誰もが「世界制作」をしている。芸術の枠外の“ふつうの暮らし”を照射する「日常美学」|美学者・青田麻未
コロナ禍以降の「新しい日常」という言葉はもはや過去のものとなりつつありますが、目まぐるしい技術発展や激動の社会情勢といった外部環境の変化により、私たちの暮らしのあり方は日々、確実に変容を遂げています。
名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具に着目する「民藝」への注目の高まり。徹底した日常性におけるルーティンに光を当てたヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』のヒット……さまざまな視点から、「日常」への社会的注目も高まっています。
そんな中で2024年6月に刊行された書籍が、美学者・青田麻未氏による『「ふつうの暮らし」を美学する:家から考える「日常美学」入門』(光文社, 2024)です。日常から離れた「芸術」を主な対象とし、家や暮らしにまつわる事象を無視してきたこれまでの美学とは異なり、私たちが日々の生活の中で「美」や「快」を感じながら生きている時にはたらく感性に注目し、日々の暮らしを支える活動やモノを通じて「美」を捉える「日常美学」。21世紀以降に勃興した比較的新しい学問分野であるこの領域の、日本語文献としては現状唯一の入門書となっています。
椅子、掃除と片付け、料理、地元、ルーティーン……さまざまな具体例を通じて私たちの感性、そして世界を見つめ直す本書の中でキーワードとして挙げられていた概念が「世界制作」です。建築家やデザイナーといったプロフェッショナルだけでなく、日常的な私たちの行為の積み重ねが世界をつくっている──「世界制作」という概念、そして「日常美学」という学問分野の可能性や現代的意義について、青田氏にインタビューしました。
【8/27開催/参加無料】新イベントシリーズ始動!「世界制作」から日常を捉え返す──環境美学・日常美学研究者 青田麻未【Academic Insights #1】
「日常美学」の勃興。「芸術の鑑賞者」から「日常の行為者」へ
──青田さんの専門である「日常美学」という学問分野は、どのような背景から生まれたものなのでしょうか?
「日常美学(Everyday Aesthetics)」という言葉ができて、議論が盛り上がりはじめたのは、2000年代の後半以降でした。ここ20年弱くらいの話ですね。
さらに遡ると、私の前著『環境を批評する――英米系環境美学の展開』(春風社, 2020)で主題として論じた「環境美学」という分野が母体となっています。20世紀後半、特に1960年代後半頃から(世界的に)自然が破壊されていくことに対する危機感が高まりました。そうした状況に応答することを真剣に考える美学者たちが出てきたわけです。特に議論の火付け役になったのは、カナダの環境美学者アレン・カールソンでした。
環境美学では、当初は北米の国立公園のような大自然が対象とされていたのですが、だんだんとそれだけでなく、都市や地方など、人々が暮らす場所についても研究されるべきだと考えられるようになっていきました。人間のいる環境は「人間環境(Human Environment)」と言われますが、多くの「環境」は「人」と「自然」のハイブリッドで成り立っている。人間もいるし自然もあるという環境について美学から研究することが、90年代以降に盛んになったんです。この関心の移行を通じて、美学者たちはそもそも人が生活するとはどのようなことかに関心を向けるようになり、家具、掃除、料理といった対象が議論されるようになりました。
──環境美学という比較的新しい学問分野を背景に出てきた、さらに新しい学問分野が日常美学なのですね。
そうですね。日常美学の議論は多種多様なのですが、大きな特徴の一つとして、「行為者」としての私たちに注目するようになった点が挙げられるでしょう。美学というのは伝統的には、美術館で展示されるような芸術作品、人間の手づかずの大自然など、私たちとは関係がないところで生まれたものの鑑賞を対象とする学問でした。
それに対して、日常美学では、私たち自身が営む料理や片付けなどの行為を対象とします。「鑑賞」から「行為」に移行して考えるようになったというのが、大きなパラダイムシフトでした。
──美学が想定する人間像が、「芸術の鑑賞者」から「日常の行為者」へとシフトしたと。
これは学術に関わる人が多様化してきたことともつながっている気がしていて、「生活は人に任せっきりで学問だけに打ち込む」という、よくある哲学者像からはあまり出てこないようなトピックだと思います。哲学という分野にはいまだに男性中心主義的なカルチャーがありますが、その一分野である美学も18世紀以降、白人男性が主導してきました。それゆえ日常的なものに対する関心が向きづらかったのかもしれません。
そうした中で、私の著作でも何度も取り上げたユリコ・サイトウ、そしてメキシコのカチャ・マンドキという女性研究者2人が、「日常美学」を掲げた本を同じ2007年に出したのは画期的なことでした。
小さな積み重ねが大きなものへとつながる──「抵抗」としての日常美学
──ここ20年ほどで勃興した新しい学問分野である「日常美学」ですが、その現代的意義はどのような点にあると考えていますか?
私自身は、ただ自分の好きなことを研究していたら日常美学に行き着いた、という感じで。初めからこの分野に何か大きな意義を感じて始めた、というわけではありませんでした。ただ今回、日常美学の本を書こうと思ったきっかけとしては、自分が育児を始めたことが大きかったんです。
子どもが生まれる前は、私自身がまさに先程も触れたステレオタイプな哲学者像そのもので、とにかくたくさん研究をするのが偉いと考えていて、生活のことは顧みないで研究に集中していました。しかし育児の日々は、自分の意のままにならないようなことばかりで、自分の目の前のことで精一杯。子どもと向き合う日々は楽しいものですが、保育園に入るまでは当然、論文を書くことはできませんでした。そうしているとどんどん自分が近視眼的になっていって、本来関心を持っていたはずの環境問題といったことからも、どんどん離れていってしまうように感じていました。
しかし、日常美学の視点で考えると、実は目の前の小さなことは、大きな問題とつながっている。日常生活の小さい積み重ねが、大きな問題を変えるきっかけになるかもしれない。あるいは、実はすごく大きい問題に自分の日常生活が規定されていることが見えてくるかもしれない。日常美学は小さな世界と大きな世界とを接続するものになりうると気づきました。この視点の変換は、自分の新しい日常生活を肯定的にみることを可能にしてくれました。
──小さな世界が大きいものにつながるとは、どういうことでしょうか。
例えば、私はよく小さい頃に住んでいたマンションのことを思い出します。同じマンションの同じ間取りの部屋に住んでいるはずなのに、家の中というのは、それぞれの人たちの「小さな」生活によって形づくられている。特に都心部はそうだと思いますが、多くの住宅が狭小化・均質化しているという都市生活をめぐる「大きな」問題があるにもかかわらず、みんなそれぞれの工夫で、家族が快適に暮らせるようにしていたんですね。
このように大きな問題の中でも、人は何とか小さな営みを重ねて生きているのだなと思うんです。そこからさらにシステムを見直すこともあるだろうし、逆にそのシステムの中で生きていく術を蓄積することもある。私たちの日常はシステム的なものと無関係ではないんです。
──思えば近年は、日々の暮らしの中での消費行動を「政治」として捉える動きも改めて目立つようになったと感じます。
日常美学の視点を持つということ自体が、忙しすぎる生活や社会のあり方に対する抵抗のような気もしていて。同年代の友人と話していても、大体みんな忙しくしているんですよね。すると、コスパやタイパが最優先だという発想に陥ってしまう。自分がどういう生活をしたいか、生活とはそもそもどうやって成り立っているのか、ということを考える余裕がない状況になっている。
でも、そういうあり方で本当にいいのだろうか。みんないろいろなことを頑張ってやっているけど、果たしてそれでこの社会はどこに行き着くのか。みんながこんなに苦労して働いた結果、社会は本当によくなっているのか。私の本は派手な主張をしているわけではなくて、地味に生活を分解していくという内容なのですが、それは生活を考えることを通じた社会に対する一つの抵抗であると思っています。
私たちはただの「受け手」ではない──「世界制作」とはなにか?
──そうした日常美学の中でも、今回はご著書でも紹介されていた「世界制作」という概念にフォーカスを当てたいです。そもそも「世界制作」とはどのような概念なのでしょうか?
日常美学の第一人者ユリコ・サイトウは、毎日の生活における私たちの感性の働きが、世界のあり方を決めていると考えました。例えば、建築家やデザイナーは職能として、私たちが暮らしている場所をつくっていますね。対して私たち、つまりプロフェッショナルではない人たちというのも、実はただの受け手ではなくて、「世界」をつくっているというわけです。
普通の人々にも美的な感受性があって、それにもとづいた選択の一つひとつが世界を形づくっている。例えば、不格好だけど味は遜色ないような野菜は廃棄されがちですが、あえてそれを買うようにすることで、少しづつサステナブルな社会になっていく。日常的な私たちの行為の積み重ねが世界をつくっており、その行為というのが、実は論理や倫理だけじゃなくて、感性的なものにもかなり基づいて推進されているということを指摘するのが世界制作という概念です。
日常美学の対象は本当に多岐にわたっており、その全容は日常美学者でも掴めていないくらいなので、「世界制作」という概念を念頭に置いていない日常美学も当然あります。ただ、「世界制作」というキーワードを用いていなくとも、日常美学の研究の多くは、私たちの「行為者」的な側面を重視しています。受動的な存在ではなくて、自分たちで能動的に何かを行う。その結果が世界のあり方に影響する、ということに関心を向けているんです。
──芸術とは切り離されて考えられてきた「日常」が「制作」の対象であるという捉え方は、一つの価値転倒ですね。
少なくとも西洋においては、創造性とはまず第一に神に紐づけられる能力でした。人間はもちろん神のように無から何かを生み出すことはできないけれど、それに類似する力を持っているのが芸術家だと捉えられてきたんです。
ですから美学においても、神のような創造性を宿しうる存在として、芸術家が想定されてきたという歴史がありました。つまり、「生み出す」「つくる」という行為自体が、芸術家と非常に強く結び付けられていた。そうした中で、芸術家以外の人が何かを生み出すということは大きなパラダイムシフトとなりました。
──近年、誕生から100年を目前としたタイミングで再び注目を集めている「民藝運動」に近いものを感じました。民藝運動の提唱者である柳宗悦は、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると論じています。
実はユリコ・サイトウもよく柳を引いているんです。サイトウは柳の他にも原研哉や深澤直人といった日本のデザイン文脈の人々をよく引用しながら、暮らしの中で使えるものが美を持っているとはどういうことなのか、あるいはそれが美的かつ倫理的とはどのようなものか、などを論じています。
ただ、他方で民藝運動という活動を考えた時に、都会の男性たちが“地方”に出かけて行って、“無名”なものを見つけて..……といった実践である側面も否定できないので、それをどのように語るかというのは、すごく難しいだろうと思います。
「家」と「世界制作」
──『「ふつうの暮らし」を美学する』の終章は「家と世界制作」となっていますが、青田さんが世界制作において特に「家」に着目しているのはなぜですか?
日常美学は本当に多岐にわたる事柄が対象となります。例えば、お祭りや結婚式といったハレの日の営みも芸術ではないし、生活の一部である。あるいは災害なども日常生活にカットインしてくる。日常美学の問題になりうるものはかなり幅広いんです。
ただ私は、その中でもできる限り、“日常オブ日常”を扱いたいという意図がありました。そうした話題として料理、片付けなどについて考えていくと、それらが展開している場として、「家」があることに気がつきました。
──日常の中でもとりわけ「ケ」の要素が強い場所として、「家」に着目されたと。
この本の執筆は2021年の秋頃からスタートしたのですが、ちょうどパンデミックで家にこもることが増えていた時期でもありました。そこで改めて「家とは何なのか」とよく考えるようになったんです。パンデミック以前は、いつもどこかに出かけるか、研究室にいるかという感じで、家はただ寝るだけのような場所でした。でもパンデミックが発生し、育児も始まって家にこもるようになりました。その時改めて、「家とは『いつも帰ってくる場所』であり、否が応でも生活の中心にあるのだな」と思ったんです。
また、2020年秋の出産直前から、建築や都市計画など多分野の人々が集まって開いている「自宅から始まる建築・都市・環境」研究会という取り組みにも参加していまして。そこで考えたのは、自宅というのは本来、家屋にとどまるものではないということです。例えば家の前の道で遊んだら、その道も自分の暮らす場所の一部になりますし、公園にもそのような側面があります。そうした拡張可能性がある「家」という場所について、新しい時代に向けてもう一度考えようとする研究会でディスカッションをした経験も大きかったと思います。
──世界的に移民がますます増え、生まれ育った「家」が決して自明ではない現代という観点でも、「家」から「世界制作」を考える意義は大きいと感じます。
本の中でも映画『ノマドランド』を通じていわゆる家屋を持つ以外の暮らし方について言及しましたが、私自身、「いろいろな暮らし方がある」という点にも関心があります。ですので、本書における「ふつうの暮らし」は何か社会全体を見たときのスタンダードとしての「ふつう」ではなく、それぞれの人のとってのふだんの暮らしということを想定しています。
基本的に生活というのは、ストップすることができません。私も締め切りに追われていると、一番最初に生活が犠牲になるのですが、それでも完全にストップはできないわけですよ。食べる・寝るといった基本的なことは、絶対にやめられない。そうした営みが全部出てくる場所として、家があるのが、面白いなと思うんです。
「自分の感じ方を反省するための言語」を与えてくれる
──私たちの「世界制作」のあり方を考えた時、あるべき「世界制作」のかたちといいますか、何か指針のようなものは存在するのでしょうか?
「世界制作」という営みにおいては、具体的すぎる指針のようなものを確定しない態度がすごく大事な気がしています。私の本の一章は機能美の話、二章は片付けの話をしていますが、私自身は特定の椅子がすごくいい、とか、この片付け方がいいという具体的な提案は一切していなくて。ミニマリストのように何も持たない生き方も、家にたくさん好きなものを置く生き方も、どちらも正当化されうると思うんです。
つまり、日常美学を学んだら明日からどう生きればいいか具体的な行動指針がわかる、というようなことはありません。そういう意味では、歯痒さもあるでしょう。実際に自分の生活環境などを改善するという時には、美学の観点だけでは足りないので、具体的にそういうものを指針に落とし込むことを得意とするような人たちとの協働が必要になってくると私は考えています。
──日常美学は「世界制作」の指針を提供しているツールではない、と。
日常美学の観点から考えると、モノや出来事、自分の感じ方を吟味することができるんです。例えば、いま美しいと思っているものは、なぜそのように感じるのか。あるいは逆に醜いと思うものに対して、どのように面白さや良さを見つけられるのか。時間をかけなければできないことですが、世界制作という概念、ひいては日常美学という学問は、自分の感じ方を反省するための言語を与えてくれるものだと思っています。
──「世界制作」のための具体的なノウハウではなく、「世界制作」という視点から日常生活を捉え直すこと自体が大事なのですね。
私の本を読んでも、明日からどう生きればいいかがすぐわかるわけではありません。でも、普段生きている中で感じていたことはこういうことだったのか、と考えることはできるかもしれません。
街に花を植えておけば綺麗だと思っていたけれど、本当にその花は街を綺麗にしているのだろうか。あるいは家の中を家具店のモデルルームのようにしていて「綺麗だな」という気持ちになっていたけれど、本当に自分の感性が満足している状態なのか。そういうことをいちいち考える態度が、まず必要だと思っています。
もちろん行動にあたっては、最終的には何か指針に落とし込むことにはなると思いますが、その指針はかなりケースバイケースな気がしていて。むしろそのケースバイケースを受け入れる余裕みたいなものを、自分の中に生み出すための言葉を増やすことが必要だと思っています。私自身が美学に求めているものは、やはり人の感じ方など、通常は言語化しにくいものをなるべく明晰に語ってみることなんです。それで問題点が見えてくることもありうるだろうし、新たな気づきを得られることもあると思っています。
(Text by Junya Shinohara, Interview&Edit by Masaki Koike)
【8/27開催】新イベントシリーズ始動!「世界制作」から日常を捉え返す──環境美学・日常美学研究者 青田麻未【Academic Insights #1】
デサイロでは新たなレクチャーシリーズ「Academic Insights」が始動。第1回は、本インタビューに登場した、環境美学・日常美学研究者の青田麻未さんが登壇。8/27(火)20時より、オンラインにて無料開催します。
建築家やデザイナーといったプロフェッショナルだけでなく、日常的な私たちの行為の積み重ねが世界をつくっている──「世界制作」という概念、そして「日常美学」という学問分野の可能性や現代的意義について、本イベントでは、青田さんより直接レクチャーいただきます。
自らの「ふつうの暮らし」を見つめ直し、その捉え方が変わるきっかけ、そして「自分の感じ方を反省するための言語」を獲得するような時間にできればと思っておりますので、ぜひふるってご参加ください。
■イベント日時
2024年8月27日(火) 20:00〜21:30@Zoomウェビナー
■イベント参加申し込み(無料)
以下のGoogleフォームより、必要事項を記入のうえ、参加申込をお願いいたします。
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■イベント内容
20:00-20:45:青田さんによる「世界制作」概念のレクチャー
20:45-21:30:モデレーターによる深堀り、参加者の皆様からの質疑応答