人はなぜ「韻」を踏むのか。モンゴルのシャーマニズムとヒップホップ文化から紐解く「韻の魔力」【文化人類学者・島村一平×西浦まどか】
最近、どんな「音楽」をしましたか?
楽器や歌が趣味という方だけでなく、暮らしの中でつい口ずさんでしまう鼻歌や、聞こえてきた音楽にふと体を揺らしてしまうこと……人は赤ちゃんから老人まで、みんなが何らかのかたちで「音楽」をします。
お腹が満たされるわけでも病気が治るわけでもないのに、世界中どこでも人は歌ったり踊ったり楽器をかき鳴らしたりしている──これはなぜなのでしょうか。
「ろう者と音楽」の関わり、言語と音楽の根源的な関係に関する研究を行っている文化人類学者の西浦まどかさんは、対談講座シリーズ「『人はなぜ音楽するのか』音楽人類学入門」(共催:FILTR×De-Silo)を開催しています。
(前回記事)つながりの技としての音楽、孤独の術としての音楽──ボリビアの伝統音楽から考える【文化人類学者・相田豊×西浦まどか】
この記事では、同講座の第3シリーズで行った、モンゴル研究を専門とする文化人類学者・島村一平さんをお迎えした対談をダイジェストでお届けします。モンゴルのシャーマニズムとヒップホップ文化を研究している島村さんは、「シャーマンはラッパーであり、ラッパーはシャーマンである」と言います。両者の共通点を紐解くことで見えてきたのは、「韻を踏むこと」に秘められた魔力の正体でした。
西浦 まどか(にしうら・まどか)
東京大学学術研究員。博士(学術)。2016年に東京藝術大学音楽学部(音楽学)を卒業後、2024年に東京大学大学院 修士課程・博士課程(文化人類学)修了。2021年-2022年・2023年-2024年にハーバード大学 客員研究員。「人はなぜ『音楽』をするのか」を根源的な問いとして、2016年に映画『LISTEN リッスン』に出会ったことなどをきっかけに、「ろう者と音楽」の関わり、言語と音楽の根源的な関係に関する研究を始める。ろう者の出生率が遺伝的に高い、インドネシアのブンカラ村にて、文化人類学的なフィールド調査を行っている。
島村 一平(しまむら・いっぺい)
国立民族学博物館・教授。文化人類学・モンゴル研究専攻。博士(文学)。 1969年愛媛県生まれ、兵庫県西宮市育ち。1993年早稲田大学法学部卒業後、テレビ番組制作会社に就職。取材で訪れたモンゴルに魅せられ制作会社を退社、モンゴルへ留学する。モンゴル国立大学大学院修士課程修了(民族学専攻)。モンゴルで延べ7年過ごす。日本に帰国後、総合研究大学院大学博士後期課程に入学。同大学院を単位取得退学後、国立民族学博物館講師(研究機関研究員)、滋賀県立大学人間文化学部准教授を経て現職。2024年フランス高等研究実習院(EPHE)招聘教授。著書に『増殖するシャーマン』(春風社)、『ヒップホップ・モンゴリア』(青土社)、『憑依と抵抗』(晶文社)、『辺境のラッパーたち』(編著、青土社)など多数。
モンゴルのシャーマンは“ラッパー”である
西浦 島村さんが文化人類学者として、モンゴルにフォーカスしようと考えた理由からお聞かせいただけますでしょうか。
島村 そもそも、私は最初から研究者になろうと考えていたわけではなくて、大学を出たあとテレビ番組の制作会社に入社しました。その仕事の中で、とある音楽番組を制作するためにモンゴルに行ったんです。
モンゴルに1ヶ月ほど滞在しながらさまざまな場所でロケをしていたわけですが、テレビ番組制作の現場ってとてもハードで、1日3時間ほどしか寝られずかなり疲弊していました。ある日、すべての作業を終えてパッと満天の星を見上げた瞬間、「あれ、ひょっとして俺は前世はこの国で生まれたんじゃないか」という思いに囚われてしまった。いま考えてみれば、明らかに勘違いというか妄想でしかないのですが、人は追い込まれると爆発的な妄想力を発揮してしまうものなのかもしれません。
そうして帰国し、モンゴルで撮り溜めた素材を編集して番組を仕上げたあと、「モンゴルに行きたい」ではなく「モンゴルに帰りたい」という気持ちすら抱くようになりました。会社を辞めたあといろいろと調べてみると、モンゴルのある大学に外国人向けの語学コースがあるということを知り、そこに潜り込む形で生活を始めました。そして、そのまま大学院に進む中で、気が付けば研究の道を進んでいたという感じです。
西浦 とてもおもしろいご経歴ですね。モンゴルの中でも、なぜ研究対象としてヒップホップ文化やシャーマニズムを選んだのでしょうか。
島村 モンゴルでシャーマンに出会ったことがきっかけです。当初はシャーマンの映像を撮ろうとしていたのですが、それだけでは何もわからないことに気がついて、文化的なコンテクストを学びたいという思いから大学院に進むことを決めたんです。そこでシャーマニズムについて研究をしているうちにおもしろくなり、それが本業になっていました。
そして、研究するうちに、シャーマニズムとヒップホップには文化的な連続性があるのではないかと感じるようになりました。これは本日のキーワードでもある「韻の憑依性」にもつながる話です。
その「連続性」の背景にあるのは、中央アジアの牧畜民族に古くから根付いている「韻を踏む口承文芸」の伝統です。モンゴルのシャーマニズムもこの一部に位置づけられるのではないか、そして、彼らがやっていることは、ラッパーたちのフリースタイルラップと同じことなのではないか、と考えたのです。つまり、「シャーマンはラッパーであり、またラッパーはシャーマンである」と。今日は、この意味を明らかにできればと思っています。
「ヒップホップがざわめく国」、モンゴルの現在
島村 まずは、モンゴルの概況に触れておきましょう。みなさんご存じの通り、モンゴルはアジアの中央部分、中国の北側に位置しています。国土は日本のおよそ4倍ですが、人口は日本の約30分の1で、350万人ほどです。
「草原の国」というイメージが強いかもしれませんが、現在は「地下資源の国」と言えるほどたくさんの石炭や金、銅、レアアースを産出しており、遊牧民は人口の10%を切っています。2000年代に入ってから急激な経済成長を遂げ、給与水準は日本には及ばないものの、物価は今や日本と同程度です。
そんなモンゴルでは、いまヒップホップが爆発的に流行しています。どこでもヒップホップが流れていますし、モンゴルは「ヒップホップがざわめく国」と言える。YouTubeで配信されているモンゴル人アーティストがつくったヒップホップの再生数が数百万回を超えるのは普通のことで、中には2,000万回を超える再生数を叩き出す曲もあります。モンゴルの人口が350万人だということを踏まえれば、これはかなり高い数字です。日本のヒップホップでも、再生回数が1,000万回を超えている曲はそんなに多くないと思いますし、このことからもモンゴルにおけるヒップホップ人気の高さが伝わるのではないでしょうか。
西浦 なぜ、モンゴルではそこまでヒップホップが人気なのでしょうか。
島村 言語的な要因が大きいと思います。モンゴル語はラップに向いているんですよね。ラップって、音がパーカッシブにならなければいけないわけですが、子音が重なると音がパーカッシブになりやすい。日本語は、すべての音が母音と子音のセットになっていますよね。「ありがとう」は「a/ri/ga/to/u」となる。だから、基本的に子音が連続することはありません。
一方、モンゴル語では子音が3つ連続することはよくありますし、なかには6つの子音が連続する言葉もあるわけです。たとえば、モンゴル語の「ありがとう」は「баярлалаа」、ローマ字で書くなら「bayarlalaa」です。実際に発音するときは、母音弱化が起こり「bayarllaa」となる。文字で見ていただけるとわかりやすいと思いますが、「rll」と子音が3つ連続するわけですね。あとは、日本のラッパーである般若の人気曲の一つに『やっちゃった』という曲がありますが、これをモンゴル語に訳すと「алдчихсан(aldch(i)khs(a)n)」となり、子音がほぼ6連続することになります。
そして、ラップと言えば「韻(ライム)」ですが、モンゴルのラッパーたちは非常に優れた韻踏みの技術を有しています。ここからは実際にいくつかの曲を聴いてもらいながら、モンゴルのラッパーたちの優れた技術に触れてもらいましょう。最初に紹介するのは、Kaというラッパーの、その名も『Rhymes』という曲です。途中からは、ほとんど単語ごとに韻を踏んでいるくらい韻を踏みまくっているので注目してみてください。
島村 いかがでしたでしょうか。非常にパーカッシブなラップが展開されているのがわかると思います。
西浦 言葉というか、声そのものが打楽器のようでしたね。
島村 2曲目に紹介するのは、NENEという若手ラッパーの曲です。モンゴルと言えば、チンギス・ハンなどマッチョな男性のイメージが強いかもしれませんが、女性の社会的地位はおそらく日本よりも高く、実際、医師と弁護士と教師の70%が女性なんです。そういった背景もあり──日本にもかっこいい女性ラッパーがたくさんいますが──モンゴルではたくさんの女性ラッパーが活躍してます。NENEもその一人です。
島村 この曲でNENEは「ドゥギドゥグドゥ」といった擬音、音楽用語で言えばスキャットを多用することで、なるべくライムを使わない形でラップを成立させていて、とても実験的です。
最後に紹介するのは、NMNの『tsahilbaa』です。これまでの曲に比べると落ち着いた曲調の恋歌で、最大の特徴はモンゴルの伝統的な楽器である馬頭琴を取り入れていること。日本においては「ラップ×伝統楽器」の組み合わせはあまり聴かれませんが、モンゴルではかなり一般的なものなので、その意味でもモンゴルらしい曲だと言えます。
西浦 馬頭琴以外にも笛や琴のような楽器が使われていましたが、それらもモンゴルの伝統楽器なのでしょうか。
島村 そうですね。日本ではロックなどのジャンルで伝統楽器を用いるアーティストはいるものの、先ほども言ったように、僕が知る限りヒップホップに使われることは少ない。世界中のラップを聴くと、トラック(曲)にその国の伝統音楽を取り入れた楽曲は少なくないのですが、日本は極端に少ないんですよね。これは日本のヒップホップの特徴のひとつだと言えます。
その理由はさらにリサーチする必要がありますが、伝統音楽をポピュラーミュージックに取り入れることに対する忌避感があるのではないかと思っています。
モンゴルに根付く「韻踏み」の伝統
島村 モンゴルのラップミュージックに触れてもらったところで、モンゴルのラッパーたちがいかに優れた韻踏みの技術を持っているかについて話していきたいと思います。結論から言えば、モンゴルには古くから根付く「韻踏み文化」があり、それがラッパーたちの技術の基礎をなしていると考えられます。
たとえば、中央ユーラシアの遊牧民たちが語り継いできた英雄叙事詩やそれに類する口承文芸は、すべて頭韻を踏むという特徴があります。さらに言えば、古くから伝わることわざや、早口言葉、祝詞、喧嘩歌、あるいはシャーマンが精霊を呼ぶときに歌う召喚歌などでも、必ず韻が踏まれています。こういった韻を踏む伝統が現代詩にも受け継がれ、ラッパーたちにも継承されているわけです。
ハンガリーの東洋学者であるジョルジュ・カラは、「頭韻がモンゴルの口承文芸の特徴である」と指摘していますが、実は頭韻だけではなく、中間韻や脚韻も踏んでいることが多い。だから、個人的にはカラの説明は不十分だと思っています。
また、ウォルター・オングという英文学者は、「韻とは、一種の記憶術である」と言っています。これはまさにその通りで、常に移動しながら生活を営む中央ユーラシアの遊牧民たちに、重く、荷物になってしまう本などの媒体は馴染みません。詩や物語は口承されるものであって、そのためには詩や物語を記憶しておく必要がある。そうして、さまざまな詩や文学のなかに、「一種の記憶術としての韻」を多用する文化が形成されたと考えられます。
西浦 ちなみに、文字はいつごろから使われているのでしょうか。
島村 モンゴルに関して言えば、チンギス・ハンの時代、つまり13世紀ごろにモンゴル文字が制定され、当然記録のために使用されていましたが、基本的にはいわゆるエリート階層だけのものでした。そのころから伝わる文字文学もあるのですが、そういった文字で書かれたものですら韻が踏まれているんです。
有名なもので言えば、『元朝秘史』というチンギス・ハンの一代記を中心とした史書があります。基本的には散文で書かれているのですが、会話部分になると韻を踏み始めるんですよね。歴史書でも韻を踏んでしまうくらい、モンゴルには韻を踏む文化が根付いているんです。
西浦 そういった伝統をラッパーたちも受け継いでいるということでしたが、音楽家ではない市民にも韻を踏む文化が継承されているのでしょうか。
島村 はい。すべての人が韻を踏むことに親しんでいます。というのも、学校の授業でさまざまな口承文芸を学ぶんですね。その中には、ダイラルツァーといって、まさにラップのフリースタイルバトルのような「喧嘩歌」もあります。
西浦 かなり物騒な言葉が並んでいますが、これを学校で教えているんですね。
島村 これでもマシなものを選んだんですよ(笑)。内容は二人の子どもが互いに見下し合って「お前はガキだ」と言っているような感じですが、見事に頭韻と脚韻の両方を踏んでいます。このように、モンゴルの人々は子どものころから韻を踏むことが当たり前になっていて、その技術がヒップホップにも応用されているわけです。
ここでもう1曲聴いてもらいましょう。QUIZAというラッパーの『Hiimoriin san(風馬香経)』という曲です。
島村 歌詞を書き出すと以下のようになります。ほぼほぼ単語毎に韻を踏んでいるような状態になっていて、韻踏みの技術としては完成型とも言えるとも言える1曲です。
韻を踏むことによって、「言葉」という精霊を召喚する
島村 ここまで紹介してきた口承文芸やヒップホップの韻踏み文化と同様のことが、モンゴルのシャーマンの文化にも見られるのです。
2000年代の前半、ウランバートルに住んでいたころ、シャーマニズム研究の一環として地方にフィールドワークに行くとシャーマンたちが太鼓を叩きながら、韻を踏んだ祈祷歌を歌っていました。そして、ウランバートルに帰ってきても、マイクを握ったラッパーたちが韻を踏んでいる。そこで、両者には何か関係があるのではないかと考え始めました。これが、冒頭に出てきた「韻の憑依性」の研究につながります。
「韻の憑依性」について触れる前に、まずはモンゴルのシャーマニズムについて解説していきましょう。モンゴルのシャーマンたちは下図にあるように獣の毛皮をまとって、太鼓を叩いて踊りながら精霊を憑依させる存在です。
西浦 出で立ちからして、神秘的な雰囲気ですね。モンゴルではこうしたシャーマンは広く一般的にいるのでしょうか。
島村 基本的に、モンゴルのシャーマニズムは、右上の地図上の黄色い星がついている2つの辺境地域にしか残っていません。
たとえば、フブスグル県東北部にはダルハドというマイノリティ民族がおり、彼らはシャーマニズムを継承しています。モンゴルの人口の80%はハルハ・モンゴルと呼ばれる民族で、ダルハド人は18世紀から19世紀にかけてこのハルハ・モンゴルと戦い、敗れて辺境の地に押しやられることになりました。ダルハドは狩猟民族なのですが、その族長はシャーマンでもあります。
現代のダルハド人のシャーマンには、戦いに敗れた祖先の怨霊が憑依するんです。そして、ハルハ・モンゴルや多くのハルハ・モンゴルたちが信仰するチベット仏教、ひいてはブッダへの恨みつらみを一人称で歌い、語ります。つまり、シャーマンは歌い、語るうちに「戦いに敗れた祖先」になり、その人はシャーマンの口を通して悲劇の歴史を語るわけです。
もう一つのシャーマニズムを継承する民族であるブリヤートのシャーマンは、一人称で歌うわけではなく、「○○出身の○○という人よ、どうか私に憑依し、美しく歌いたまえ」と呼びかけて、次第に呼びかけた人の人格に変化していきます。
西浦 シャーマンの憑依の語りには、彼ら民族が背負っている歴史や政治が含まれるというのは、マジョリティから周縁化された人びとのひとつの抵抗の姿としても見えてくるのですね。
島村 こうしたシャーマンたちは、ラッパーと何か関係性があるとは考えていましたが、そのことを決定づけるような出来事がありました。その出来事とは、ある日私の運転手を務めていた男が突然シャーマンになったことでした。これは2012年ごろの話なのですが、当時モンゴルでは急にシャーマンになる人が増加し、人口の1%がシャーマンになるという現象が起こったんです。
長年ドライバーを務めてくれ、信頼関係もあったので「シャーマンについて教えてくれ」と頼んでみたんです。「精霊って一体何なんだ」と聞くと「兄さん(モンゴルの男性たちは、親しい同性の年長者を「兄さん」と呼ぶ)実は精霊って“人間”ではないんだよ。精霊を呼ぶための召喚歌を歌っているうちに自然に言葉が出てくるんだ。その言葉こそが精霊なんだよ」と言うのです。
フィールドワークをする中でも、ある女性シャーマンがまったく同じことを言っていました。モンゴル語で精霊は「オンゴト」と言うわけですが、その人は「オンゴトは人の姿をした先祖の霊などではなく、言葉そのものなのではないか」と言っていたんです。その後も同じようなことを言うシャーマンたちに出会いました。そうして私は、モンゴルのシャーマニズムにおける「精霊」とは「韻を踏む言葉そのもの」なのではないか、と考えるようになったんです。
島村 上図はシャーマンのイニシエーションを実施している場面です。この儀礼を通してシャーマンになる人に初めて精霊が降りてくることを、彼らは「口が割れる」と表現します。「口が割れる」とは、すなわち「自然に言葉が出てくるようになる」ということです。韻を踏みながら召喚歌を歌ううちに、自然と精霊としての「言葉」が出てくるようになる。それが、シャーマンになるための条件なんです。
つまり、シャーマンとラッパーたちはいずれも「韻を踏める」ようになったことで、シャーマン、あるいはラッパーになったと言えるのではないでしょうか。
シャーマンたちは、いかにして「トランス状態になる」のか
島村 シャーマンがいかに精霊を降ろすか、言い換えれば「いかにトランス状態に至るか」については、これまでさまざまな角度から研究がなされています。ただし、これまでの研究のほとんどが「インプット」に着目したものでした。
たとえば、「音」に焦点を当てた研究は数多く存在します。古くは、19世紀オランダの官僚であり、民俗学者だったジョージ・ウィンケルは、当時オランダの植民地だったインドネシアの文化習俗を研究する中で「太鼓」に着目しました。インドネシアの人々が執り行う憑依儀礼の秘密は太鼓の音にあると指摘したわけです。また、ウノ・ハルヴァというフィンランドの言語学者は、シャーマンたちが使うドラムを「昂奮促進用具」と呼びました。
一方で、著名なシャーマニズム研究者であるミルチャ・エリアーデは、さまざまな研究を通して楽器の種類というよりも「リズム」に憑依の秘密があるのではないかと考え、ドラムそのものの重要性には懐疑的だったようです。
とはいえ、ウィンケルにせよハルヴァにせよエリアーデにせよ、多くの研究者たちが「インプット」にシャーマニズムと憑依の秘密を見出そうとしていたことは間違いありません。ドラムの音、あるいは特定のリズムを聴く、すなわち「インプット」することで、シャーマンたちはトランス状態に至っているのではないかと考えていたわけです。
しかし、シャーマンたちは儀礼の中でインプットしかしていないわけではありません。シャーマンたちはしゃべり、歌い、踊りながら祈りを捧げている。つまり、「アウトプット」もしているにもかかわらず、従来の研究においてアウトプットに関する議論はほとんどありませんでした。
そんななか、フランスの民族音楽学者、ジルベール・ルジェは『MUSIC AND TRANCE』、すなわち『音楽と憑依』という著書の中で、「音楽と憑依の間に直接的な関係はない」と指摘しました。もう少し詳しく言えば、「(憑依状態は)憑依が生じる儀式の文脈における特定の音楽との関係に依存している」と言っているわけです。つまり、儀式という文脈があって初めて憑依状態が生じるわけであって、音楽そのものがその状態を引き起こしているわけではない、ということですね。
島村 そしてフランスの人類学者、ロベルタ・アマヨンによって「音楽と憑依」の関係を巡る議論は終わりを迎えます。アマヨンは「トランス(憑依)」に相当するシベリア語やモンゴル語は存在しないことを指摘し、「『トランス(憑依)』は、西洋世界がねつ造した概念である」と喝破したわけです。
「韻を踏むこと」は人に何をもたらすのか
島村 ただ、モンゴルで出会ったシャーマンたちが、何かに憑依されたかのように、自らの言葉ではない言葉を生み出しているのは事実です。そのような状態がいかに生じているのかを考える中で、私が提起したのが先の「韻の憑依性」に関する議論です。モンゴルのシャーマンたちは「韻を踏むこと」によって、何かに憑依されているような状態になっているのではないかと。そして、韻を踏むことによって生じる「憑依」とは、自らが意識して語る言語とは異なる、意識的には操作できない言語を自動的に語らしめるテクノロジーなのではないかと考えるようになったんです。
西浦 なぜ「韻を踏むこと」が、「コントロールできない言語を語らしめること」につながるのでしょうか。
島村 「韻を踏む」ということは、音を揃えるということであり、ときに「意味」が後回しになることがあるからです。私たちはふだん、言葉の「意味」が伝わるように発話していますよね。私はそれを「意味中心主義の発話」と呼んでいます。一方、韻を踏むこと、すなわち「音を揃えること」を重視する発話は「音声中心主義の発話」です。
音声中心主義の発話の特徴は、ときに意味が“壊れる”ことにあります。ラッパーがフリースタイルをするとき、韻を踏もうとするあまり、意味が通らないことを言うことがありますよね。それと同じく、モンゴルのシャーマンたちも韻を踏みながら歌ったりしゃべったりする中で、意味が通じない言葉を口走ることがあるため、儀礼の際にはシャーマンの隣に必ずと言っていいほど通訳のような役割を担う人がいます。実際にシャーマンに精霊が入ってくるシーンを見てみましょう。
太鼓を叩いているのがシャーマンで、隣にいるのが通訳兼サポート役の方です。精霊が入ってきたとき、シャーマンが韻を踏みながら何かしらを言っているのがわかったかと思いますが、その言葉は意味不明なものです。それに対して、サポート役の方が「あなたをお迎えします。どのようなお方か名乗っていただけますか」と挨拶をしているわけですが、お互いに韻を踏みながら言葉を交わしています。
西浦 それぞれの言葉は決まり文句のようなものなのでしょうか。
島村 サポート役の方の挨拶は決まり文句ですね。一方で、シャーマンは韻を踏んでしゃべる中で自然と意味の通らない新しい言葉を生み出しているわけです。
西浦 トランス状態にあるということは、意識が朦朧としていると思うのですが、そのような状態でも韻が踏めるのですね。
島村 意識は朦朧としていないんですよ。これは、シャーマンになった元ドライバーから聞いたことなのですが、「トランス状態になり、口から意味不明な言葉が出てくるとき、頭のどこかで『何を言っているんだ俺は』と思っている自分がいる」と。
そのことから考えると、「韻を踏む」ということは、ある意味で“口”と“脳”を分離させるための方法論とも言える。つまり、韻を踏みながら歌い、しゃべっているうちに、言葉が意識や思考を追い越すことになる。そして、その様子を客観視している自分もいる、そんな状態だと考えられます。
脳内にある膨大な“語彙の海”から、「意味」ではなく「音」のつながりで言葉を選び取る、というより“選らばされる”。だからこそ、普段であれば選択しないような言葉が口を突いて出て来たり、これまで結びつくことがなかった複数の言葉がつながったりするわけですね。シャーマンが新たな言葉を生み出す際の、ある種のクリエイティビティの源泉とは「韻の憑依性」なのだと考えています。
そして、ラッパーたちもまた、「韻の憑依性」を源泉にクリエイティビティを発揮する存在です。たとえば、日本のラッパーである漢 a.k.a GAMIは、自伝の中でフリースタイルラップをしている際に自然と言葉が出てくることを「神が降りてくる」と表現していますし、同じくラッパーのダースレイダーは、ラップをする際の感覚を「中動態」という概念を使って説明しています。言葉を「しゃべっている」(=能動)わけでも「しゃべらされている」(=受動)わけでもなく、「自らの中で言葉が生起する」ような感覚だということですね。
西浦 なるほど、面白いですね。
島村 繰り返しにはなりますが、「意味」から離れ、「音」にフォーカスすること、すなわち韻を踏むことが、新たな言葉を生み出すことにつながり、その現象がシャーマンたちの語りや歌にある種の力を付与している。そして、ラッパーたちが吐き出す言葉にも同じ力が宿っているわけです。そのような意味において、シャーマンはラッパーであり、ラッパーはシャーマンだと言えると考えています。
さらに言うならば、シャーマンもラッパーも周縁的な存在です。私が調査の過程で出会ったシャーマンたちの多くが、混血であることやマイノリティであることを理由にいじめられたり、コミュニティから排除されたりした経験を持っていました。そして、ラッパーたちのなかにも、貧しい家庭に生まれ、経済的な理由からコミュニティの外に追いやられた経験を持つ人は少なくありません。
そのような経験を経て、シャーマンやラッパーになり、韻を踏むことを通して爆発的なクリエイティビティを発揮している。そしてそのクリエイティビティを武器に、社会のシステムや常識に反抗し、それらを超えていこうしているわけです。
「韻の憑依性」を生み出すのは、「音声」か「身体」か
西浦 ありがとうございました。とても興味深いお話でした。
私から少しコメントをさせていただきたいと思います。まず、「韻を踏むこと」は言語学者であるローマン・ヤコブソンが提唱した、言葉の「詩的機能」を担っているのだと感じました。言葉を聞く人に「意味」ではなく「音」に注目させることによって、言葉を日常から前景化させる、つまり他の言葉から「浮き立たせる」機能を果たしているわけですよね。
だからこそ、アメリカの第32代大統領、ドワイト・アイゼンハワーが選挙キャンペーンで「I like Ike(アィ ラィク アィク)」というフレーズを使用したり、「♪セブン-イレブン いい気分」といったように、政治や広告の世界でも韻を踏んだ言葉が用いられる。このように、従来から「韻を踏むこと」から生じる力は人々に言葉をインプットさせるために利用されやすいということは指摘されていましたが、島村さんのお話を聞いて、韻は「アウトプットさせる」ためのテクノロジーとしても機能するのだと感じました。
つまり、「セブン-イレブン いい気分」という言葉は容易にインプットできると同時に、何気なく口にしたくなる言葉だと思うんです。聞き心地がいいだけではなく、口触りがいいというか。インプットしやすいだけではなく、ついアウトプットしたくなるという側面があるからこそ、韻を踏んだ言葉は人から人へと伝わりやすくなる。だからこそ、ビジネスや政治に利用されるのかもしれないと思いました。
島村 おっしゃる通りですね。そしてそれは、「韻を踏むこと」が諸刃の剣であり、危険な側面も持ち合わせているということを意味しています。たとえば、アメリカではラッパーが民衆を煽って暴動が起きた例もありますし、ヒトラーの演説は韻こそ踏んでいないものの、言葉のリズムを巧みに操ることで、大衆心理に訴えかけました。
さらに言えば、アマゾンの先住民を対象としたフランスの人類学者ピエール・クラストルの研究では、カシケと言われる首長に選ばれる条件の一つに「弁舌鮮やかに歌い、語れること」があるとされています。カシケはいわゆる近代社会における権力者とは異なるのですが、「韻を踏むこと」や「リズミカルに美しく言葉を語ること」は、モンゴルのシャーマンやラッパーたちのような虐げられている者にとっての武器になると同時に、ある種の権力を生み、強化する装置にもなり得る。この点には十分注意する必要があると思いますし、韻と政治性に関する問題は今後考えていかなければいけない大事なテーマだと思っています。
西浦 もう一つ、島村さんにお訊きしてみたいと思ったのは、「韻を踏むこと」がもたらす力とは音声性のものなのか、身体性から生じるものなのか、という問題です。
私は手話話者の言語芸術について研究をしていて、日本や欧米には「手話詩」というものがあるんです。これはヨーロッパなどで生まれた当初は、手話の「音韻」、すなわち手の形や位置などで韻を踏むことが重視されていたそうです。
だけど、「そのようなあり方は、あまりにも音声的なのではないか」という議論が生じ、徐々に手話言語そのものの美しさ、つまりは手の動きやその流れが持つ美しさにフォーカスをあてた詩が多く発表されるようになっていきました。
今回の講義の中で聴いたラップやシャーマンたちの祈祷には、高度な韻踏みの技術が詰め込まれていて、聴いているだけで得も言われない心地よさを感じました。それと同時に、もしラッパーやシャーマンたちと同じように発音できたら、唇の震えや口蓋に舌が擦れる感覚などを通して、身体的な気持ち良さも得られるのではないかと思ったんです。
このことから、韻を踏むことによって生まれる力、あるいは韻の憑依性は、韻の音声的な響きが生み出すものなのか、それとも身体的な感覚から生じるものなのか、どっちなのだろうと。
島村 とてもおもしろい問いですね。音声性と身体性は、おそらく分けられるものではないのだと思います。
ラッパーたちがラップをするとき、さまざまなハンドサインを駆使しますよね。たとえば、韻を踏むときには親指と人差し指と中指を立てて、上から振り下ろすような動きをするのを見たことがあると思います。
島村 他にも、銃など具体的なものを意味するハンドサインや、ただ強調したいときに用いるハンドサインなど、その種類は実に多様です。おそらくラッパーたちは、このハンドサインを繰り出そうとして繰り出しているわけではなく、韻を踏むと同時に身体を動かすことによって、自然と生じているものなのだと思います。
つまり、音声と身体的な動きには地続きになっている部分があるのではないかと。もちろん、完全に連動しているわけではないでしょうが、まったく切り離せるものでもないと思うんです。私たちは言葉をつかって思考するので、「音声」と「身体」という言葉がある以上、その二つを分けて考えようとしてしまいますが、本来それらの動きは同時並行的に生じるものなのだと僕は考えています。
西浦 ありがとうございます。まだまだお聞きしたいことが沢山ありますが、残念ながらお時間です。本日は島村さんに、モンゴルのヒップホップとシャーマニズムにおける韻踏みの技法と憑依をもたらす力について、お話していただきました。言葉で韻を踏むことに、特別な道具は必要ありません。身体ひとつでできます。このシンプルな――しかし高い技術を要する――行為が、モンゴルの周縁化された人びとに力を与えているのですね。
言葉を紡ぐことが「意味中心」ではなく「音声中心」に、さらにいえば「リズム中心」「音楽性中心」になったときに、既存の秩序を飛び越えた、憑依や抵抗の力を与えうる。モンゴルにおけるヒップホップとシャーマニズムの意外なつながりからは、そんな私たちと音楽との関係性のひとつが見えてくるのではないでしょうか。
(Text by Ryotaro Washio, Edit by Shiho Umehara)












表題のお名前が間違っているようです。内容はとても面白く拝読しました。