学ではない)倫理学・哲学・文化人類学などを中心とした分野が、複数年にわたる組織間の共同研究を行い、当該分野のとくに若手研究者が普段の研究生活においては中々出会うことのなかったアクターとの交流を頻繁に行っている点が一つ特徴的である。
第二は、民間企業にとってもこれまでにあまり見えていなかったであろう倫理学・哲学・文化人類学といった分野の研究者と出会い、そして協働する機会になっている点である。そして現在行われている共同で既に見え始めていることの一つは、その実、伝統的な学術活動が少しの工夫によって先端的な知識生産の現場に直接的に知見をフィードバックすることができる可能性が十分にあるということ、またそのための工夫のノウハウ自体がこの新しい繋がりの中で生み出されつつあるということにある。
第三に、新しい繋がりが構築と発展的展開がそのまま新規な研究テーマの探索と可視化につながっている点である。そこで行われるコミュニケーションを通じて、ELSI/RRI研究に関わる若手の人文・社会科学分野研究者にとっても自らの研究のあり方や、話法、問題意識の持ち方、そして自分の出身分野において培った知の活用の幅の広がりを再考する機会を得ている。
このような機会は今後ますます増えていくことが予想される。もちろん、これらの活動においては「論文」や「指針」といったドキュメントの作成といった可視化されやすい成果物も得られる。しかし、そのきっかけはやはり「新しい繋がり」であり、またそこで培われたネットワークを通じた潜在的な研究テーマの拡大と可視化こそがまずもって大きな成果であることは強調しすぎることはないだろう。
4.おわりに
現在の研究評価の在り方は、残念ながら学術が持つ広範な活動をより適切に評価できる形にはなっていない。これは人文社会科学分野に限らない課題であり(注32)、より良い研究評価の在り方が世界的に模索されている。
このような試行錯誤の中で出てきた視点の一つが「生産的相互作用」というアクターの繋がりに注目した視点であり、学術がもつ多様なインパクトのプロセスをより広くとらえて評価しようとする試みである。この視点から評価を考えるとき、今までに見落とされていた学術活動の貢献や、新しい挑戦的な協働研究の萌芽をより積極的に見ていくことができるように期待される。
このような生産的相互作用の視点は、現在科学技術政策の中で強調されるような、分野越境型の研究プロジェクトの構築や、「総合知」をめぐる議論においても重要と考えられる。近年期待が高まるELSI分野の研究もこういった挑戦的なプロジェクトの一ジャンルと捉えられるが、いままでにない新しい繋がり、インテンシブな協働に基づく知見と経験の獲得が日本の中でも行われつつある。だからこそ、そのような挑戦的な研究・実践のより良い評価の在り方の積極的な議論と発信が求められる。
前節で紹介した事例を見て頂ければわかるように、先端的な知識が持つ未知の、あるいは言語化されていない幅広いインパクトを表現し、多様な価値観からの視点を可視化し、そして新たな規範を形成していくことが、科学技術の研究開発の進展に合わせてリアルタイムで行われている。これらの活動で日々行われる研究・分析は、その実、人文・社会科学の中では日常的に行われてきたオーソドックスなものも多い。そのような視点や手法を組み合わせながら、「新しい知が生まれる」場所に積極的に分け入っていくことが、より新しい知識を生み出す次なる実践になるのではないだろうか。
注・参考文献
(注1)科学技術政策の展開や評価をめぐる議論については、標葉隆馬(2020)『責任ある科学技術ガバナンス概論』ナカニシヤ出版、あるいは日本学術会議(2021)『提言 学術の振興に寄与する研究評価を目指して~望ましい研究評価に向けた課題と展望~』https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-25-t312-1.pdfなどを参照されたい。
(注2)STI基本計画では2022年度中に指標の検討し、2023年度中には指標によるモニタリングを開始するとされ(p.43)、2023年6月9日に閣議決定された『統合イノベーション戦略 2023』でも種々の言及が見られる。
第6期科学技術基本計画 https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/6honbun.pdf
統合イノベーション戦略 2023 https://www8.cao.go.jp/cstp/tougosenryaku/togo2023_honbun.pdf
(注3)opt.cit (1): 標葉 (2020). Enserink, M. (2011) “Keeping Europe’s basic research agency on track.” Science, 331(6021), pp.1134–1135. Nowotony, Helga. (2009) Frontier research in the social sciences and humanities: What does it mean, what can it mean?(http://www.helga-nowotny.eu/downloads/helga_nowotny_b1.pdf 最終アクセス2023年7月8日)
(注4)opt.cit (1): 標葉 (2020)
(注5)https://sfdora.org/read/read-the-declaration-japanese/
(注6)ライデン声明に関して日本語で読めるコンテンツとしては下記のものがある。小野寺夏生, 伊神正貴 (2016) 「研究計量に関するライデン声明について」STI Horizon, 2(4): 35-39. http://doi.org/10.15108/stih.00050
(注7)科学計量学(Scientometorics)や計量書誌学(Bibliometrics)、また科学技術政策分野の専門家であれば、この程度の事柄は大前提として議論している。
(注8)これらの論点について、Webで公開されているものとして下記の文献が参考になる。
標葉隆馬(2017a)「人文・社会科学を巡る研究評価の現在と課題」『年報科学・技術・社会』26: 1-39. https://doi.org/10.32189/jjsts.26.0_1
林隆之, 藤光智香, 秦佑輔, 中渡瀬秀一, 安藤二香.「研究成果指標における多様性と標準化の両立 - 人文・社会科学に焦点をおいて」SciREX Working Paper.
(注9)Web of ScienceやSCOPUSなどにおける人文・社会科学分野データの問題は依然として解決されていない。そのため、人文・社会科学分野により適したデータベースの構築あるいは今後のデータベース収録誌の拡大などの努力も各国でなされている。opt.cit (7)
(注10) 例えばイギリスの研究評価枠組みであるResearch Excellence Framework (REF)では、インパクトを「学術を超えて、経済、社会、文化、公共政策・サービス、健康、生活の環境と質に関する変化あるいはベネフィットをもたらす効果」と学術が持つ広範な知見・影響を含むような表現が採用されている。
(注11)紙幅の関係もあり、英米等におけるインパクトをめぐる議論の歴史的経緯の詳細に立ち入ることは本稿ではしない。近年における「インパクト」への注目については、下記を参照されたい。opt.cit (1): 標葉 (2020)あるいはWebで公開資料として読めるものとしては下記がある。
標葉隆馬(2017b)「「インパクト」を評価する-科学技術政策・研究評価」国立国会図書館調査及び立法考査局『冷戦後の科学技術政策の変容(科学技術に関する調査プロジェクト報告書 2016)』: 39-53. http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10314914_po_20170305.pdf?contentNo=1
(注12)このようなインパクトを巡る議論において大きなリスク要因の一つに、インパクト理解の狭さがある。そしてここでは、研究者コミュニティ側のインパクト理解の狭さが指摘されている。日本語で読める資料としては opt.cit (1): 標葉 (2020)。
(注13)オランダのEvaluating Research in Context(ERiC)プロジェクトの一環として実施。
(注14)Spaapen and van Drooge (2011)は、オランダヘルスサービス研究所が、政府、行政、医療機関、専門家、患者団体、消費社団体、健康保険会社、市民との相互作用を維持しつつ研究開発を進めていったことなどの事例が注目されている。知識交換に注目した分析や評価の模索は他でも行われている。Spaapen Jack, van Drooge Leonie. (2011) “Introducing ‘productive interactions’ in social impact assessment.” Research Evaluation, 20(3): 211-218.
(注15)高倉浩紀・滝澤克彦(編)『無形文化財が被災するということ-東日本大震災と宮城県沿岸部地域社会の民俗誌』新泉社2014.
標葉隆馬(編)『災禍をめぐる「記憶」と「語り」』ナカニシヤ出版2021.
(注16)例えば、東北大学災害科学国際研究所における歴史資料修復など。むろんこれらの活動は東日本大震災以前から継続的に行われてきたものも多く、そのような経験と関係の基盤があることがその後の活動の展開の下地になっていることも無視できない。佐藤大輔(2021)「私記・宮城での歴史資料保全活動の二〇年」in opt.cit (15) 標葉(2021).
(注17)例えば各種のデータベースの構築・運営・管理の営み、図書館における書籍・資料の集積、博物館や科学館における展示や知見・ストーリー解釈の普及なども、「生産的相互作用」を促すものとしての評価されることになる 。データベースに注目するならば、資料やデータを集積し、保守・維持すること自体が、新しい研究を可能にすると共に(潜在的な新規研究の可能性を増大させる)、様々な人・モノ・情報をつなぐ媒介となり、新しいネットワークの形成・拡大を促す効果を持つ。
(注18)opt.cit (1): 標葉 (2020)
(注19)村田智(編)(2019)『分子ロボティクス概論 ~分子のデザインでシステムをつくる』CBI学会出版 https://cbi-society.org/home/documents/eBook/ebook3_MolRobo_color.pdf
(注20)科学技術振興機構社会技術研究センター(JST-RISTEX)「人と情報のエコシステム(HITE)」領域のファンドによる「分子ロボット技術に対する法律・倫理・経済・教育からの接近法に関する調査」(代表:小長谷明彦)として始動した。
(注21)筆者の研究グループでは、再生医療、フードテック、脳神経科学、合成生物学、分子ロボティクスなどの領域をフィールドとして、潜在的なELSIの抽出・可視化を行い、幅広い関係者とその議題を対話する場の創出を行うプロジェクトを実施している。そこでは、対象領域に合わせて、国内外の関連知見の文献調査、マスメディア分析、質問紙調査、個別インタビュー、フォーカス・グループ・インタビュー、シナリオ・ワークショップ、ホライズン・スキャニングなどを用いて議題の可視化を行った上で、実際の対話の場のデザインと実施までを一気通貫で行っている。またその過程自体を、文化人類学を専門とするメンバーが観察している。
(注22)倫理綱領のドラフティングにおいては、生命倫理を専門とする河原直人(九州大学ARO次世代医療センター特任講師)が中心的な役割を担った。https://molecular-robot-ethics.org/jp/wp-content/uploads/1424033dd58f3a4e6188e4e079ac0b70.pdf
(注23)一部の成果は既に論文として公開されている。Ken Komiya, Ryuma Shineha, Naoto Kawahara. (2022) “Practice of Responsible Research and Innovation in the Formulation and Revision of Ethical Principles of Molecular Robotics in Japan.” SN Applied Sciences, 4: 305-314. https://doi.org/10.1007/s42452-022-05164-z
またその概要は下記のプレスリリースを参照されたい。
https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20221021/
(注24)opt.cit(22): Komiya et al. (2022)
(注25)小長谷明彦, 小宮健, 河原直人, 河村賢, 標葉隆馬, 瀧ノ上正浩, 武田浩平, 森下翔, 山村雅幸, 吉田省子. (2022)『分子ロボットをめぐる対話要点集 2020年度版』CBI学会出版.
https://cbi-society.org/home/documents/eBook/ebook4_MolRobo2020.pdf
森下翔, 河村賢, 標葉隆馬, 小長谷明彦, 小宮健. (2022)「「分子ロボットをめぐる市民対話」に基づく「ELSI論点モデル」の構築」ELSI NOTE, 17. https://doi.org/10.18910/87647
(注26)特に日本科学未来館の科学コミュニケーターの協力と協働は、分子ロボット研究コミュニティにとっても重要な経験であった。
(注27)海外においてもより早い段階から、民間セクターも交えた早期からのELSI/RRIに関わる議論と指針の構築が行われている。例えばOECDにおけるニューロテクノロジーの提言Recommendation of the Council on Responsible Innovation in Neurotechnologyでは、その作成過程から脳神経科学分野の研究者のみならず、ELSI/RRIに関わる人文・社会科学分野の研究者、政策担当者、スタートアップ企業関係者など多種多様なアクターに依る議論が行われている。そこでは、新規な科学技術や知識生産のあり方、それを活用する社会の在り方やそのために必要な社会的視座、そして積極的な価値(観)の提案までが論じられており、そのためのより良い科学技術ガバナンスはどのようなものかをめぐる議論が試みられている。またそこで構築されたネットワークがその後の関連する議論に大きな影響を陰に陽に与えていることは想像に難くない。
(注28)https://about.mercari.com/press/news/articles/20201218_elsi/
鹿野祐介, 肥後楽, 小林茉莉子, 井上眞梨, 永山翔太, 長門裕介, 森下翔, 鈴木径一郎, 多湖真琴, 標葉隆馬, 岸本充生. (2022)「ELSIおよびRRIをめぐる実践的研究-CtoCマーケットプレイス事業者とELSI研究者の連携による知識生産」『研究 技術 計画』37(3): 279-295.
(注29)https://about.mercari.com/press/news/articles/20210630_elsi/
(注30) 岸本充生, 長門祐介. 『量子技術のELSI(倫理的・法的・社会的課題)に関する文献紹介:2021~2022年を中心に』ELSI Note, 24. https://doi.org/10.18910/89731
肥後楽, 長門祐介, 森下翔『大学生を対象とした量子技術に関する印象の聞き取り調査』ELSI Note, 18. https://doi.org/10.18910/88439
(注31)一つの参考として2023年4月に発行された『フィルカル』にELSI/RRI研究・実践に参加する若手研究者の声が掲載されている。併せて参考にされたい。『フィルカル』8(1), 2023.
(注32)近年、国内でも生命科学分野の学会を中心にDORAへの署名がすこしずつ進みつつあるが、このような動きもまた現行の評価制度の歪みや課題を示す一つの象徴的な出来事でもある。
https://seikaren.org/news/2117.html
https://www.mbsj.jp/about-mbsj/dora.html
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