文化人類学とアートの協働で「死そのもの」に迫る──鄭梨愛 × 金セッピョル「死を肖像する」展レポート
2024年9月、一般社団法人デサイロの協力のもと、神戸・滝の茶屋のギャラリー「UMU」にて展示「『死を肖像する』鄭梨愛 × 金セッピョル~文化人類学とアートの協働がひらく地平」が開催された。本展の展示と、同展に際して開催された座談会の様子をレポートする。
2024年9月14日~9月23日、「デサイロ アカデミックインキュベーション・プログラム」の採択者のひとりである人類学者の金セッピョルさんが、『「死を肖像する」文化人類学とアートの協働がひらく地平』展を開催しました(協力:一般社団法人デサイロ)。
参考:覆い隠される「死そのもの」に迫るために。文化人類学とアートの協働がひらく地平──人類学者・金セッピョル
この展示は、アーティストの鄭梨愛さんと文化人類学者の金セッピョルさんが、「死そのもの」について共に考え、対話する過程で生まれたものです。
本記事では、神戸・滝の茶屋のギャラリー「UMU」にて開催された同展示、そして同展に際して2024年9月16日に開催されたトークイベントの様子をダイジェストします。文化人類学とアートの協働は、いかなる地平をひらいたのでしょうか?
(サムネイル写真撮影:瓜生大輔)
山陽電気鉄道本線・滝の茶屋駅。神戸市の中核である三宮駅から約30分でたどり着く、瀬戸内海を見下ろす展望台のような絶景の駅から徒歩2分。穏やかな住宅街の一角、海を臨めるギャラリー「UMU」にて、展示「死を肖像する」は開催されました。
この展示を企画した金さんは、死と葬儀をテーマに研究を進める中で、現代社会において死が、個人の「人生の終わり」として捉えられがちな風潮に違和感を抱いてきましたといいます。死は、そういった人間中心かつ個人化した視座だけでは捉えられないものだと考えているからです。
「私の死」に備えることや「誰かの死」を悼むことの先にある「死そのもの」に、思索を巡らせたい──本展示は、このような意図から企画されたものです。
展示されていたのは、鄭さんが描いた初期の絵画作品です。
鄭さんは日本で生まれ育ち、小中高ともに朝鮮学校を卒業、朝鮮大学校にて美術を学びました。在学時から、日本の美術界へアプローチする外へ向けた活動を友人たちと積極的に行うなか、鄭は自身の「在日朝鮮人4世」というバックグラウンドを必然的に意識していくようになります。
現在は、そういった自分のルーツを見据えた映像、インスタレーション作品などを中心に制作していますが、活動初期は自身の祖父を対象に絵画作品を制作していました。長年疎遠であった祖母が亡くなって恐怖と後悔を覚えたこと、そして祖母の葬式で再会した祖父の老いに衝撃を受けたことで、祖父の肖像画を描くようになっていたのです。
今になって振り返ってみると、それは「生と死の影」を認識する経験であったことに気づきいたといいます。本展ではこうした、2011年から祖父の死後の2016年頃まで制作された作品が、主に展示されました。
「祖父の日常的な姿を淡々と描写したものから、一人の人間として祖父が生きてきた歴史の捉えようのない深さと広さに戸惑いを隠せない作品。これらの作品は身内に対する温かい愛情のみならず、命をもつ者がまた別の命をもつ者を見つめることで生まれたものです」──金さんは、これらの作品を文化人類学の視点から、また生まれて死にゆく一人の人間としての視点から捉え直し、その過程で紡がれた言葉を寄せました。
座談会が開催された9月16日は、研究者やアーティスト、メディア関係者から、さらには近隣住民まで入り混じり、鄭さんの作品と金さんの言葉に対峙しながら、各々が「死」について思考をめぐらせていました。
午後からは二部に分けて座談会が開催されました。
第一部のテーマは「死とことばと美術」です。金さんと鄭さんに加えて、デサイロの理事でもある文化人類学者・磯野真穂さん、そして文化資源学を専門とする美術史研究者のサラ・デュルトさんが登壇。金さん・磯野さん・デュルトさんそれぞれの視点から、展示作品の制作プロセスや背景にあった思いを鄭さんにたずねて深堀りしながら、さらにはときに来場者からの問いかけにも応答しながら、表象しえない「死そのもの」に美術を通して肉迫することのありようを探っていきました。
そして続いて開催された座談会の第二部のテーマは、「生命と身体と絵の具」。政治哲学者ハンナ・アーレントを専門とする思想史研究者の大形綾さん、知的障害を伴う自閉症の兄と生きる「きょうだい」の視点から絵画制作を行っているアーティストの佐々木健さんが登壇し、作品を契機として障害や出生前診断といった「生」にまつわるトピックなどの視点から、「死」の輪郭を手繰っていきました。
参加者からの──ときにはご自身の置かれた状況も開陳しながら問いかけられた──質問も次々と飛び交い、研究とアート、そしてそれぞれの「生」そのものから、「死」についての思考が深められた座談会。盛況の中ではありましたが、日暮れとともに幕を閉じました。
来場者の中には、鄭さんの絵を見て、(言ってしまえばそこに描かれている人物は“赤の他人”であるにもかかわらず)身近な人の死を思い出して涙が溢れ出てきてしまったという人もいたといいます。
かつて哲学者マルティン・ハイデガーがその主著『存在と時間』において、死こそが人間が自ら固有のものとして引き受ける経験だと論じたように、「他人の死」を経験することは原理的に不可能で、その意味で「死」とは徹底的に固有で個人的なものだとも言えるでしょう。しかし同時に、たとえ経験することが不可能だとしても、ある特定の人の死のもつ質感や情感に肉迫した表現は、自らの身近な人の死のもっていた質感や情感を思い起こす普遍性をはらむのではないか──本展覧会ならびに座談会に一日身を浸してみて、ゆるやかにしかし多角的に、深く「死」というものに思いを巡らせる中で、いち参加者でもある筆者の中には、そうした考えが醸成されていきました。
また、金さんと鄭さんは、本展示を振り返って下記のコメントを寄せてくれました。
「展示が終わったいまも変わらないのは、『死そのもの』とは何か、私たちはいつまでも『肖像』できないだろうという謙虚な気持ちです。それでも果てしない思索を巡らそうとするとき、私たちは誰かの死を通してしか『死そのもの』への思索に辿り着けないこと、つまり『死そのもの』の集合性に改めて気づかされました。来場者の皆さんの表情や言葉から、生きて死にゆく人間としてのつながりを実感したのです。現代ではなかなか味わえないこの『感覚』を、今後の研究に循環させていきたいと思います」(金さん)
「制作当時は『肖像を描くこと』に集中していて、それが結局何なのかは分からず、ただ、祖父が亡くなるまでこれをやり続けるであろうとは思っていました。少しずつ変化する祖父の肖像に焦りを感じ、何かに急いでいました。その過程に生まれた作品たちが展示タイトルの『死を肖像する』ことになったか、実は自分でもよくまとめられていません。展示を終えて思うのは、2011年に祖母が亡くなったとき、彼女の小さい骨を見て感じた何かに対する畏怖が、当時の私に死を考えさせ、そして祖父の肖像を描くことへと向かわせたそのはじまりについてでした。その畏怖の尊さを、改めて思い出しました」(鄭さん)
本展示の会期は終了しましたが、金さんと鄭さんの協働はこれからも続きます。本ニュースレターでも、折に触れてその経過や成果をお伝えしていく予定ですので、ぜひチェックしてみてください
(Text & Photograph by Masaki Koike)
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