「無知新世」の時代を生きる──人新世を捉え直す「無知学」の視点|科学史研究者・鶴田想人
急激な気候変動に対する応答が喫緊の課題となっている現代。人間の活動によって地質や生態系に大きな影響が及ぼされていることを指す「人新世」という言葉も、多くの人が耳にしたことがあるのではないでしょうか。
しかし、その原因を単に「科学技術」のみに還元する見方は、本当に適切なのでしょうか?
「自然の有限性や人間活動の環境への負荷について『無知』にされた私たち」──こうした視点を提示するのが、今日の時代を際限のない発展が可能であるかのような「無知」が作り上げた時代として捉える「無知新世」という概念です。
そもそも「無知新世」とは何なのか?
「無知新世」というレンズから見えてくる現代の問題とは?
またそれはいわゆる「陰謀論」とは、どのように異なるのか?
「作られた無知」という視点から歴史を見る「無知学(アグノトロジー)」を専門とする科学史研究者の鶴田想人さんに、「無知新世」という概念、そしてその現代的意義や可能性について寄稿してもらいました。
【9/10開催/参加無料】「無知新世」の時代を読み解く──科学史研究者 鶴田想人【Academic Insights #2】
「人新世」の否決という出来事
「人新世」という言葉をご存じだろうか。ベストセラーとなった斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社、2020年)という本で、この言葉を知ったという方も多いだろう。
人新世とは、約1万2000年前から私たち地球上の生命が暮らしているとされる「完新世」とはもはや言えないような地質年代——それも人間の活動によって生み出された危機の時代——に私たちが生きているということを強調するために、2000年代初頭に大気化学者パウル・クルッツェンらが用い始めた言葉である。クルッツェンは地球環境についてのある国際会議で、「もはや完新世ではない、人新世だ!」と叫んだという。ちなみにクルッツェンはオゾンホールの研究でノーベル賞を受賞した、一流の科学者だ。
ところで人新世は新しい地質年代として提起された以上、それが正式に(科学的に)認められるためには、地質学者たちによる承認が必要だ。そこでここ15年ほど、国際地質科学者連合という地質学の国際学会が、この問題について検討を重ねてきた。そしてなんと、今年(2024年)3月に、同連合がこの人新世を否決したことが発表されたのだ。
これには一瞬、うろたえた。というのも、ちょうど4月からの非常勤先の授業の一つで、「人新世」をテーマとして扱う予定だったからだ。しかし、よくよく考えてみると、人新世という言葉を今後も用いることは間違いなのか、ということはそれ自体一考に値する。確かに、現代が地質学的な意味で(完新世に代わり)人新世だとは言えないことは、地質学者によって合意された以上、受け入れるしかない。しかしそもそも、この言葉は地質学の概念だったのだろうか。それは、クルッツェンが最初にそれを叫んだ時から、むしろ気候変動という地球規模の、しかも人間自身が招いた危機の時代を意味する言葉だったのではないか。
そもそもこの20年ほど、この人新世という言葉を世に広めてきたのは地質学者ではなく、哲学者や歴史家といった人文学者であった。その意味では、斎藤が気候危機の時代の標語としてこの言葉を使ったのは、むしろその本来の用法だということになる。人新世は、地質学の概念を借りたメタフォリカル(比喩的)な表現として、今後も使われ続けていくだろう。このことは、先述の地質学者たちによる「否決」と、決して矛盾するわけではない。
むしろ「無知新世」と言うべきか?
しかし、人文学者たちが皆揃ってこの人新世という言葉を支持してきたわけではない。むしろ、彼らの多くは、この概念を手放しでは肯定せず、そのオルタナティヴを模索してきた。例えば「資本新世」や「植民新世」といった代案が提唱されたり、「クトゥルー新世」(ダナ・ハラウェイ)といった奇抜なものまで提唱された。
その中で、本稿では「無知新世」という捉え方を提唱したフランスの二人の科学史家の議論に着目してみよう。クリストフ・ボヌイユとジャン゠バティスト・フレソズは、共著『人新世とは何か』(野坂しおり訳、青土社、2018年)において、人新世という語りのもつ含意を批判的に分析しつつ、この概念によって隠されてしまいがちな複数のオルタナティヴな歴史の見方を提示した。その一つとして論じられるのが、本稿のテーマである「無知新世」である。
そもそも人新世(アントロポセン)という言葉には、人類(アントローポス)が今日の世界を作り上げたという、ある種の傲慢さと単純化が刻まれている。傲慢さというのは、この言葉が今日の危機を招いた張本人(人類)を主役に見立てるのみならず、まるで彼らだけが歴史を作ってきたかのように表現しているからだ。また単純化というのは、このように表現されると、地球上に暮らす人類が等しく今日の気候危機に対して責任があるかのように聞こえるからだ。実際には、環境危機を招いてきたのは、人類のうちごく一部の人々であるにもかかわらず。上述の「資本新世」や「植民新世」といった言葉は、気候危機の原因が(抽象的な「人類」などではなく)資本主義や植民地主義といった収奪システムにこそあった、ということを強調するために提案されたものだった。
「無知新世」という言葉もまた、「無知」こそが今日の時代を作り上げたということを強調しようとするものだ。しかしそれは、資本主義や植民地主義がその原因だと言われたときのようには、すんなりとは理解しにくいだろう。
まず、ここで言われる「無知」とは何だろうか。ボヌイユとフレソズは、この「無知新世(アグノトセン)」を提唱する際に、無知学(アグノトロジー)という別の学問領域の議論を参照している。無知学とは、歴史の中で無知がどのように作られたり、維持されたり、操作されたりしてきたかを探求する学問だ。無知学で言われる無知とは、単に個人があることを知らないといった状態ではなく、社会において、ある事柄が知られていない——意図的に隠されたり、その信憑性を貶めるような言説が多数存在したりして、事実が事実として確立していない——状態を指す。
例えば有名なところでは、無知学の提唱者ロバート・N・プロクターによるタバコ産業の研究が挙げられる。アメリカのタバコ産業は何十年もの間、科学的には立証されつつあったタバコの発がん性を否認し続けた。「疑念はわれわれの商品である」——つまりタバコを売るには、それが体に悪いという事実を疑わせなくてはならない——という内部メモが見つかってようやく、業界がタバコの危険性を把握していながらも、あえてそうした科学的知見を否定する言説をばら撒いていたことが明らかになった。
ボヌイユらもまた、このようないわばマクロな無知の創出こそが、人新世を可能にし推進してきたのだと指摘する。彼らは人新世が(一説では)始まったとされる産業革命の時代に、人々が決して無邪気に「進歩」を言祝いでいたわけではないことを強調する。彼らによると、急速に進む工業化の「持続可能性」への懸念は、当時からすでにあった。にもかかわらず、そうした懸念が周縁化され無効化されたのは、当時の科学がそうした危機意識を挫いたからだった、と言うのである。
どういうことだろうか。例えば当時、機械を動かすために急遽大量に必要とされた石炭の枯渇が心配された。しかしその心配は、地質学が石炭埋蔵量を計算し、現代の推定よりもかなり高い数値を弾き出したことで、払拭されてしまったという。また、当時の経済学は物理学をモデルとした新古典派経済学(現代のマクロ・ミクロ経済学の源流)に生まれ変わる最中で、その際、人間の市場における交換だけが考察の対象とされたことで、環境負荷、すなわち人間と自然との間の(非対称な)「交換」は、経済学の視野から外れてしまった。こうして、人々の——結果として、長期的には正しかった——不安や危惧をなだめるような方向に科学が発展した結果、当時すでに人類が直面しつつあった問題の解決が先延ばしされてしまったのである。このように、人々の懸念や警鐘鳴らしを無力化するような科学の働きを、ボヌイユらは「脱抑制」と呼んだ。人々が自らの活動を「抑制」しようとしたのに対し、科学が「大丈夫、心配ない」と、お墨付きをあたえてしまったのだ。
こうして自然の有限性や人間活動の環境への負荷について「無知」にされた私たち(というよりもヨーロッパ人)は、無際限な経済活動を再考する機会を逃し、今日の環境危機を招いてしまったという。これがボヌイユらが「無知新世」と呼ぶシナリオである。
もっとも、ここで「科学が……」という時、ボヌイユらは科学者たちによる「陰謀」があったという類のことを言っているわけではない。そうではなく、むしろ科学者が善良に振る舞って「有用な」知識を生み出すときでさえ、その知識が長期的にはある一面において「無知」を作り出すことがある、ということを問題にしているのだ。無知学において「非意図的な無知」と呼ばれるこうした現象こそ、実は非常に大きな帰結を伴いうることを、ボヌイユらの事例は示唆している。
今日の環境危機と「脱抑制」
「無知新世」や「脱抑制」は、ボヌイユらが18世紀以降の歴史を研究して見出してきた近代社会のメカニズムである。しかし今日でもそのような「脱抑制」の声は、至る所から聞こえてくる。例えば斎藤が批判したグリーンニューディールは、まさに18世紀の新古典派経済学の現代版であると言えるかもしれない。グリーンニューディールの擁護者は(もちろんその内実は論客ごとにさまざまだが)、環境を守ることと経済成長とは両立できると主張する。それどころか、自由な経済活動こそが、技術革新を促進して気候変動の解決を可能にするとして、経済活動を抑制することには反対の立場をとる。しかし斎藤は、そのような「デカップリング」(環境負荷と経済活動を切り離すこと)は非現実的であるとして、彼らの主張は単にこれまで通りの経済成長を続けるための甘言であると批判したのだった。
また、18世紀の地質学に代わって今日のエネルギー無限幻想を支えているのは、原子力発電(あるいはそれを可能にする原子力工学)であると言えるかもしれない。原発は「安全神話」に守られ、事故のリスクを指摘する声は——しばしば嘲笑によって——掻き消されてきた。しかも、原発は気候変動を解決する「クリーン」なエネルギー源として打ち出され、今でもそのように言われることもある。しかしそれは二酸化炭素の排出のみを見て、放射能汚染(のリスク)を無視した言い方でしかない。そして、日本国内を見てもわかるように、そのリスクを負うのは決まって東京や大阪のような大都市ではなく、東北や北陸といった「地方」の——その電力の多くを自分たちで使うわけではない——人々なのだ。
そもそも人新世という概念自体も、それが「人類」を一括りにすることで、その内部の格差や分断を覆い隠すという点で、ある種の「無知」を作り出すものであることは、先述した通りである。ボヌイユらは、人新世の主導者がしばしば人為的に地球の気候に介入する気候工学(ジオエンジニアリング)を推奨していることに注意を促す(クルッツェンもその一人であった)。「人類」が危機を招いたのだから、「人類」がそれに対処すべき——そしてその負担やリスクに耐えるべき——というのは、一見もっともらしい論法だ。しかし、資本主義や植民地主義の歴史を振り返れば、それが詭弁であることも明らかだ。一つの「人類」などというものはなく、私たちは常に二分され、より強い者たちの発展のために、より弱い者たちがコストを払わされるということは、むしろ歴史の常道ですらあった。ボヌイユらが人新世概念そのものに警戒する背景には、この言葉が「人類」の危機を煽ることでそうした歴史や現実を忘れさせ、気候工学のような暴力的「解決」を可能にし、正当化するものになりかねないことへの危惧がある(もちろん気候工学にもさまざまなものがあるが、ここではもっぱら「硫酸エアロゾル散布」と呼ばれる手法が念頭に置かれている)。
さらに別の現象に注目してみよう。近年、フェイクニュースや陰謀論などの広がりが、SNSなどを中心に問題となっている。フェイクニュースや陰謀論が単なるフィクションと異なるのは、それらが政治的帰結を伴うからだ。そうした偽情報はしばしば、ある(権力者にとって)不都合な事実を隠すために拡散される。そして人々がそれらを信じれば信じるほど、私たちにとって本当に必要な対策は遅らされていくのだ。
そうした言説の一つに、気候変動否定論がある。ハーヴァード大学で無知学を教えるナオミ・オレスケスは、エリック・M・コンウェイとの共著『世界を騙しつづける科学者たち』(福岡洋一訳、楽工社、2011年)の中で、気候変動否定論が、現役を退いたごく少数の(元)科学者たちによって、いかに戦略的に広められてきたかを明らかにしている。最近では下火になったようにも思うが、オレスケスらによると、一時はこの否定論がアメリカ人の間で幅を利かせ、地球温暖化に関する認知を低下させたという。実際、トランプ前大統領は気候変動を否定しパリ協定からも離脱しており、今後も大統領選の結果次第で、アメリカがいつ気候変動否定国家にならないとも限らない。そして、こうした否定論の背後には、規制を遅らせることで得をする石油化学業界や、一切の規制を共産主義の前触れとして警戒する保守系シンクタンクの存在が見え隠れしている、とオレスケスらは述べる。このように意図的に無知を作り出した人々を鮮やかに突き止めたため、オレスケスらの論は一見「陰謀論」のようにも見えるが、今日多くの研究者によって事実と認められている。
「無知新世」の一つの帰結としての戦争
さらに、「無知新世」の一つの帰結として、今日見逃せないものに、戦争がある。ボヌイユらもその著書で、人新世が戦争の時代でもあることを「死新世」という言葉で表している。そこで言われるのは、もっぱら戦争がいかに環境破壊的な行為であるかということだ。確かに戦争は、土地を破壊し、大量のエネルギーを消費し、さらに、人間やその他の生命を殺傷するさまざまな技術(毒ガスなど)を生み出す。しかし、戦争もまた、無知によって作られ、また無知を作り出すことによって維持されてきた。ここにも、無知をめぐる巧妙な駆け引きが存在しているのだ。
それはまず何より、戦争には情報戦がつきものだということでもある。ロシアとウクライナ、イスラエルとガザの間でも、相手側の士気を挫くため、また国際的な世論を味方につけるために、虚実を織り交ぜたあらゆる情報が飛び交っている。彼らはSNSを通じてフェイクの画像や動画——AIによって生成されたディープフェイクも含めて——を流すことも厭わない。さらに、互いに相手側のメディアが嘘ばかり垂れ流していると主張する。戦争に限ったことではないが、メディアを通して伝わってくる情報は、決して中立ということはありえず、常に誰かの意図や取捨選択を経たものであることは、忘れてはならない。しかしここで、「真実は知り得ない」と思考停止してしまうことにも問題がある。まさに進行中の戦争に対して、真実を撹乱して第三者が積極的な立場(反対運動など)をとることを封じることこそ、戦争を継続したい人々の思惑であると思われるからだ。
さらに本質的なのは、戦争はより長期的な「無知」化のプロセスの結果であることが多いという点だ。歴史の忘却や意図的な「修正」が、そもそも戦争を始めることを可能にする。さらにそこには、相手側を非人間化することによって殺戮を正当化することも含まれる。宗教や民族や「人種」などで「彼ら」と「われわれ」を分断し、「彼ら」を殺すことは「人を殺す」ことではないと、自他共に説得しようとするのである。ここには、ヨーロッパ人が——解剖学や生物学などの科学の助けを借りながら——かつて作り上げた奴隷制以来のロジックが、そのまま引き継がれている。今日、ヨーロッパ諸国の多くがイスラエルを非難できないのは、経済的・政治的利害もさることながら、そもそも、彼らが自ら作り上げた植民地化のロジックや体制を、根底から批判する言葉をもたないためでもあるだろう。
私たちはたいてい、自らがその加害者である被害者のことを、よく知らない。さらに自らが加害者であることにさえ、往々にして気がつかない。この「知らない」「気づかない」という特権は、社会の中で——例えば(逆説的にも)教育などを通じて——構造的に維持されている。そして弱者は往々にしてこの無知から害を被るが、強者はそこからむしろ利益を得る。(こうしたことを批判する「白人の無知」という概念があるが、これについてはまた別の機会に譲りたい。)このように、現代においてもさまざまな形で「無知」が機能することで、私たちは知らず知らずのうちに、被害を被るだけでなく、さまざまな加害(戦争や搾取など)にも加担しているかもしれない。まさに、私たちは「無知新世」という無知の時代を生きているのである。
無知の時代を生き延びるには
本稿では、やや駆け足ながら、「無知新世」という概念を手がかりに、その概念が出てきた経緯から、現代への適用をさまざまな角度から論じてきた。今日でも、「(はっきりとは)わからない」ことを理由に「何もしない」ことを正当化する言説は散見される。「知は力なり」というが、無知もまた「力」になることがある。知らないことが自らの力になることもあるが、たいていはそれを知らせない(力をもった)者たちの力となる。
そこで、私たちにできるのは、まずは自らの「無知」に気づくこと、そして、その無知がなぜなのかを考えてみることだろう。むろん、あらゆる無知の背後に誰かの意図を疑い出すと、疑心暗鬼からかえってわかりやすい「陰謀論」に飛びつくことになりかねない。しかし、無知は「自然化」の力をもつということ、つまり無知は自ら気付くことが難しく、気付いたとしてもその原因についても無知を作り出す——初めからそこにあったかのように見せかけ、何か原因があるとは思わせない——ものなのだということを、理解しておくことは重要だ。
私たちは何を知らないのか、そしてなぜ知らないのか。私たちがそれを知らないことで、得をするのは誰で、損をするのは誰なのか。知識だけではなく無知もが巨大な力をもつ現代社会において、無知学は、現実を批判的に見つめ、その変革の糸口を見出すための一つの〈武器としての概念〉になりうると思われる。
[了]
鶴田想人(つるた・そうと)
専門は科学史・科学論。1989年生まれ。大阪大学社会技術共創研究センター特任研究員。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。修士(学術)。共編著に『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店)、共訳にロンダ・シービンガー『奴隷たちの秘密の薬』(工作舎)。近年は無知学(アグノトロジー)の研究・紹介に努め、現在明石書店より共編著『無知学への招待』を準備中。
【9/10開催】「無知新世」の時代を読み解く──科学史研究者 鶴田想人【Academic Insights #2】
人文・社会科学領域における「概念」や「アイデア」をよすがに、気鋭の研究者とともに、いま私たちが生きている時代あるいは社会がこれから直面する課題を読み解いていくレクチャーシリーズ「Academic Insights」。
第2回は「作られた無知」という視点から歴史を見る「無知学(アグノトロジー)」を専門とする、科学史研究者の鶴田想人さんが登壇。9/10(火)20時より、オンラインにて無料開催します。
そもそも「無知新世」とは何なのか? 「無知新世」というレンズから見えてくる現代の問題とは? またそれはいわゆる「陰謀論」とは、どのように異なるのか?──「無知新世」という概念、そしてその現代的意義や可能性について、本イベントでは、鶴田さんより直接レクチャーいただきます。
人新生や環境危機、そして戦争といった現代社会で今まさにリアルタイムで深刻化しつつある諸問題を読み解く新たなレンズを獲得していくような時間にできればと思っておりますので、ぜひふるってご参加ください。
■イベント日時
2024年9月10日(火) 20:00〜21:30@Zoomウェビナー
■イベント参加申し込み(無料)
以下のGoogleフォームより、必要事項を記入のうえ、参加申込をお願いいたします。
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※配信リンクに関しては、お申込みフォームに記入いただいたメールアドレスに、後日お送りいたします※
■イベント内容
20:00-20:05:イントロダクション
20:05-20:35:鶴田さんによる「無知新世」概念のレクチャー
20:35-21:20:ディスカッション(モデレーターによる深堀り、参加者の皆様からの質疑応答)
21:20-21:30:クロージング