人はなぜ音楽するのか。手話話者の「うた」から、人と音楽の根源的関係を探究する──文化人類学者・西浦まどか
洗い物をしながらハミングをするとき。会話の中で溢れる思いを伝えようと、ことばに抑揚やジェスチャーをつけるとき。コンサート会場のような演奏や鑑賞のための場に限らず、私たちの日常の至るところに音楽はあります。
しかし、これは聴者だけのものなのでしょうか。
音のない世界、あるいは聞こえにくい世界を生きているろう者や難聴者は、音楽をどう捉えているのか──。
そんな壮大とも言える問いを、多角的なアプローチを通じて解き明かそうとしているのが、人類学者の西浦まどかさんです。
西浦さんは「手話でうたう」人々の研究を通じ、「ろう者と音楽」の関わり、そして「人はなぜ音楽するのか」という根源的な問いにまで迫ろうとしています。デサイロでも研究者を伴走支援する「アカデミックインキュベーター・プログラム」第1期の採択者として、対談講座シリーズ「『人はなぜ音楽するのか』音楽人類学入門」(共催:FILTR×De-Silo)などに取り組んできました。
(参考)“元狩猟採集民”の音楽人類学──生活と不可分な音楽をめぐって【マルチモーダル人類学者・ふくだぺろ×文化人類学者・西浦まどか】
(参考)つながりの技としての音楽、孤独の術としての音楽──ボリビアの伝統音楽から考える【文化人類学者・相田豊×西浦まどか】
本記事では、言語と音楽の根源的な関係を探究してきた西浦さんの活動の軌跡と背景にある問題意識、そして今後の展望についてインタビュー。言語偏重の現代に、新たな視点で音楽を捉え直そうとするその試みとは?
西浦 まどか(にしうら・まどか)
東京大学学術研究員。博士(学術)。2016年に東京藝術大学音楽学部(音楽学)を卒業後、2024年に東京大学大学院 修士課程・博士課程(文化人類学)修了。2021年-2022年・2023年-2024年にハーバード大学 客員研究員。「人はなぜ『音楽』をするのか」を根源的な問いとして、2016年に映画『LISTEN リッスン』に出会ったことなどをきっかけに、「ろう者と音楽」の関わり、言語と音楽の根源的な関係に関する研究を始める。ろう者の出生率が遺伝的に高い、インドネシアのブンカラ村にて、文化人類学的なフィールド調査を行っている。
「手話でうたう」とは何か──「翻訳」の問題として考える
──西浦さんは「『手話でうたう』ひとびとの人類学」を研究テーマに設定されています。「手話でうたう」という表現に馴染みがない人も少なくないかと思うのですが、手話言語を話す人々の「うた」について、改めて教えていただけますか。
私自身のひとつの転機にもなった『LISTEN リッスン』(2016)という映画についてのお話から始めるのがわかりやすいかと思います。そもそも私が手話と出合ったのは、大学の修士課程時代、日本手話の授業に出席したことがきっかけでした。そうして身体・空間の言語としての手話の世界に関心をもっていた時に、友人に誘われて見に行ったのが、『LISTEN リッスン』だったんです。
『LISTEN リッスン』は、ろう者の人々がろう者にとっての「音楽」をさまざまな形で表現している、全編サイレントのアートドキュメンタリー映画です。聴者から見ると基本的にはダンスのように見えるパフォーマンスで構成されているのですが、手話を元にした表現や手話詩がところどころに挿入されています。
私にとってはこの映画で表現されているアイデアが非常に衝撃的で。ろう者にとって「うたう」ことは、もしかすると無音の手話から生まれた動きの延長線上にあるものなのかもしれない──この映画を見たことで、そう考えるようになりました。
──音が付随する、いわゆる聴者にとっての「うた」とは別に、ろう者の世界の「うた」があるのではないか、ということでしょうか?
はい。無音であっても、ろう者はからだの動きや響き自体を楽しむものとして「うたう」のではないか。コミュニケーションにおけるより根源的なものとして「うた」を捉えているのではないか、と思ったんです。そこから日本における手話や歌をめぐる文化について研究を始めました。
特に興味深く思ったのは、日本には、聴者が歌を添えつつ、歌詞の単語一つひとつに対応する手話をつけていく手話歌というものがあるのですが、ろう者の中には手話歌を快く思っていない人も多いということです。私には、手話歌のあり方と『LISTEN リッスン』で提示されたろう者の音楽というものが対照的に感じられ、この違いはどこにあるのだろうと考えるようになりました。
そこで修士論文においてはこの違いを「翻訳」の問題として捉え、聴者の音楽をろう者の世界に翻訳することの研究に取り組みました。
──聴者の音楽をろう者の世界に翻訳する、とは具体的にどのような作業になるのでしょう?
少なくとも修士論文の段階では、3種類の翻訳があるのではないかと考えていました。
まず1つ目は、すでに聴者の世界にある歌の歌詞の意味を日本手話に翻訳するやり方。現状、多くの「手話歌」がとっているアプローチがこれになります。たとえば「翼をください」という歌の場合、歌詞を「今/私の/願いごとが」と単語ごとに区切って、単語レベルで翻訳しているわけです。
ただ、実はこのアプローチでの「翻訳結果」は、言語学的には「日本語」であって「日本手話」ではないという問題があります。日本で使用されている手話には「日本語対応手話」と「日本手話」という2種類があるのですが、聴力の度合いや聴力を失ったタイミングによって使いやすい言語が違うと言われています。前者は日本語を喋りながら単語をひとつずつ手話単語に切り替えていくものなので、すでに日本語の文法を身につけている難聴者や中途失聴者には馴染み深いのですが、先天性のろう者が主に使用しているのは後者です。
そして手話歌で用いられるのは日本語対応手話であるため、ろう者からすると手話歌で使われていることばは手話というより「日本語」なんですね。ですから、手話歌ではろう者にとってのアイデンティティである手話が名前だけ使われているという理由もあって嫌悪感を覚えている人も少なくないそうです。
──手話歌の手話は、あくまで聴者の世界の言語を基盤にしているものだということなんですね。
はい。そして 2つ目は、メロディやリズムなど楽譜に書ける音楽の要素を音以外にする試みです。音の高低に合わせて手の高さを変えることで、メロディを視覚的に表現しようとするやり方などがこれに含まれます。実はこのアプローチも、ピンと来ないろうの方が多いそうです。
そして、こうした背景がある中で、音楽という概念をろうの人々に伝えようとしたらどうなるかを考えるのが、3つ目の翻訳になります。私の研究としては、この3つ目にもう少し本格的に取り組んでいく足がかりをつくっていきたいと考えています。
──音楽という概念をろうの人々に伝えていく足がかりをつくるため、具体的にはどのような研究のアプローチを取っているのでしょう?
いま私が迫ろうとしているアプローチは大きく分けて2つです。
ひとつはことばがなぜうたになるかを順番に紐解いていくアプローチ。たとえば私たち聴者が日本語を使ってコミュニケーションをとる上でも、ことばに抑揚をつけたりすることによって、ことばが詩(うた)と呼ばれる領域に踏み込んでいくことがありますよね。また、ことばがなくても「ダバダバ」とか「ルルル」で歌うこともできる。こういったグラデーションがある中で、手話を用いてことばから詩、詩からうたがどのように変化していくのかを辿っていきたいと考えています。
そしてもうひとつは、ろう者の出生率が高いコミュニティとして世界的に知られており、現地でうまれた手話が住民の間で使われている、インドネシアのブンカラ村でのフィールドワークを通じたアプローチです。ブンカラ村のろうコミュニティの人々は明確な芸術ジャンルとして「手話でうたう」ことはしないものの、日常的に用いる手話の表現そのものが、欧米や日本といった都市のろうコミュニティにおける「手話詩」の表現技法をふんだんに含んでいるんです。さらに、ブンカラ村の人々の日常生活は踊りに溢れており、彼ら・彼女らはしばしば「遊び」として踊ります。直感的にではありますが、この、音楽の中の「遊び性」のようなものが、私たちの音楽との付き合い方においても重要なのではないかといま考えているところなんです。
音楽を「遊び」という身体経験として捉える
──音楽の中の「遊び性」が重要かもしれないという仮説、とても興味深いです。
「ハンドルに遊びがある」といった使い方もあるように、遊びということばには「ゆとりがある」「自由に動く」「ほかのものと関わり合う」という意味がありますし、「遊」という文字そのものには「移動する、動き回る」という意味もあります。「遊び」の中には他者と関わり合う遊びはもちろん、たとえば手元で輪ゴムをいじったりするようなひとり遊びもありますよね。そういった遊びをするときに私たちは、世界や環境や他者と自分との関係性を、自由に動き回りながら探索しているのではないかと思うんです。
もちろん「遊び」に関しても膨大な研究群がありますから、いまはまだ自分のフィールドのデータとも照らし合わせながら模索している段階です。ですが、他者、あるいは世界や環境との関わり方のひとつとして遊びというものを捉えるならば、「遊びとしての音楽」は音のない音楽について考える上でのキーになっていくのではないかと考えています。
──たとえば、私たちが手に持っているペンを無意識のうちに回しているとき、大げさに言えば、その行為を通じて環境と自分との関係性を調節・再構築しようと試みている側面があるように思います。それにあたってのひとつの機能を、音楽がもっているかもしれない、と。
そうですね。これは自分の感覚の話になりますが、音楽を聴く、あるいは自分が演奏したり踊ったりする上で「感動した」「うまくいった」と感じる場って、その場にいる人たちが自由に「遊んで」いる状態だったように思うんです。
ろうの人々と音のある音楽との関わり方においても、たとえばブンカラ村の人にせよ日本の人にせよ、「リズム通りに楽器を叩いてください」と伝えれば、みなさんそれはできるんですよ。リズムの法則は視覚的にもわかりますから。でも、それで「遊べない」ときもおそらくあるんです。仮に、ろうの人々が手話の動きを通して世界と関わろうとする過程が「遊び」なのであれば、たとえそこに「音」がなかったとしても、それは聴者が踊ったりリズムに身を委ねたりしている状態と近いのかもしれない、と思っています。
音楽という概念から一度音という存在をカッコに入れ、それを「遊び」という身体経験と結びつけてみることによって、新たなものの見方ができるかもしれない。それが「音のない音楽」の世界に迫るための、私の現在のアプローチです。
──現代においてはどうしてもコミュニケーションのからだから切り離された言語的な側面が注目されがちですよね。そういった中で、身体的な言語と切り離せないろうの人々のコミュニケーションについて知ることは、いまの時代だからこその意義を持っているようにも感じます。
まさにそうだと思います。私たちの日常のコミュニケーションは、辞書や文法書で分析できるようなものだけではなく、実際にはもっとさまざまな社会文化的なものを組み込み、複数の要素でできた出来事として進んでいます。そういったことをことばやコミュニケーションにフォーカスして読み解いていく研究分野が文化人類学の下位領域にありまして、「言語人類学」と呼ばれています。2024年までアメリカのハーバード大学に留学したときに学んでいたのも、実はこの言語人類学でした。
私自身、「人はなぜ音楽するんだろう」という問いだけでなく、人のことばやコミュニケーション一般に対してもずっと関心を抱き続けてきました。音楽もインタラクションの重なりですし、うたのことばとの関係を考える上でも、辞書や文法書だけではわからない部分はとても重要になってくると思います。まだ私も模索中ではありますが、単語や論理レベルの言語偏重の現代だからこそ、それらを相対化する文化人類学的な知見が必要だと考えています。
音楽学から、文化人類学の道へ
──研究の内容や背景にある問題意識についてお話しいただきましたが、少し遡って、人はなぜ音楽するのかという問いに西浦さんが惹かれるようになった経緯についても聞いてみたいです。
音楽好きの一家に生まれ、幼い頃からクラシック音楽が身近にあったことが影響としては一番大きかったのではないかと思います。私自身もピアノやバイオリンなどを習わせてもらっていて、どちらもあまり熱心には練習しなかったものの、楽器を演奏したり歌ったり踊ったりすること自体はずっと好きだったんです。
それと並行して、中学生の頃からの趣味が「レポートづくり」でした。友人から聞かれた身の回りの疑問について調べ、レポートにまとめて共有するというのを個人的にやっていたんです。そして姉が東京芸大の楽理科に進学したのをきっかけに「音楽学」の存在を知り、音楽についてレポートを書けたら面白そうと考え、私も楽理科の門を叩きました。
芸大って、さまざまな楽器のレッスンや実技の授業を選択できるんです。そこでお琴や三味線、中国琵琶、バロック声楽といった異なる時代・土地の音楽を実技として複数学ぶ機会を得たことで、世界には本当にさまざまな音楽の形があるのだと身体で知りました。そういった背景もあり、「そもそも音楽ってどうして存在するのだろう、人はなぜ音楽するのだろう」という問いにしっかりと取り組みたいと思うようになったんです。
──修士からは東京大学の文化人類学研究室に進まれていますが、その問いに対して音楽学ではなく、文化人類学という学問を通じてアプローチすることを選んだのはなぜだったのでしょう?
音楽学の対象は「音楽」なので、個々の音楽の歴史や理論を明らかにすることが中心になりがちなのですが、私は「人はなぜ音楽するのか」という、むしろ社会文化の側面にずっと関心がありました。そうした中で文化人類学と出会い、「これだ」と思ったんです。実際にフィールドで生活を丸ごと経験しながら探究する文化人類学は、社会的な文脈なども肌で体感しながら世界中の音楽を知っていくという、それまで学んでいた民族音楽学の研究プロセスとも親和性がありました。
それに、シンプルに文化人類学という学問の蓄積がとても魅力的に見えたことも大きかったです。自分の当たり前だと思っていることが他の地域や他の民族、他の集団の人々にとってはまったくそうではないということが、とてもおもしろく感じたんですよね。
「歴史記述型」と「概念創出型」。双方を冠した研究へ
──今後、西浦さんがどのように研究を深めていこうとしているかについても教えてください。
少し抽象的な話になってしまいますが、前提として私は、人文学には2種類のアプローチがあるのではないかと考えています。暫定的な呼び方になりますが、「歴史記述型」と「概念創出型」です。
「歴史記述型」では、物事の歴史的・文化的な背景や構造を明らかにしそれを記述することに重きをおきます。ここでの「歴史」には共時的な歴史、すなわち今現在世界でどのような物事や出来事があるのかも含まれ、文化人類学の民族誌的記述の部分もここに該当すると思います。
一方、もうひとつの「概念創出型」は物事の見方を変えるために概念をつくることです。たとえばブルデューの「ハビトゥス」という概念がありますが、その概念を知ることで私たちは、社会文化的な思考や行動、感じ方のパターンが身体レベルで埋め込まれているのかもしれない、と現実経験を異なるレンズで見ることができるようになるわけです。
各学問分野によって、どちらをより重視するかには違いがありそうですが、記述を重視する学問分野においても新たな概念を生み出すことは大切ですし、具体的な記述のない概念的な研究だけでは誰も納得できないように、このふたつのアプローチの往還を通じてこそ後世に残る研究が生まれると思っています。
自分の研究に引き寄せて言えば、聴者である私にとってろうの人々は、自分の知りえない新たな世界を知る人たちです。そんなろうの人々がこれまでどのように音楽やことばと関わり、うたをうたってきたかをできるだけ正確に記述しつつ、その記述を通して、新しいものの見方を提供していくことを目標にしたいと考えています。
──歴史記述と概念創出の二者択一ではなく、双方のアプローチの往還を目指したいと。
はい。「ろうの人々にとっての音楽とは」という問い自体が大きなものですし、ある程度長い時間がかかることは想定しているのですが、出発点である「人はなぜ音楽するのか」という問いに対しては、さまざまな方向からアプローチができるのではないかと思っています。
たとえば、ラテンアメリカなどの地域では、サンバの演奏の中でフライパンを叩く行為がしばしばおこなわれるそうなのですが、その場においてはフライパンも「楽器」と呼べそうだなと。じゃあそもそも楽器ってなんだろう? という疑問からも最初の問いに近づけそうだなと思います。
また別の例を挙げるなら、イスラム教でお祈りの時間を伝えるためにモスクから流されるアザーンはメロディックな節がついていますが、教義上「音楽ではない」とされているそうです。しかし仮に何も知らない人がそれを聞いたら音楽では? と感じるかもしれないですよね。
──おもしろいですね。「楽器」や「音楽」の定義そのものが、環境に応じて変化する可能性がある。
そうなんです。私はそういった境界領域にあるもの、アンビバレントなものに特に惹かれるので、そうしたさまざまな事例やものの見方からアプローチしつつ、「人はなぜ音楽するのか」という問いを深めていきたいと思っています。
また私自身、修士時代からたくさんの研究者の仲間たち、あるいは家族・友人とのディスカッションに刺激や勇気をもらいながら研究を続けてきた実感があります。研究は決してひとりでおこなうものではないと思うので、今後も他の人たちの研究について知ることのできる場や対話のできる場には常に身を置いていきたいです。
──対話の場としては、2024年以降は、対談講座シリーズ「『人はなぜ音楽するのか』音楽人類学入門」(共催:FILTR×De-Silo)にも取り組まれていますよね。最後に、研究に限らず、今後チャレンジしてみたいことについて聞かせてください。
最近は、自分がおもしろさを感じる研究の世界を、そのおもしろさを損なわずいかに社会の中で活かしていくかについて模索しています。
ひとつポイントとなりそうなのが、アイデアや知見をどのような形に「翻訳」していくか。やはり研究もコミュニケーションですから、この翻訳のあり方が鍵になると思うんです。現状としては、ことばを通じて得たデータを論文の形に翻訳することが、もっとも厳密に歴史記述と概念創出の双方を実現できるアウトプットだと感じています。けれど場合によっては論文のことばではなく、もっと普段づかいの会話のようなことばにすることもできるかもしれません。
そして、もともと音声言語話者である自分の中の目標としては、いつか手話で思考するという領域までたどり着きたい。そのためにも、フィールドで学んでいる手話への理解をより深めていこうと思っています。
Text by Shiho Namayuba, Photographs by Kazuho Maruo, Interview&Edit by Masaki Koike











