ニューロテック時代に考える「認知過程の自由」──法学における“認知革命“に向けて|神経法学研究者・小久保智淳
近年発展する認知科学と、「身体拡張技術」の普及によって、人間の生活は大きく変わると予想されています。
例えば、「考えるだけ」「イメージするだけ」で義手や義足を動かせる、ゲームやVRアバターの操作できる、文字を入力できるなど、SFのような世界が当たり前になる日が見えはじめています。
しかし、これらを可能にする「脳と機械をつなげる技術」は同時に危険性も孕みます。例えば、人間の思考(あるいは心)が機械やネットワークに接続されることで、「自分の思考が勝手に読み取られないか」「機械を通じて人間の思考が操作されないか」などの懸念も発生し、それらを適切に統制できる法理論の構築が課題になっています。
そうした背景から近年注目を集めている学問分野が、神経科学と法学の融合領域である「神経法学(neurolaw)」です。2010年代以降、UNESCOや国連人権理事会、OECDなどでの議論や、各国での神経科学技術に注目した法改正や新法制定の加速は、この分野へのニーズの高まりを示す象徴的な事例だと言えるでしょう。
他方で、神経科学の知見や神経科学技術は、近代社会が前提としてきた「自由意志」「個人」「自律」「人格」といった概念に重大な影響を及ぼす可能性があります。
そんな中で、神経科学の知の発展が私たちの人間性への捉え方をいかに変えるのかを考える際に手がかりとなるのが、「認知過程の自由」という概念です。
今回は神経法学を専門に、とりわけ「認知過程の自由」を重点領域として研究する東京大学大学院情報学環助教・小久保智淳さんに、「認知過程の自由」という概念の現代的意義や可能性について寄稿していただきました。
【11/12開催】ニューロテックは自由意志を脅かすか?「認知過程の自由」から考える──神経法学研究者 小久保智淳【Academic Insights #6】
1.はじめに
私の原体験の1つは、五歳の頃に初めて見た、映画『もののけ姫』だった。名も知らぬ人々の引き起こした自然破壊によって生まれた祟り神から、許嫁を守ために力を振るったアシタカは、死の呪いを受け村から追放され、元凶である遥かな西の地へと旅に出る。理不尽とままならなさを在るがままに受け入れ、人と森(自然)とが“共に生きる道”を懸命に模索する姿に、幼いながらも心を打たれる何かがあった。今から思えば、自らの正義を振り翳すことなく、何とか均衡点を探ろうとするアシタカの孤高の姿に憧れていたのではないか、と思う。
2つ目の原体験は、高校入学を控えた春休みに遭遇した、3.11であった。当時、山形県鶴岡市にある慶應義塾大学の先端生命科学研究所で、研究生として微細藻類の系統樹解析をしていた。しかし、福島の原発事故をきっかけに、先端的な科学・技術が、“怖いもの”や“悪いもの”と一括りにラベリングされてしまいかねない空気感が生じて、そのことに違和感を覚えていた。私の目からは、技術の使い手たる“人間”が、科学や技術に責任を転嫁しているように見えたのである。
過去を振り返っても、ダイナマイトの発明とその軍事転用、ハーバー・ボッシュ法(空気中の窒素を固定する手法)の発明と火薬の大量生産、原子力と原子爆弾、どの場合でも科学技術それ自体は、“正しく”その効果を発揮するのみであり、そこには悪意も善意もない。そうであれば、ある目的のもとで技術を使う、意思ある人間こそに、変化と成熟が求められているのではないか。そのような考え方から人間や社会の根底にある“ルール”を問う「法学」と「科学(技術)」との融合領域的な研究に足を踏み出した。
そこで筆者は、高校時代に夢中になった生命科学(life science)と法学の融合領域に狙いを定め、その中でも特に“人体最後のフロンティア”に迫る「神経科学(neuroscience)」に照準することにした。これが、筆者が「神経法学(neurolaw)」を専門とするに至った経緯である。
2.神経法学とは何か?
「神経法学(neurolaw)」とは、端的に言えば、神経科学と法学との融合領域的学問であり、その研究内容は大きく2つの領域に区分することができる。
第1に神経科学技術の規範的統制の在るべき姿を検討する領域がある。これは、「神経科学技術」の社会実装を進める上で考慮すべき注意点や、法として規制・促進すべきことは何かを検討する領域である。近年、巷で流行っている用語を用いれば、ELSI(法的、倫理的、社会的課題)や、RRI(責任ある研究・イノベーション)の営みの一環として整理することもできる。
これに対して第2に、神経科学の知見や神経科学技術の実装が「自由意思」、「個人」、「自律」、「人格」などといった法学の基礎概念に与える影響を査定する純理論的な関心に支えられた領域がある。
神経法学という言葉が初めて登場した1990年代は、神経科学技術の多くが大学や病院の実験室の中に留まっていた。そのため、第1の領域に取り組もうにも、技術発展の未来予測に基づいて議論を行う他ないため、その議論の妥当性や実益それ自体を疑問視されることもあった。そうした事情もあり、多くの研究者が取り組んだのは、主に基礎研究の知見から法学への示唆を引き出そうとする第2の領域についてであった。
事情が大きく変化したのは、2010年代後半に入ってからである。それまでラボの中に留まっていた神経科学技術の社会実装が急速に進展したことで、神経科学技術の適切な規範的統制を可能とする法理論の構築が神経法学にとって喫緊の課題となった。これを象徴するように、UNESCO、UNICEF、国連人権理事会、OECD、IEEEなど多様な国際機関が競い合うように急ピッチで神経科学技術のガバナンスを議論し、次々に勧告やレポートなどが作成されている。また、各国の内部に目を向けても、神経科学技術に注目した法改正や新法の制定の動きが加速している。実際にチリでは憲法改正が、アメリカの一部の州では州法の制定が行われた。
このような国際的な議論動向を支える理論的な背景には、神経法学において主張されてきた「神経権(neurorights)」と「認知過程の自由(cognitive liberty)」という2つの新しい権利・自由概念が存在する。筆者は、このうち、主に認知過程の自由に着目し、研究を深めてきた。本稿では、今、なぜ、認知過程の自由を論ずる必要があるのか、その先にどのような展望を描くのかについて、技術的な背景も含めながら論じることにしたい。
3.測定・操作される神経系
神経科学技術とは、大まかに言ってしまえば「神経系(nervous system)」に(工学的に)干渉する技術の総称と言える。それゆえ、神経系に何をする技術なのか、という視点から大まかに2つに区分することができる。具体的には、神経系の構造・機能を測定する<神経測定(neural monitoring)>と、神経系の構造・機能を操作する<神経操作(neural manipulation)>の2種類である。
神経系の“構造”を測定・操作する、ということは比較的容易にイメージができるものの、神経系の“機能”を測定・操作するといきなり言われてもピンとこないかもしれない。ここに言う神経系の機能とは、いわゆる技能の習得、記憶、意思決定などの認知機能や身体各部の制御、五感情報の取得など、生物の身体の内部で行われている情報の収集・処理・伝達のことを指す。最新の神経科学の知見は、こうした神経系の機能が、神経細胞やシナプス(2つの神経細胞の接続部分)において生じる、電気信号の伝達によって実現されていることを示している。
つまり、神経系は、ある種の(化学的・電気的に駆動する)情報処理システムとして理解することができる。そして、神経系を“計算機械(コンピュータ)”に見立てて理解し、その振る舞いを理解していこうとしているのが、「計算論的神経科学(computational neuroscience)」と総称される神経科学の1領域である。実は、足下で実装が進む神経科学技術の殆どは、この計算論的神経科学を理論的背景に持つものと言っても過言ではない。
以上の理解を前提にすれば、私たちの顕在意識についても、「神経系(nervous system)」の働きよって生じている可能性が非常に高い(脳損傷で有名なフィニアス・ゲージの事例に留まることなく、間接的な証拠は数多く積み上げられている)。もっとも、意識研究は未だ黎明期にあり断言はできないが、私たちの精神作用(mental activity)=“心”は、神経系によって実現されていると言えよう。そうであれば、神経測定は、《内心に属する精神作用が“不可視”という意味での不可侵性》を、神経操作は《内心に属する精神作用には“干渉が不可能”という意味での不可侵性》を、それぞれ突破し得るものと言えよう。つまり、神経科学技術のガバナンスを考える上では、それらが精神作用に対する工学的な測定・操作を実現し得る技術であることを踏まえておくことが重要になる。
4.不可侵性を失いつつある内心に向き合う
憲法学においても、外部的行為の強制のような間接的な影響力の行使は別としても、個人の内心に対する直接的な干渉は不可能であることが当然の前提とされてきた。しかし、上述したように、神経科学技術はこれまで内心領域が有していた事実上の不可侵性を突破し得るものである。
もちろん、内心の事実上の不可侵性を突破することでこそ、QOLが向上し、あるいは、社会に参画することが可能になる場合もある。例えば、ALS患者や麻痺患者がより積極的に社会参画したり、自由に意思疎通できるようになる可能性もある。一方で、SFのPSYCHO-PASSのように、政府が個人の心理を可視化することや、Metal Gear Solid4の世界のように、兵士の心理状態を統制するためにも神経科学技術は等しく用いられ得る。
さらに、MetaやAppleといったジャイアントテックから、イーロンマスク率いるNeuralinkのようなバイオベンチャーまで、様々なテック・カンパニーが神経科学技術の実用化を目指していることに鑑みれば、まさに今日におけるSNSや情報技術のように、気づいた時には私たちの日常生活に不可欠なものとして、広く・深く浸透している事態も、あながちあり得ないことではない。
そうであるとすれば、事実上の不可侵性を失ってしまった私たちの内心という領域に、規範的に(ルールとして)不可侵とすべき領域を設定することが、法学に課された喫緊の作業と言えるだろう。つまり、神経科学技術の実装が本格化する前に、私たちの社会や法にとって近代以降当然の前提とされてきた、「事実上の不可侵性」という自然の防衛線を失った内心領域について、規範的に不可侵とすべき領域を人為的に再画定し、明確にしておくことが必要なのである。
5.「認知過程の自由(Cognitive Liberty)」とは何か?
上述した課題に取り組んでいる様々な神経法学議論の中でも、特に参照に値するものに、“cognitive liberty”―筆者はこれを「認知過程の自由」と翻訳している―がある。
なぜ、“neurorights”(筆者はこれを「神経権」と訳している)ではなく、認知過程の自由に注目するのか。それは、“神経科学技術からの自由”と“神経科学技術への自由”という双方向から議論を展開するため、技術統制の規範論として法実務的に有用な包括性を備えているためである。
また、国際法に依拠するという特色はありながらも、憲法学にとって馴染み深い語義を使用している。その上で、新規な自由概念の実定化を求めるのではなく、既存の権利概念にかかる解釈の微修正を目指す点でも、憲法学にとって最初に参照するに値する議論と言える。
さらに、心や思想といった、科学的な空間での把握が困難な語彙ではなく、「認知(cognition)」という科学的な語彙を核心に据えているため、法学が神経科学と対話するプラットフォームとなる概念になり得る可能性を秘めていることも、注目に値する。
以下では、「認知過程の自由」論の主唱者である、Nita A. Farahany(米国デュークロースクール教授)の議論について、概観してみることにしたい。
(1)神経科学技術からの自由
①メンタル・プライバシー(mental privacy)
Farahanyは、「脳(brain)」全体に対してメンタル・プライバシー(mental privacy)による包括的・相対的な保障を与える。具体的には、世界人権宣言第12条により保障されている「プライバシーの権利」に、「脳情報(brain data)」や「思想(thought)及び精神作用(mental process)」を保護する「メンタル・プライバシーの権利(the right to mental privacy)」も包含するよう解釈を変更すべき旨を主張するのである。なお、Farahanyは、同権利を場合によっては対抗する利益によって制約され得る「相対的権利(relative right)」として位置付けており、その権利制約が許容されるか否かを審査するにあたっては、「合法性(legality)」、「必要性(necessity)」、「比例性(proportionality)」と言う3つの観点からの審査(一般に「三要素テスト(three-part test)がと呼ばれる」されるべきとしている。
②思想の自由(freedom of thought)
続いてFarahanyは、「脳」の内部にさらに撤退し、思想の自由(freedom of thoughts)によって保護されるべき絶対不可侵領域を設定する。なお、ここに言う思想の自由は、絶対的権利として世界人権宣言18条、市民的及び政治的権利に関する国際規約第18条1項、欧州人権条約9条により明示的に保障されてきた。つまり、如何なる制約も許されない、と言うことになる。
問題は、ここに言う“thought”とは何かということであるが、Farahanyは、「心の中で展開されるすべてのアイディア(ideas)、反応(reactions)、反省(reflections)、想像(images)、記憶(memories)、思索(rumination)」を含む概念として独自に定義し、それを“conscious thought and memories”や“robust thoughts”という語に代表させている。
つまり、神経科学技術からの自由という文脈においては、“robust thoughts”に分類されるか否かによって、脳の内部の精神作用に与えられる保障強度に階層的な違いが生じることになる。
(2)神経科学技術への自由
①“神経測定の自由”
またFarahanyは、自己の人格を発展させるために必要な「自己省察(self-reflection)」と「自己認識(self-knowledge)」にとって、自己に関する情報へのアクセスが保証されていることは不可欠であると指摘する。そして、ここにいう「自己」が「脳」と不可分に結びついているという強い直感を人々が持つ一方で、「私たちが何者であるかということと、脳や神経系によって生み出されるデータとの間には少なくない距離」が存在することを指摘し、それゆえに「自己の脳活動に自らアクセスすることは、自己決定にとり比類なく重要」であると言う。以上のような理由から、認知過程の自由の名の下に、「脳及び心的経験に対する自己決定権(the right to self-determination over brain and mental experience)」を保障し、その一部に自らの神経系の活動を記録し収集する権利を含めるべきと主張するのである。これは、 “神経測定の自由”と言うことができるだろう。
②“神経操作の自由”
さらに、Farahanyはもし「脳」に自己が宿るのだとすれば、神経科学技術を使用し脳の機能を「増強(revving up)」ないし「減弱(diminish)」することで、自己を改変する権利を認めるべきか否かが問われることになるとも指摘する。すなわち、自己決定に基づいて各人が自由に脳を増強・減弱することを認めるべきかが問題となる。
これについてFarahanyは、「自己決定の最善の理解」が、「自己自身に関連する事柄に対する意思決定に際して政府干渉を受けない権利」としてのそれであることを指摘する。また、自己決定が制約されるのは、自己決定の結果が他者の自由や利益と衝突する場合のみ(他者危害原理)と理解すべきであると言う。それゆえに、自己=脳を増強ないし減弱する行為は自己自身に関連する事項である以上、他者の権利や利益を直接的かつ不当に侵害しない限りにおいて、「自己の脳を増強ないし減弱する権利」をも認めるべきであると主張する。これは“神経操作の自由”と言うことができるかもしれない。
6.整理と批判的検討
以下、簡単にFarahanyの議論を小括しつつ、その批判的な検討を試みたい。Farahanyは、“robust thoughts”について、freedom of thoughtによって絶対的保障を与える。その一方で、自己決定に基づく場合は、原則としてそれらを自由に増強・減弱させるべき旨を主張する。つまりFarahanyの所説は、神経科学技術使用の可否について、技術を使用する(使用される)本人の自己決定権(インフォームド・コンセント)に大きく依拠して決定するものである。
しかし、統制対象となっている神経科学技術が、精神作用それ自体の推測・変容を可能にし得る技術であることには注意を払う必要がある。なぜなら、神経科学技術は、自己決定(及びそれに伴う結果の本人に対する帰責)を正当化する根拠となるべき“自由意思”(を支える精神作用)に干渉し得る技術と言えるからである。つまり、技術を統制する理論が、まさにその干渉対象である被験者の“同意”や“自己決定”に立脚した理論であることが適切であるのかを問う必要がある。
また、実務的な観点から見れば、現実に技術使用の是非が大きな問題となるのは、殆どの場合、他者によって神経科学技術が使用されるときであろう。この場合、いわゆるインフォームド・コンセント(IC)確保の有無と、その適正さによって、それが自己決定に基づく技術使用とみなせるか否かが判定されることになる。しかし、高度に専門性を有し、一見するだけではその技術の影響範囲と効果が不明瞭である神経科学技術の使用について “適切なIC”を確保することが、そもそも可能なのかも問われる必要がある。
これらの点を踏まえれば、神経科学技術の統制を論ずる上で、技術による干渉対象であるところの“自己決定”(あるいは、自由意思)に大きく偏重しているFarahanyの議論の妥当性には疑問が残る。なぜならば、本人が同意すればほぼ無制約に神経科学技術の使用を容認しかねない彼女の議論は、内心領域において規範的に不可侵とすべき領域を事実上消失させかねない構成となっているためである。そのため、個人の自己決定を乗り越えてでも、パターナリスティックに神経科学技術の使用を禁ずるべき場合の有無を検討することが必要となる。
7.客観的な価値への着目
憲法学において、ヒトにかかわる科学技術の使用に付随する課題は、人権の形式(container)たる「個人の自己決定」と、その内容(contents)、すなわち「個人の尊厳の至高性」との緊張関係が先鋭化したものとして理解されてきた。樋口陽一は、これを近代の理論に内在する「意思主義」と「客観主義」との対立の現れと喝破する。
こうした理解に倣えば、たとえ本人が自己決定したとしても、なお神経科学技術の使用が禁じられるべき場合(レッドライン)が存在するか否かの検討は、憲法において<人間の意思によっても左右されてはならない基本的価値>として理解されているものに着目して行われることになろう。
ここにいう「基本的価値」にはいくつかの候補があり得るが、以下ではその中でも特にその有力な候補である2つを紹介することにしたい。
(1)「人格的自律」への着目
我が国において、憲法を貫く基本的な原理のひとつである「個人の尊厳」原理は、「一人ひとりの人間が『人格』の担い手」すなわち、「人格的自律の存在」として最大限尊重されることの保障を要求するものとして説明されてきた。
また、日本国憲法19条が、内心に属する精神作用に絶対的保障を与えてきた積極的な理由は、そこに「人格形成のための内心の精神活動」が存在するがゆえに「人間としての本質に基づく最高の価値」を見出したがためであった。
そうであれば、神経科学技術の使用に憲法が向き合う局面において、守られるべき核心的な価値を「人格的自律」の価値に読み替えることは、あながち不合理ではないだろう。つまり、個人がもはや「人格的自律」の存在として存続しえないことが想定されるような神経科学技術の使用については、絶対的に禁止されるべきであると言えるかもしれない。
(2)「人間の尊厳」への着目
欧州の神経法学者は、神経科学技術の使用について、「人間の尊厳」に照らして禁止されるべき場合があり得ることを繰り返し指摘してきた。特に、神経科学技術は“人格的に自立し自律した状態”にあるとは言い切れない「弱者(vulnerable)」に対して、治療や増強を名目に使用されうる技術であることは(例えば、強制的な精神疾患の治療や犯罪者処遇の一環としての利用等が挙げられる)注目に値するだろう。
さらに、BMI(Brain Machine Interface)のような、「人間拡張(human augmentation)」を目的とした使用が目指されている神経科学技術は、既存の「人間」概念それ自体に対して挑戦する側面もある(BMIによる身体の拡張、心の拡張、世界の拡張:これについてはオンラインイベントにて詳述する)。
こうした神経科学技術の特性に鑑みれば、(精神的に)自律した主体を想定する「個人の尊厳」だけではなく、(特にドイツ憲法学において「脱人格化」傾向の指摘されてきた)「人間の尊厳」から導かれる制約原理についても考察する必要がある。
8.“近代の物語”から“科学”へ
以上の議論を踏まえれば、自己決定に対する偏重という課題を抱える現状の「認知過程の自由」論の補綴を試みる第一歩は、法学が依拠してきた“近代の物語”に内在する「自己決定」という形式と「個人の尊厳」「人間の尊厳」という内容との緊張関係を前提に、精神的な自由に関する権利図式を再構成することになるかもしれない。
その作業においては、「個人の尊厳」や「人間の尊厳」の名の下に、技術的干渉が拒絶されるべき神経系の構造や神経活動の特定することが重要になるだろう。なぜならば、「人間の尊厳」や「個人の尊厳」、「人格的自律」といった法学的な語彙によって語られる技術使用の制約条件は、神経系の活動を特定できるほどの解像度と精度を持つに至るまで突き詰められなければ、神経科学者や技術者によって進められている研究・開発の現場において、実務的な使用に耐え得るものとして構築することができないからである(cf. AI規制・情報技術規制の難しさ)。
そして、その第一歩は、神経科学的語彙で「人格的自律」や「人間の尊厳」といった守るべき価値を語り直すことで、現実の神経系の活動や構造の中に、それらを再発見することを試みることではないだろうか。
9.終わりに
上述したような方向性で「認知過程の自由」の詳細と内実を詰めていくことは、神経科学技術統制のための理論の構築にとどまらないインパクトがある、と考えている。
今日において、神経系の機能≒認知過程(cognitive process)に干渉しようと試みているのは神経科学技術だけではない。例えば、AIを用いたプロファイリングとそれを利用したマイクロ・ターゲティング、生成AIやBotを用いて流布される“フェイク”や、民主的プロセスや世論を標的とした認知戦、ナッジやアーキテクチャーによる行動の変容等、枚挙にいとまがない。
こうした諸技術の使用や普及が、私たちの社会に何を引き起こすのか(引き起こしたのか)という、“症状”の分析はそれなりに進展してきたと言えよう。それにより、表れている症状に基づく“診断”も比較的容易にできるようになってきた(例えば、炎上、分断、フェイク等)。
しかし、なぜそうした症状が引き起こされているのか、という病理の解明には未だ至っていないように見える。。それゆえに、忘れた頃に繰り返し引き起こされる“症状”に対して、事後的な“対症療法”でその都度対処してきた感がある(コンテンツ・モデレーション、損害賠償等)。
一見するとバラバラに見えるこれらの課題も、「認知過程の自由」というレンズを用いて観察してみると、全て等しく、“情報のインプットを通じた神経系に対する干渉の試み”と捉えることができるかもしれない。
これによって、上述してきたような諸技術によって脅かされているものを、「民主主義」や「思想の自由市場」といった非常に抽象的な概念ではなく、個人の「認知過程(cognitive proscess)」の”健全性”(あるいは、“純一性”)という、より具体的な概念から捉え直すことができるのではないだろうか。これは、文系的な語彙から理系的な語彙への変換とも言えるかもしれない。その結果、AI・情報技術が引き起こしている諸課題の “病理解明”に、文系・理系研究者が共同して挑み、“原因療法”へと歩みを進められる可能性もあるのではないだろうか。
20世紀も半ば、自然科学の領域では、心理学を震源地とする“認知革命”によって、生物の内定な過程=“心”のブラックボックス化が解かれ、その科学的な解明が試みられてきた。その結果として、現代では、神経科学技術のように生物の内的な過程に干渉を試みる技術が登場し始めているのである。こうした諸技術の実装が持つインプリケーションを適切に受け止めるためには、やはり、法学においても“心”という偉大なブラックボックスに正面から向き合う必要がある。この課題に最前線で挑んでいる神経法学は、まさに、“法学における「認知革命」の試み”と言えるのかもしれない。
小久保智淳(こくぼ・まさとし)
東京大学大学院情報学環 助教。1995年、東京都生まれ。
慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程修及び同理工学研究科修士課程修了後、同法学研究科博士課程単位取得退学。職歴に、慶應義塾大学博士課程教育リーディングプログラム(オールラウンド型)RA、慶應義塾大学KGRI所員、慶應義塾大学大学院法学研究科研究員、国立国会図書館調査及び立法考査局憲法課 非常勤調査員、新潟大学、横浜国立大学非常勤講師など。2022年度科学技術社会論・柿内賢信記念奨励賞、第13回日本学術振興会育志賞を受賞。神経科学と法学の融合領域である神経法学、特に「認知過程の自由」を重点領域として研究を行う。
【11/12開催】ニューロテックは自由意志を脅かすか?「認知過程の自由」から考える──神経法学研究者 小久保智淳【Academic Insights #6】
人文・社会科学領域における「概念」や「アイデア」をよすがに、気鋭の研究者とともに、いま私たちが生きている時代あるいは社会がこれから直面する課題を読み解いていくレクチャーシリーズ「Academic Insights」。
第6回に登壇するのは、「神経法学(neurolaw)」の領域、とりわけ「認知過程の自由」という概念から昨今の技術発展などを検討することに取り組んでいる、神経法学研究者の小久保智淳さんです。
そもそも「認知過程の自由」とは何なのか? 「認知過程の自由」というレンズから見えてくる未来像とは? ──この概念の現代的意義や可能性について、本イベントでは小久保さんより直接レクチャーいただきます。
これまで光を当てられてこなかった、「神経科学領域の知の発展が、私たちの人間性への捉え方をいかに変えるのか?」という点について、これから議論を深めていくためのレンズを共有していくような時間にできればと思っておりますので、ぜひふるってご参加ください。
■イベント日時
2024年11月12日(火) 20:00〜21:30@Zoomウェビナー
■イベント参加申し込み(無料)
以下のGoogleフォームより、必要事項を記入のうえ、参加申込をお願いいたします。
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※配信リンクに関しては、お申込みフォームに記入いただいたメールアドレスに、後日お送りいたします※
■イベント内容
20:00-20:05:イントロダクション
20:05-20:35:小久保さんによる「認知過程の自由」概念のレクチャー
20:35-21:20:ディスカッション(モデレーターによる深堀り、参加者の皆様からの質疑応答)
21:20-21:30:クロージング