“元狩猟採集民”の音楽人類学──生活と不可分な音楽をめぐって【マルチモーダル人類学者・ふくだぺろ×文化人類学者・西浦まどか】
最近、どんな「音楽」をしましたか?
楽器や歌が趣味という方だけでなく、暮らしの中でつい口ずさんでしまう鼻歌や、聞こえてきた音楽にふと体を揺らしてしまうこと……人は赤ちゃんから老人まで、みんなが何らかのかたちで「音楽」をします。
お腹が満たされるわけでも病気が治るわけでもないのに、世界中どこでも人は歌ったり踊ったり楽器をかき鳴らしたりしている──これはなぜなのでしょうか。
人文・社会科学分野の研究者を伴走支援する「デサイロ アカデミックインキュベーター・プログラム」第1期の採択者である西浦まどかさんは、「ひとはなぜうたをうたうのか――『手話でうたう』ひとびとの人類学」をテーマに研究を進めています。その一環として2024年7月、オンラインをベースに新しい知を獲得し、共に学ぶ人たちと繋がれるこれからの学校の形を目指すあたらしい学びの空間「FILTR」とコラボレーションし、全3回のオンライン講座「『人はなぜ音楽するのか』音楽人類学入門」(共催:FILTR)を開催しました。
この記事では、同講座の第2回で行った、マルチモーダル人類学者・詩人・アーティストのふくだぺろさんとの対談内容をダイジェストでお届けします。ルワンダの元狩猟採集民であるトゥワ・ピグミーと呼ばれる人びとを研究しているふくださん。日本とは全く異なるトゥワの人びとの音楽のあり方を通して見えてくる、音楽が社会や文化、そして個人の人生に果たしている意味とは?
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【10/23,30開催】「人はなぜ音楽するのか - 対談講座シリーズ」 音楽人類学入門 文化人類学者・西浦まどか ゲスト: 相田豊さん「音楽の孤独とつながり―ボリビアのフォルクローレ音楽家から考える」
西浦 まどか
玉川大学 非常勤講師(文化人類学・日本語表現)。2016年に東京藝術大学音楽学部(音楽学)を卒業後、2024年に東京大学大学院 修士課程(文化人類学)修了。2021年-2022年・2023年-2024年にハーバード大学 客員研究員。「人はなぜ『音楽』するのか」を根源的な問いとして、2016年に映画『LISTEN リッスン』に出会ったことなどをきっかけに、「ろう者と音楽」の関わり、言語と音楽の根源的な関係に関する研究を始める。ろう者の出生率が遺伝的に高い、インドネシアのブンカラ村にて、文化人類学的なフィールド調査を行っている。
ふくだ ぺろ(ゲスト)
マルチモーダル人類学者・詩人・アーティスト。
立命館大学先端総合学術研究科博士課程在籍。アフリカ大湖地域を主要なフィールドとして、テクスト、ドローイング、写真、映像、インスタレーションなど様々なモードを駆使することで、人々が「生きる」「現実」がどう個人的/集合的に作られるのかを多感覚的に探究する。代表的な作品に、映像『sitting, gazing, gazed』(2020)、詩集『flowers like blue glass』(2018)、インスタレーション「yoyo」《im/pulse: 脈動する映像》展(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018)、論文「具象のポリフォニー:音―イメージ知性の特徴とダイアローグ」(川瀬慈他編『拡張するイメージ──人類学とアートの境界なき探究』2023、所収)など。『現代詩手帖』新鋭詩集2020選出、マンチェスタ一国際映画祭2016実験映画賞受賞。
テクストによる知とは異なる論理で探究する「マルチモーダル人類学」
西浦 本日は、日本とは異なる音楽実践の事例として、中央アフリカの「トゥワ・ピグミー」という方々の音楽とその社会・文化的な背景について、マルチモーダル人類学者・詩人・アーティストのふくだぺろさんに教えていただきたいと思っています。そもそも、ぺろさんのご専門である「マルチモーダル人類学」とは、どのような学問領域なのでしょうか?
ふくだ 一般的な文化人類学では、フィールド調査をして、調査結果を論文や書籍などのテクストに書き起こしますよね。それに対してマルチモーダル人類学では、映画やサウンド、パフォーマンスなどテクストに限らないさまざまなメディアで表現したり、テクストであったとしても学術的なものに限らず、詩や小説などのさまざまなモードを活用したりします。
「テクストで考える」とは、概念によって複雑なものを分節化して、その中から法則や秩序をつくり出すことだと思います。しかし、日々の実践やフィールドで得られる現実というものはもう少し複雑で雑然としていたり、感覚的/感情的な色合いが含まれており、テキスト化のプロセスではそうしたものがしばしば失われてしまう。テクストによる知とは異なる論理でそうしたものを探究しようというのが、マルチモーダル人類学の試みなのです。
西浦 マルチモーダル人類学に関心を持つようになったのは、従来の人類学の手法に限界を感じられたからなのでしょうか?
ふくだ いえ。もともと僕はアーティスト活動をおこなっていて、その中で人類学的な知見を織り込んで創作をしていました。そこで『リヴァイアサン』という、ハーバード大学のマルチモーダル(映像)人類学者がつくった映画を観て、「マルチモーダル人類学というものがこの世にある」ということを知ったんです。
論文を書くだけではなく、映画などのさまざまなモードを使う人類学があることを知り、それで人類学をやろうと思ったわけです。逆に言えば、テクストだけだったら、僕は人類学をやろうと思っていなかったと思います。
西浦 もともとアーティストとして活動していて、そこから人類学に入っていくための窓口として、マルチモーダル人類学があったのですね。アーティストとして人類学的な知見を織り込んで創作していたというのは、具体的にはどういうことなのでしょう?
ふくだ たとえば、「差別」というテーマで小説を書こうと思ったとき、「差別とは何なのか」という普遍的な問いについて、「日本対西洋」のような二項対立や偏ったデータから捉えようとしてもうまくいかない。文化人類学者の川田順造さんが「文化の三角測量」という言い方をしていますが、もうちょっと違うものを参照したいなと思い、たとえばインドをフィールドに文化人類学の研究をしている関根康正さんの本を参照したりしていました。
西浦 「文化の三角測量」は、川田順造さんがフランス留学中に、アフリカのモシ人という文字を持たない民族の社会について日本人として研究をする中で提唱されていた考え方ですよね。2つの場所だけだと、両者の違いに焦点を当てるだけで終わってしまいますが、そこにもう3つ目の場所を加えることで、比較が立体的になるという話でした。
私自身も、二項対立的に捉えたり、特定のフィールドの専門家になるだけではなく、世界中のさまざまな場所を比較できる点こそが、文化人類学の面白いところだと思ってます。
ふくだ そうですね。「文化の三角測量」については、少し本質主義的──「日本はこうだ」「フランスはこうだ」「モシはこうだ」と決めつけ過ぎているのではないかという批判もありますが、二項対立でものごとを考えることの弊害は非常に大きいので、二項を三項にするという視点は、僕も非常に重要だと思います。
「生活」と共にあるトゥワ・ピグミーの音楽
西浦 マルチモーダル人類学をきっかけに研究するようになった文化人類学のフィールドワーク先として、アフリカを選ばれたのはなぜでしょうか?
ふくだ ピアニストである妻の影響もあって、もともとアフリカの音楽がすごく好きだったんです。エチオピアジャズのムラトゥ・アスタトゥケ、デザートブルースのティナリウェン、アフロビートのフェラ・クティなどをよく聴いていて、アフリカという大陸そのものにも興味を持っていました。
修士課程ではルワンダ移民について論文を書き、博士課程の予備調査のため、妻と娘とルワンダに渡ってトゥワ・ピグミーという人たちと生活を共にすることになりました。トゥワ・ピグミーとは中央アフリカに住むピグミー系集団のひとつで、元々狩猟採集を生業としていた人々。彼らは「音楽のひと」としても知られており、トゥワ・ピグミーのリズムはルワンダの音楽の基礎になっています。トゥワに宗教はない、トゥワの宗教は歌と踊りだといった議論がなされることもありますね。
こうしたトゥワの人々の音楽に、特に妻が衝撃を受けまして。彼女のピアニストとしてのバックボーンはクラシックピアノにあるのですが、クラシックはとりわけ音楽と生活が遊離しているところがあるじゃないですか。そんな中で彼女は「音楽って何なんだろう?」と考えるようになっていて、トゥワの人々の音楽に出会った。その時彼女は、トゥワの人々にとって音楽は「生活」であり、「生」そのものであると捉え、音楽の根源的な価値や意味を感じたそうです。そうして彼女は「ルワンダ万歳!」となっていましたね。僕はルワンダ語が思ったよりうまくならなかったりで、けっこうアンビバレントな感情を抱えていましたが……。
西浦 とても興味深いです。具体的には、どのような音楽なのでしょうか?
ふくだ 実際に観てもらうのが早いでしょう。この映像は、普段研究に協力してもらっているトゥワの人々へのお礼として、僕がパーティーを開いたときの映像です。酒を飲んで、歌って、踊ってという場なのですが、ここまで規模の大きなパーティーではなくとも、トゥワの人たちは毎日、酒を飲んで歌って踊っています。
西浦 とても盛り上がっていますね! 民族音楽学者のトマス・トゥリノは、音楽のパフォーマンスには、特別なスキルを持つ人がステージに上がって演奏する「上演型」と、誰でも演奏やダンスに参加できる「参与型」の2種類があるという議論をしています。見せていただいた動画はまさにその場にいる人がみんな演奏に参加している「参与型」そのものだなと思いました。
それからクリストファー・スモールが提唱する「ミュージッキング」という概念も想起しました。主に作曲家・指揮者・演奏者の手によるモノとしての音楽作品ではなく、たとえばホールという建築物、聴衆・ホールの経営者・チケットもぎり・掃除のひと……音楽実践に何かしら関わる人全員が担い手となって作り上げられる、「出来事としての音楽すること」を意味する概念です。
見せていただいたトゥワの人々のパーティーもミュージッキングの場として捉えられると思うのですが、日本と文脈やあり方が異なっていて面白いですね。まず、みんなで円になって手拍子をしながら、いわゆるポリフォニー、合唱のような形で、それぞれ異なるメロディを歌っているのが印象的でした。あと、コンガのような太鼓をばちで叩いている人、真ん中で踊っている人たちもいましたよね。これって、歌や踊りや太鼓をやるのは誰かというのは、もとから決まっているものなのでしょうか?
ふくだ こうした宴会のことを「イギタラモ」と言うんですが、このイギタラモは僕がダティバというホストマザーにお金を渡してオーガナイズしてもらっており、彼女がオーガナイザーなので、彼女もしくは彼女の周りの人が太鼓を叩きます。それ以外の、誰が踊る、誰が歌うというのは完全に自由です。
西浦 なるほど。それから映像の中ではすごく滑らかに次の曲、次の場面に移っていくのも印象的でした。次の曲に移るタイミングは、どのようにして決まっているのでしょうか?
ふくだ まず、トゥワの曲は基本的にコールアンドレスポンスで成り立っています。リードシンガーがいて、コールアンドレスポンスで音楽が動いていく。
そして曲の構成要素で一番大事なのはリズム、すなわち太鼓と手拍子と足踏みの3つなのですが、必ずしも太鼓やリードシンガーが主導権を握るわけではありません。誰もがその場の雰囲気や気分に合わせて次の曲を決め、他の人がそれが流れに沿えば、新たな演奏が始まります。
西浦 誰が何をやっても良くて、なんなら「何もしないでただ居る」だけの人もいる。そして次にどの曲をやるか、どんな歌詞を歌うかなどもその場でなんとなく決まる――この出来事としてのミュージッキングの自由さが、面白いですね。
音楽と不可分な「政治性」、そして「身体性」をめぐって
ふくだ まさにそうだと思います。一方で「上演型」と「参与型」の区分で言えば、稀に「上演型」の演奏がされることもあります。こちらの動画を観てみてください。
西浦 衣装のようなものを身に着けており、公的な場での演奏という感じがしますね。これはどのような状況での演奏だったのでしょうか?
ふくだ 県の首長が来て講演をした際に、出し物としてトゥワの人々による音楽が披露されたという状況です。ただ、こうした「上演型」の演奏は、トゥワの人々の音楽の中ではかなり珍しいですね。外国人観光客に依頼されて演奏することはときどきありますが、首長が来て演奏をしたのは僕が知る限りこの1回だけです。
また、こうした公的な場では創作歌やポップスは歌わず、政治歌や伝統歌を歌うといった区別はあります。踊りについても、彼ら自身の踊りをしているというよりは、より公的な場にふさわしい踊りをしています。
西浦 彼らの歌にもさまざまな種類があるのですね。
ふくだ はい。僕はトゥワ・ピグミーの歌を、大きく5つに分類して整理しています。1つ目は「創作歌」、自分たちで作る歌ですね。2つ目は「アフリカン・ポップス」、現在ルワンダ、ウガンダ、タンザニア、コンゴ民主共和国などで流行っている歌です。3つ目の「伝統歌」とはその名の通りの伝統的な歌で、4つ目の「教会歌」はキリスト教の教会がつくる歌です。
5つ目の「政治歌」はアフリカに顕著な歌の種類で、たとえば、「ルワンダはいい国だ」とか「ポール・カガメ(現在のルワンダの大統領)は素晴らしい男だ」とか、コロナが流行ったときには「マスクをしよう」とか。そうしたある種の政治的メッセージが、歌になるんです。
西浦 「政治的な内容が歌となって流布する」というのは、私たちの感覚からするととても面白い現象ですね。
ふくだ そうですね。「音楽と政治」というテーマについて少し補足させていただくと、ポール・ギルロイという研究者が『ブラック・アトランティック』という本の中で、「アフリカン・カルチャーにおいて音楽は政治であり、ミュージシャンは知識人である」という言い方をしておりまして、僕はそれが非常に的を射ていると同時に、音楽というものを考える上で非常に重要であると感じています。非アフリカ地域、例えば西洋や中国でも音楽は宇宙の秩序と結びつけて考えられたり、社会統治の重要な手段に位置づけられてきました。
日本では「音楽に政治を持ち込むな」という声を聞くことがありますが、これは僕のような立場の人からすると、理解しがたい主張です。どんな音楽を好み、好まないかという感性の問題は政治そのものだからです。その点、トゥワの人々やルワンダの政府は、音楽が政治であるということを強烈に理解しています。文化は政治だという認識が根付いているんです。
たとえば、先ほど観たような「上演型」の演奏においては、「揃える」ことが求められるわけですが、トゥワの人たちはそれはしない。できない。比較的バラバラに歌ったり踊ったりする。そこには、彼らの身体の政治的抵抗、音楽というものの政治性が表れていると感じています。
西浦 なるほど。単に政治家が政治的な意向をメロディに乗せるという形はもちろん、「上演型」の音楽で特定の身体の使い方が求められること、さらにはそうした要求にそぐわない身体の使い方で抵抗する部分にも、何らかのポリシーや信念が関わっているのではないかと。
ふくだ そうですね。ポリシーや信念というより、もっと身体的、感覚的なものかもしれませんが。
西浦 「身体的」というのは非常に重要な気がします。私たちが普段触れている音楽も、身体感覚のレベルで、歌っていて楽しいとか、歌詞がすごい馴染むとか、そういうことはたくさんありますよね。あるいは「ビーックビックビックビックカメラ♪」という音楽に反応してしまう身体になってしまっているとか(笑)。政治と身体性というものは非常に連続的なものであるというのは改めて発見でした。
ふくだ まさにおっしゃる通りで、僕が好きなジャック・ランシエールという哲学者は「感性的なものの分割=共有」という観点に着目して政治論を展開しています。政治とは感性を分け与えるものなのだと。
「会話としての音楽」をめぐって
ふくだ ルワンダの政治で音楽が大きな役割を果たしていることはここまで説明してきた通りですが、より日常的な情報伝達においても、音楽は使われています。次を聴いてみましょう。
西浦 「ぺろぺろぺろ」とふくださんのお名前を繰り返して歌っているのが聴こえますね。これはどういう歌なんですか?
ふくだ 「ぺろぺろぺろ」は、自然発生的に日常で歌われていた歌です。誰がつくったのかはわかりません。最初は、寝ているときに外からこの歌が聞こえてきて、「ちょっと嬉しいな」「披露してくれるのかな」と思ったんですが、僕の前での披露とかはありません。僕に披露したり、僕を祝ったりするための歌ではないのです。
歌詞としては「ぺろはカバゴロジ(村の名前)から来た」といった情報が載せられているんですが、歌詞は変わっていきます。実際に、調査を手伝ってくれているミュージシャンのベン・ンガボが「それはおかしいんじゃないか、ぺろはカバゴロジから『来た』わけではない。カバゴロジに『いる』の方がいいんじゃないか」と指摘して、歌詞が変わりました。
西浦 つまり、歌いながらうわさ話をしているんですか?
ふくだ そうなんです。僕が尊敬している文化人類学者の中島智さんが、この歌を聞いて「彼らは歌で会話をしている」と言っていたのですが、彼らは会話をしているんです。なので、歌の途中で話をしているのが聞こえると思うのですが、これは「この歌詞は違うんじゃないか」といった会話をしている。
普通の言葉と、メロディやリズムのついた歌が、彼らにとっては並列のものとして存在しています。したがって、彼らにとって音楽とは会話なのです。
西浦 現代日本の暮らしの中では、歌で会話するというシーンはあまりないですが、もしかすると歴史を遡ると意外に身近だったのかもしれません。たとえば、平安時代には和歌を詠み合うようなこともあったと思うので。
ふくだ 飲み屋でミュージシャンが行うジャムセッションもそうですよね。そう考えると、日本のような社会ではミュージシャンのようなプロフェッショナルしか「会話としての音楽」を実践していない一方、「参与型」の演奏として誰もが音楽で会話するトゥワの人々は音楽的な基礎教養のレベルが高いとも言えるのかもしれません。
音楽の「記憶喚起装置」としての機能
ふくだ また、同じ歌詞であっても、その意味を聞くと人によって答えがバラバラだったりします。それは、歌の歌詞が個人的な記憶と密接に結びついているからです。
このことは、みなさんにも直感的に理解いただけると思います。たとえば、私はいま42歳なのですが、サザンオールスターズの「TSUNAMI」を聴くと、大学1年生の頃の記憶がまざまざと思い出されたりする。そのときの状況とか付き合っていた相手とか、そういうことが思い出されたりするじゃないですか。
西浦 ええ。よくわかります。
ふくだ つまり、歌は記憶喚起装置として機能するわけです。先ほどお見せしたぺろの歌も、ぺろのためのものではなく、「ぺろが来た」ことを個々人が思い出すための喚起装置です。
ここで重要なのは、歌は集合記憶の喚起装置ではないということです。集合記憶とは、みんなで共有している同じ記憶ですが、みんながそれぞれ思い出していることは別々です。
西浦 みんな同じミュージッキングの場に居て、何かを共有している感じはあるけれど、実はそれぞれ別々の記憶と結び付いていると。
ふくだ はい。一つの歌をみんなで歌う中で、歌詞やリズムの交感が起きる。しかしそれらは統一的なものではなく、一人ひとりが別々の小宇宙がいるようなイメージです。そして、日々そうした音楽をしていくことで、感性的な交感が起きて、共同性が育まれ、リズムや音楽という「存在様式」が生まれていくのです。
西浦 2年ほど前、私とぺろさんも参加している音楽人類学のメンバーを中心に、「音楽の孤独とつながり」というテーマで「文化人類学」という雑誌に特集論文が組まれましたよね。ボリビアのフォルクローレ音楽家の研究をしている相田豊さんの主導でした。音楽の場って、「これでつながろう」「みんなで何かを共有しよう」といったように政治性を持って使われる印象がありますが、その場にいる一人ひとりは意外と孤独かもしれない──この特集を通じてそんなことを考え始めていました。その点、トゥワ・ピグミーの人々の「みんなで音楽をやるけれど、その中のは独立した一人ひとりの個人がある」という個の集合のバランスが興味深く、まさに「音楽の孤独とつながり」というテーマにつながるものだと感じました。
今回の対談では、トゥワ・ピグミーの人々のミュージッキングのあり方を通して、自分の「音楽観」が揺さぶられる心地でした。また、「人はなぜ音楽するのか」という問いに肉薄するものとして、身体・感覚・感性の次元での「政治性」、「会話」や「記憶喚起装置」としての音楽というキーワードも見えてきたと思います。毎日毎日歌い踊り騒ぐトゥワの人々の姿や社会的な状況は、私たちと大きく異なる点が多々あり、だからこそとても面白い。と同時に、私たちにとっても音楽は生活と不可分であること、そしてそれは社会や政治とつながっていることを、再認識させられますね。
(Text by Mariko Fujita, Edit by Masaki Koike)
チケット販売中!【10/23,30開催】「人はなぜ音楽するのか - 対談講座シリーズ」 音楽人類学入門
このたびデサイロは、オンラインをベースに新しい知を獲得し、共に学ぶ人たちと繋がれるこれからの学校の形を目指すあたらしい学びの空間「FILTR」とコラボレーションし、文化人類学者・西浦まどかさんによる対談講座シリーズ「人はなぜ音楽するのか」最新回を開催します。
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■講座の内容
・第1回
ゲスト-講師対談:音楽の孤独とつながり――ボリビアのフォルクローレ音楽家から考える」
ゲスト講師の相田豊さんとの対談を生配信します。 ボリビアの人々の「孤独」への向き合い方や音楽との関わり方を教えてもらいながら、音楽と孤独の関係性について考えていきます。本講座の受講者は、随時質問やコメントを投げかけることができます。
・第2回
受講者-講師ディスカッション:
これまでの講義やゲストとの対談を振り返りながら、あらためて「人はなぜ音楽するのか」を受講者全員で考えます。
■講座開催日時(全2回)
・10/23 対談 19:00~20:30
・10/30 振り返り 20:00~21:30
※ Zoomを利用し、全てオンラインで行います。
■講座の特徴
・初心者向け
・対話型 講師の話を一方的に聞くのではなく、チャットやブレイクアウトルームを使う参加形式で進みます。
■ゲストについて
相田 豊
上智大学特任助教。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。専門は、文化人類学・ラテンアメリカ地域研究。大学在学時にボリビアのフォルクローレ音楽に出会って、その魅力のとりこになり、ボリビアに住んで音楽家に弟子入りをする。この時の3年半の経験をもとに、ボリビアの人にとっての「孤独」とは何か、日本社会にとっての「つながり」とは何かを考えている。著書として『愛と孤独のフォルクローレ』(世界思想社より、2024冬に出版予定)を準備している。