「レモン」のイメージは人の数だけある。言語による「名付け」の枠をこえて──和田夏実「生きているという実感」を巡って
「ときめきを覚え、無我夢中になり、それに向かって走っていきたくなる衝動」を感じる瞬間、すなわち、いきいき(LIVELY)とした状態は、いかにして生まれうるのか──。
デサイロで「『生きているという実感』が灯る瞬間の探求」をテーマに研究を進めているのが、メディア研究者・和田夏実さん。連載「『生きているという実感』を巡って」では、和田さんが研究を進めていく中での思索の軌跡が綴られます。
参考記事:一人ひとりの「生きているという実感」を見つけ出すために──メディア研究者・和田夏実
初回ではろう者の両親のもとで手話を第一言語として育った背景まで遡りながら、頭の中にある言語以前の映像的・触覚的なイメージ、すなわち「内言」に着目する理由について書いていただきました。なぜ和田さんは、内言を通して「『生きているという実感』が灯る瞬間の探求」に取り組むのでしょうか?
和田夏実(わだ・なつみ)
インタープリター ろう者の両親のもとで手話を第一言語として育ち、視覚身体言語の研究、様々な身体性の人たちとの協働から感覚がもつメディアの可能性について模索している。LOUD AIRと共同で感覚を探るカードゲーム《Qualia》や、たばたはやと+magnetとして触手話をもとにした繋がるゲーム《LINKAGE》など、言葉と感覚の翻訳方法を探るゲームやプロジェクトを展開。東京大学大学院 先端表現情報学 博士課程在籍。同大学 総合文化研究科 研究員。2016年手話通訳士取得。《an image of…》《visual creole》 "traNslatioNs - Understanding Misunderstanding", 21_21 DESIGN SIGHT, 2020
『生きているという実感』が灯る瞬間の探求、序論に変えて。
──緑ってどう表すんだろう、こうかな、いや、こうじゃない?
この週末、私はとある脱出ゲームのサポートスタッフとして、ゲームの進行やサポート、翻訳に奔走していた。こう、の中に入るものを音声書記言語で表すのは難しい。どうにか書き尽くそうとするならば、このようになるだろうか。こう(両手をパーの形にひらき、上下させる)と、こう(グーの手を手のひらを上に向けながらとじたりひらいたりを繰り返す)。
私は手話という言語を第一言語として育った。第一言語の定義は様々にあるが、ここでは一番最初に触れた言語とする。両親が手話話者であった私は、この世界の様々なものを手でなぞるようにして表し、その人の記憶の中の映像が手と顔、上体の動きによってありありとその場に映し出されていく、視覚と身体による言語を世界とつながるはじまりの言語として獲得し、そしてその後、主に家の外での体験、学校や街中の話し声などから、そのもの一つ一つに音でのラベルをつけていく音声書記言語である日本語を覚えていった。音の言語と視覚の言語では、その成り立ちや形成プロセス、思考方法やメディア表現、コミュニケーションにおけるリズム、合意形成のあり方など、そのどれもが全く異なっている。
今、こうして文章を読んでいるあなたの頭の中には、おそらくここまでの文章がそれぞれの単語ごとに、すなわち/このように/単語/の/区切り/が/ある形で、それぞれの単語がひとまとまりの意味を成し、あるひとの頭の中ではそれが音として再現されたであろう。あなた自身の(もしくは誰かの)声で。音声言語は、音の最小単位としての音素を中心に組成され、国や地域などでのそれぞれの音の最小構成を組み合わせることで、ものの名前となる名詞や動きの言葉である動詞、形容詞があり、それが意味として組み立てられるべく文法がある。
頭の中にゴッホのひまわりの絵を浮かべてみよう。
あなたの頭の中に浮かんだひまわりをこれから4つの方法で形にしていってみてほしい。
1)紙に描く。2)言葉で説明する。3)手でなぞるように表す。4)新しく名前をつける。
そのそれぞれの過程で、あなたの頭の中にあったゴッホのひまわりはどのように変化していっただろうか。もし時間があったら、お花屋さんで「ゴッホのひまわり」(もしくはビンセント)と伝え、そのひまわり自体に触れてみてほしい。(余談になるが、ひまわりの種類はビンセントやモネなど画家の名前から名付けられたものが多い。)植物を触れて観察する「触察」からは思いがけないトゲや葉っぱの形、花びらの生え方など、視覚とはまた異なる豊かな情報に圧倒されることだろう。
頭の中に何かが浮かんだとき自分自身に向けられた思考の際に用いられるものたち、頭の中での言語のことを内言という。この内言というものは、あなた自身の経験から照射され、どの体験や記憶やはっきりと浮かぶかによってその想起に関わる感覚モダリティ(視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚といった感覚)はそれぞれに異なっている。レモン、ときいてレモンの写真が浮かぶ人も、檸檬の文庫本が浮かぶ人も、香りが想起される人も、手に収まるあの皮の感覚が浮かぶ人もいることだろう。そこには他者と決して完全には一致し得ない多層的な「レモン」が想起した人の数だけある。私は、この内言の世界の探求を、時に通訳として、時に研究者として、時に遊び手として、紙や粘土、棒、音や身体など様々なメディアを介して行っている。
冒頭に戻ると、脱出ゲームというものは、制限時間内に次々と用意される謎に答えていき、最後まで解くことを目指して試行錯誤するエンターテイメントである。私が手伝っていた異言語脱出ゲームは、この解くことにプラスして伝えあうことの試行錯誤をキャストや参加者たちと互いに行うことで謎が解ける仕組みになっている。制限時間内で、伝えあうことの試行錯誤を繰り返しながら、わかった、という体験を繰り返しゴールに到達する。その空間に巻き起こる熱、伝えあいの試行錯誤、わかるという体験を繰り返し、その世界のルールや理を自らの中に取り入れていくこと。私はこれこそが、このDe-Siloで研究テーマとしている「「生きているという実感」が灯る瞬間の探求」と接続するのではないか、と感じている。少し遠回りになるが、このことについて、世界認識について考えることを起点に、ともに考えてみたい。
ヤーコプ・フォン・ユクスキュル[1864-1944]の提唱した「環世界」は、この地球上の全ての生き物が同じ時間と同じ空間を知覚し生きているとする考え方に対して、その前提を疑い、すべての生物は、別々の時間と空間を生きている、とした。ノミや犬、ウサギや魚、生き物たちはそれぞれにそれぞれの知覚のもとでそれぞれの世界を生きていて、酢酸と温度に反応して生き物の皮膚に吸い付くノミには、動物たちがやってきた、という視覚的な理解に反応しているのではなく、酢酸と温度に対して反応するという知覚行為に反応しているのだという。この環世界を引用すると、視覚からなる知覚世界と聴覚と視覚からなる知覚世界では、それぞれに異なる世界認識があると考えられる。例えば我が家では、誰かを呼ぶときに声で呼ぶ文化はなく、床を叩き、その振動で気づいてもらうという方法を取る。それはあくまでも代替手段なのではなく、それぞれの世界に構築されていく世界認識からなるルールが存在しているということであり、異なる感覚世界で通訳を行う中では、それぞれの世界の「存在」そのものから問い直すことが必要となる。
2018年に出会って以降、一緒に触覚のデザインについて探求している触覚デザイナーの田畑はやとさんは、先天性の盲ろう者であり、コミュニケーション方法に接近手話・触手話・指点字・筆談などを用いる。彼女の連載記事の中に、一番最初の記憶に関する記述がある。
最初にある記憶は1歳のとき。私は風で遊んでいました。マンションは高台にあり、日当たりが良く、風が部屋を吹き抜けて行きました。風にたなびくカーテンを触って遊んでいたと、母から聞いています。
自分の足で自転車をこぎ、風を感じることが好きでした。ゆっくりこいだり、速くこいだり、風を顔や身体で感じることが気持ちよかったです。季節によって涼しかったり暑かったり、風の変化で四季を感じ取っていました。
田畑さんの世界の中にやってきた「風」、それがカーテン、自転車によって様々に形を変え、田畑さん自身と接続する様子がみられる。もうひとつ、言語に関する記述についても引用したい。
初めて海に行ったとき私はとても怖かったです。「海」という言葉を知らず、それが何かも知りません。突然、足に温かい柔らかい感触のものが触れ、歩きにくくなり、次第にお風呂でもないのに生ぬるい水が触れ、これが何か分からず、どうなるのか想像できず、私はずっと泣いていました。
私は触覚から得ていった情報全体を「海」なのだと理解しました。その後に、身体で感じた「海」と波を手の形で表す「海」の手話が結びつきました。そして、手話の「海」が、日本語の「海」につながりました。
田畑さんの記憶や体験が言語と結びつき、それが彼女の中で扱えるものになっていく様子がみてとれる。彼女と私はいつも触手話という手を重ね、手話を行うことでその手の動きをもとに伝えあうコミュニケーション方法で話をするが、触手話はそれぞれの身体に起こった様々な出来事の動きを再生することで、伝えあう体性感覚的な言語だと感じる。世界は常に私たちの周りにあるようでいて、私たちの中にある。ものを持つ感覚、コップを口に運ぶ動き、ものを描くこと、何気ない仕草のすべてが身体の中の記憶として存在していて、それを手で再生するだけで「わかる」ことは、私たちの身体にまだひらかれていない知覚や感覚が、まだまだあることを予感させる。
そして、言語の獲得やコミュニケーション方法の開拓、もしくは自転車に乗る行為、そのそれぞれにみられる「世界を自ずから形成すること」こそが、本研究の鍵になるのではないかと考えている。世界を自ずから、形成すること。それは、すでにある世界をその形のままに受け取り、そこに自分をあわせていくのではなく、自分自身が意思をもち、主体的に世界を認識して構築すること、主体的に動き、触れた経験からあなた自身を構築していくことを指す。
私がこの「「生きているという実感」が灯る瞬間の探求」をテーマとして設定した理由には、いくつかの偶然が重なっている。2021年、偶然お誘い頂いたイベントをきっかけに岡山県の長島愛生園に通うようになり、そのカフェで神谷美恵子の「生きがいについて」を読むことになった。長島愛生園で長らく精神科医として勤務した神谷美恵子は、島の人々からのアンケートの中に生きていることが退屈だという記述とその一方で生きる喜びに溢れた文章のそれぞれを目にして、それがどこに起因しているのかを問うようになる。
衣食住は国家の手で一応保障され、もちろん決して満足な状態ではないにせよ、作業や娯楽のしくみもあるなかで、このひとたちは「無意味感」にいちばん悩んでいるのであった。
「ここの生活……かえって生きる味に尊厳さがあり、人間の本質に近づき得る。
将来……人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う。」神谷美恵子. 生きがいについて神谷美恵子コレクション (Japanese Edition) (p.9). Kindle 版.
同じ島で、同じ条件にて生きる人々の中にも、無力感に悩まされる人といきがいに溢れる人がいる。このことは様々な個別固有の性格などにも起因するであろうことは一面としては真であろうが、生きがいというテーマはさらと流すことのできない、大きなテーマであろう。神谷の感じたこの感覚を現代に生きる私個人、通訳や研究を通して様々な人々と出会う中で、福祉公共制度の恩恵と、同時に、人を動かしうるものの存在を希求してやまない「いきいきとすることの実感」の存在を感じている一員として、探求してみたいと思う。
恋の話をきいていた時、友人が恋人から「あなたといると生きているという実感がある」といわれたから一生生きていけると思った、という話をきき、「生きているという実感」とは一体なんだろう、と話し合ったこと。パーキンソン病の方が、妻との合唱の際に、伸びやかに歌を歌われること。歩行困難と診断された子どもたちが、成長の中で言語を獲得し、その場で起こる様々な出来事を嬉々として楽しみにしながら、力強く意欲的に歩く様子。ゲームをつくることで自らの世界をゲームの中に構築する友人、映像表現から自分の問いを社会に問いかけること。
自ら希求し、探求していくこと。言語やツール、手法、様々な手法に基づいて世界を自ら構築していくこと、つながり、形成する、そのプロセス自体を整理して、追いかけることで<「生きているという実感」が灯る瞬間の探求>に迫りたい。
<あなたのことをわかりたい──>
このシンプルな動機がもたらす様々な出来事に想いを馳せ、そのことがもたらす可能性と社会システムの在り方を検討するとともに、映像やゲーム、様々な手法をもちいてこの”実感”を探ることにしたいと思う。
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